不器用なきみの、正しい壊し方
舞夢宜人
その高いプライド、私の指でめちゃくちゃに壊してあげる。
#### 第1話:休日の倦怠と微熱
午後の光が、部屋の隅に追いやられた埃をきらきらと照らし出していた。休日の空気は、溶けかけた蜂蜜のように緩慢で、息苦しいほどの甘さを孕んでいる。壁にかけられた時計の秒針だけが、この停滞した時間をかろうじて前へと進めている。
ベッドの真ん中を陣取る茅野千夜(かやのちや)は、その時間の流れから完全に取り残されていた。真っ白なシーツの海に身を沈め、片手で持ったスマートフォンに視線を落としている。長い黒髪が枕に散らばり、時折指先が画面を滑る微かな音だけが、彼女が生きている証だった。画面に映る無機質な光が、その整った横顔をぼんやりと青白く照らしている。世界で起きているどんな出来事よりも、その小さな四角い窓の向こう側が、今の彼女のすべてらしかった。
その様子を、橘巴(たちばなともえ)はベッドのすぐ脇に立ったまま、もう十分近くも見つめていた。胸の内でじりじりと焦げ付くような期待が、彼女の冷静さを少しずつ蝕んでいく。ほんの少し前まで二人で読んでいた雑誌は、床に無造作に開かれたまま放置されている。同じ空間にいるのに、千夜だけが遠い。その距離が、巴には耐え難かった。
何か、きっかけが欲しい。
このけだるい沈黙を破る、気の利いた一言。あるいは、自然な仕草。けれど、プライドという名の鎧は、こういう時に限ってうまく脱ぐことができない。ただ触れてほしい、見つめてほしい、求めてほしい。そんな単純な欲望が、喉の奥で複雑に絡まって言葉にならない。
心臓が、トクン、と一つ大きく鳴る。もう限界だった。巴は小さく息を吸い込むと、震えそうになる声を慎重に紡ぎ出した。
「……なにしてるの?」
それは、絞り出したにしてはあまりに平凡で、何の工夫もない問いかけだった。けれど、今の巴にとっては、これが精一杯の勇気だった。
千夜は、視線を画面に落としたまま、億劫そうに唇を動かす。
「んー……、別に」
返ってきたのは、温度の感じられない、気の抜けた炭酸水のような声。その一言で、巴が慎重に積み上げた小さな期待は、あっけなく崩れ去った。再び部屋を支配する、重たい沈黙。千夜の指先がまた画面を滑る乾いた音だけが、やけに大きく耳に響いた。
行き場をなくした熱が、巴の身体の内側でじわりと燻り始める。それは、これから始まる長い攻防の、始まりの合図だった。
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#### 第2話:言葉のない誘い
言葉は、無力だった。
千夜の気のない返事が溶けていった重たい沈黙の中で、巴は静かに敗北を認める。正面からの交渉が決裂した今、残された手段は一つしかない。プライドという硬い殻に守られた、柔らかな本心を差し出すこと。それは巴にとって、ほとんど降伏にも等しい行為だった。
逡巡は一瞬。燻る熱は、既にごうごうと音を立てて燃え上がっている。巴は決意を固めると、音を立てないように慎重にベッドへと膝を乗せた。柔らかなマットレスが、彼女の体重を受け止めて静かに沈む。猫のようにしなやかな動きで、スマートフォンの光に没頭する恋人の背後へと回り込んだ。
千夜の背中が、すぐそこにある。薄いコットンのルームウェア越しでも分かる、しなやかで、けれどどこか硬質な、巴が最も好む場所。巴は一度だけごくりと喉を鳴らし、息を詰めた。そして、まるで壊れ物に触れるかのように、自分の身体をゆっくりと千夜の背中へと重ねていく。
最初に触れたのは、肩甲骨のあたり。そこから、吸い寄せられるように全身をぴたりと密着させた。とん、とん、と自分の心臓が早鐘を打つ音が、千夜の身体にまで伝わってしまいそうで焦る。柔らかな胸が、彼女の硬い背中にむにゅりと押し付けられ、その感触に全身が粟立った。服一枚を隔てて伝わる、自分よりも少しだけ低い体温。それは、冷たいようでいて、抗いがたいほどに心地よかった。
その瞬間、千夜の指が、ほんのわずかに止まった。
巴の心臓が跳ねる。気づいた。気づいてくれた。しかし、その期待はすぐに裏切られる。千夜の指は、何事もなかったかのように再び滑らかに動き出し、画面の情報を追い始めた。背中にぴったりと寄り添う巴の存在など、まるで気にも留めていないかのように。
もちろん、千夜はすべてを理解していた。背中に感じる柔らかな感触と、必死さを物語る心臓の鼓動。そして、耳元で次第に熱を帯びていく甘い吐息。言葉を失ったかわいいネコちゃんが、身体という最後のカードを切ってきたのだ。そのいじらしさに口元が緩みそうになるのを、千夜は必死でこらえる。まだだ。まだ、この静かな攻防を楽しんでいたい。
拒絶されなかったことに安堵しながらも、無視され続けているという現実に、巴の羞恥心は限界に近づいていた。けれど、一度触れてしまったこの温もりを手放すことは、もはやできなかった。甘えるように、もう少しだけ強く身体を押し付ける。熱のこもった吐息が、千夜の白いうなじにかかった。
「……ちや」
吐息に紛れて漏れたのは、懇願するような、か細い声だった。
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#### 第3話:一枚の布の向こう側
