第2話 僕だけが気づいたかな?
翌日。教室のドアを開けた瞬間、空気が違った。
ざわざわ、というより、きゃーきゃー、に近い。
女子の輪の中心で、桐谷瑞稀が笑っていた。
「え、髪切ったの? 肩ライン可愛い!」
「前髪の幅、神〜!」
「写真撮ろ!」
「ストーリー上げていい?」
「タグどうする? #瑞稀しか勝たん?」
スマホのシャッター音が連なって、黒髪が光を撫でるみたいに揺れる。
男子も遠巻きにざわついていた。
日野明日香が「似合う!」と親指を立て、三浦結愛が「ガチ天使〜」とひらひら手を振る。輪がもう一段、膨らんだ。
美少女が集まって、美少女を褒めている。
うん。悪くはない。
クラスの注目を集めて、祭り騒ぎだ。
「すげぇな」
席にカバンを置いた僕に、アキラが笑う。
「今日、勇気出して話しかけるチャンスじゃね?」
「……無理すんなよ。しくじるぞ」
「しくじってもいい。『前髪が尊いっすね』で、いくか?」
「やめとけよ。まぁ好きにすればいいけどさ」
黒板の上を朝の光が横切って、チョークの粉が白く舞う。
視線をずらすと、窓際の隅。いつもの席に庵野さんがいた。
このお祭り騒ぎの中でも、一人で本を読んで静かにしている。
だけど、いつもと違うところがあった。
重たかった前髪が、今日はわずかに分かれている。
分厚いレンズはきれいに拭かれて、制服のリボンは曲がらず、きっちり結ばれていた。
黒髪は毛先だけがさらっと整って、耳の上、小さな黒いピンがひとつ。
机に広げたノートの端を、ぎゅっと折れていたのに、角が真っ直ぐに直されていた。
誰も庵野さんを見ない。
教室の熱は全部、桐谷さんに吸い寄せられていた。
「……髪、整ってる」
僕はぼそっと言う。
「だよな! 桐谷さん、可愛さ最強じゃね?!」
即答するアキラ。違う、と言うほどのことでもなくて、僕は曖昧に頷いた。
「いや、別に」
「別にじゃねえよ。あの清楚ショートは事件だろ。クラス会議開けるレベルだぜ」
「会議して何を決めるんだよ」
笑いながら、もう一度だけ窓際を見る。
庵野さんはページをそっとめくる。紙の音が、ここまで届く気がした。
昨日までは、前髪が落ちてきて、指で何度も押し上げていた。
今日は、その仕草がない。
視線が一瞬こちらに流れてきて、すぐに下を向く。
癖のある毛先が、光を拾って小さく跳ねた。
……気のせい、か?
「ソラ、どう思う? 俺はどっちも似合うと思うんだよ? だから昨日までの長め? 今日の短めどっちを褒めるべきだ?」
声もかけていないのに、褒め言葉で悩めるアキラは大物だと思う。
「知らん。どっちも似合うよ。たぶん」
「たぶんはやめろ、断定しろ。俺の背中を押せ」
「押して失敗する姿を見るのはな。まぁ、頑張れ」
「失敗しても、青春って、うお! 瑞稀さん、今こっち向いた!」
「向いたのはクラス全員に対してな」
笑いが一斉に弾け、日野さんが桐谷さんの肩に抱きつく。
「午後、体育のバスケ一緒のチームなろ!」
「え、いいの?」
美少女達の絡み合いは目の保養。
桐谷さんが照れて、またシャッター音がした。
僕はペンケースを開けながら、窓際をもう一度だけ横目でなぞる。
庵野さんは、ページの端を親指で揃えて、呼吸を一つ置いた。
髪の内側、見え隠れする白いうなじ。黒いピンが、ちいさく光った。
「……静かなの、いいよな」
「は? 何の話」
「隅の席。落ち着くってこと」
「俺は真ん中で爆散したい派、リア充になりたいぜ!」
僕は前を向いた。背後で紙が擦れる小さな音。窓の外、風に揺れる街路樹の葉。
教室はいつも通りで、違うのはたぶん、誰かの前髪の長さだけだ。
それ以上でも、以下でもない。少なくとも、今の僕にとっては。
♢
そろそろチャイムが鳴るギリギリになって、岡部快が教室に入ってきた。
クラスのムードメーカーのようなタイプで、アキラと似たような平均モブ顔なのに、一つだけ大きな違いがある。
騒ぎの中心である輪の真ん中に堂々と入って行くことだ。
桐谷さんの髪切った祭りに参戦する。
「おはよ、瑞稀、結愛、明日香」
三大美少女を呼び捨てにする。
声がやたらとデカい。
「あれ? 瑞稀、髪、切ったんだ? ふーん……ロングの方が俺としては良かったけど、今も瑞稀って感じはするからいいんじゃない」
開口一番の発言に、教室の温度が下がった。
桐谷さんは笑顔を整えて「ありがと」と返事をした。
「ほら、俺らさ、昔から付き合いあるからさ。夏祭りんときなんか、毎年並んでかき氷食ってたし。長い付き合いの目線込みで言ってるから、忖度なしだぜ」
「そうだね」
代わりに幼馴染であることをアピールする岡部に、男子達は舌打ちをしていた。
昔からを、さらっと強調する。桐谷さんにかけた言葉は善意のつもりなのだろう。
続けて、 三浦さんに視線を移した。
「結愛、そのリップ、今日ちょい強め? 昨日くらいの方がバランス良かったと思うけど」
「そう? 別によくない? 大丈夫だよ〜。自分で決めるから」
「そっか、いつでも言えよ。評価してやるから」
三浦結愛はにこっと笑いながら、体だけ半歩斜めへ逃がす。岡部は気づかない。むしろ頼られたと解釈したみたいに胸を張る。
「明日香、今日バスケあるだろ。本気出しすぎんなよ。汗だくなの匂うぞ」
女子に匂うは最低だと俺でも思う。
日野明日香は答えない。
「参考になれば。こういう距離感は積み上げだからさ。他の男子には言いにくいこと、俺が言ってやるよ」
三大美少女に声をかけて、満足して頷いた。
岡部は踵を返す……かと思いきや、もう一度だけ振り向く。
「それと、今日の前髪、尊いってやつ。俺も言っとくわ。先に言われると悔しいし」
「誰に?」
「世界に」
「そっか」
瑞稀の笑顔が、輪郭だけで止まる。
岡部は三人から離れて仲の良い男子と話を始める。
「な? こういうの、急にはできないんだよ。距離って資産」
空気だけかき乱して満足している岡部に、クラスメイトは唖然としてしまう。
アキラが小声で僕の肘をつつく。
「……優越感出してるけどピエロだな」
「悪気ないのが、メンタル強そうだ」
僕らは笑って関わらない。
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