懇願を乗せた吐息は、返事を得られないまま虚しく宙に溶けた。千夜の背中は、まるでこちらの感情をすべて吸い込んでしまう分厚い壁のようだ。これ以上ないほど身体を密着させているというのに、心の距離は一向に縮まらない。布越しに伝わる体温だけが、二人がまだ同じ世界にいることを証明していた。
このままでは駄目だ。
巴の内で、焦燥感が警鐘を鳴らす。もっと、直接的に。もっと、生々しく。この人を振り向かせるためには、中途半端な覚悟では足りない。巴は一度、名残を惜しむように身体を離した。失われた温もりに、肌が寂しさを訴える。
彼女は静かに背中へ手を回すと、指先でブラジャーのホックを探り当てた。冷たい金属の感触。世間で見せる「橘様」としての自分を支える、最後の砦の一つ。これを外すことは、千夜の前でさらに無防備になることを意味する。羞恥で耳が熱くなるのを感じながらも、巴の指は迷わなかった。ぱちん、と控えめな音を立てて、最後の拘束が解かれる。肩紐を抜き、レースのあしらわれたそれをそっとベッドの脇に滑り落とした。解放された胸が、少しだけ軽くなる。
もう一度、深く息を吸う。先程よりもずっと大胆に、巴は再び千夜の背中に己の身体を預けた。今度は、二人を隔てるものが一枚減っている。
その違いは、あまりにも鮮烈だった。
柔らかな素肌が薄いコットン越しに捉えるのは、千夜の無感動な背骨の硬質な輪郭。その一つ一つをなぞるたびに、自身の肌が熱を帯びていくのがわかった。硬さと柔らかさの対比。熱を帯びた乳首の先端が、千夜の服の布地にきゅっと擦れるたび、巴の腹の底からぞくぞくとした快感が駆け上がった。
「……っ」
思わず漏れた甘い声に、今度こそ千夜の身体がはっきりと反応した。
ごろん、と。まるで今の今まで巴の存在に気づいていなかったとでも言うように、千夜は寝返りを打って仰向けになった。それは巴の身体から逃れるための動きであり、紛れもない拒絶の形。しかし、巴の心は、絶望とは違う感情で満たされていた。
動いた。反応してくれた。
この人は、私の存在を、私の熱を、確かに感じてくれている。その事実だけで、打ちひしがれていた心に光が差すようだった。
一方、仰向けになった千夜は、内心で高揚を覚えていた。背中に感じた、布一枚隔てただけの生々しい感触。それは、これまで感じていた「じゃれつき」とは明らかに質の違う、本気の熱だった。無視を続けるには、あまりにも刺激が強すぎる。だからこそ、一度距離を取った。だが、その行動自体が、自分が彼女に揺さぶられていることの証明に他ならない。
千夜は、まだスマートフォンから視線を外さない。しかし、その画面の向こうで、彼女の意識は完全にベッドの上の恋人に注がれていた。プライドを少しずつ脱ぎ捨て、必死に自分を求めるいじらしい姿に、愛おしさが込み上げてくるのを止められなかった。
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#### 第4話:最後の砦
攻防は、再び膠着状態に陥った。
仰向けになった千夜は、相変わらずスマートフォンの世界に意識を沈めている。その顔に焦りや動揺の色はなく、まるで巴の存在など意にも介していないかのような、凪いだ表情がそこにあった。しかし、一度は得られた確かな反応が、巴の心を諦めの淵から引き戻していた。まだ、終われない。終わらせない。
じっとりと汗ばむ手でシーツを握りしめながら、巴はどうするべきかと思考を巡らせる。そんな彼女の視界に、新たな希望が飛び込んできた。それは、無造作に立てられた、千夜の片膝だった。
リラックスした体勢で曲げられたその足は、シーツの上に小さな山を形成している。頂上である膝頭が、天井に向けてつんと尖っている。それは巴の目には、まるで「ここへ来い」と誘う灯台の光のようにも、あるいは、乗り越えるべき最後の城壁のようにも見えた。
とんでもない考えが、脳裏をよぎる。
まさか。そんな、はしたないこと。羞恥心が全身の血を沸騰させ、思考を麻痺させる。プライドが、理性のかけらが、必死に警鐘を鳴らしていた。やめなさい、と。これ以上みじめな姿を晒してどうするのだ、と。
だが、身体の奥深くで燃え盛る欲望の炎は、もはや理性という名の少量の水では消し止められそうになかった。一度火照ってしまった身体は、ただひたすらに千夜の体温を、その確かな存在を求めている。
巴の葛藤は、数秒にも満たなかった。欲望が、羞恥に勝った。
彼女は覚悟を決めると、もう一度だけ千夜の顔色をうかがう。反応はない。その無関心をいいことに、巴はゆっくりと、本当にゆっくりと、自分の腰を動かし始めた。マットレスの上を、にじり寄るように。一ミリ、また一ミリと、目標である千夜の膝へと、その距離を詰めていく。
心臓の音が、耳のすぐ側で鳴り響いている。
あと、ほんの数センチ。彼女の身体の中心にある、最も熱く、最も敏感な場所が、その硬い骨の感触に触れる寸前。薄いショーツの布地が、じわりと熱い湿り気を帯び始めていることに、巴自身はまだ気づいていなかった。
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#### 第5話:膝上の摩擦熱
もう、後戻りはできなかった。
一度身体が覚えてしまった熱は、巴の中から羞恥心という最後の理性を焼き尽くしていく。彼女はもう何も考えられなかった。ただ、目の前にある確かな硬さと熱を、もっと感じたい。その一心で、体重をぐっと前方へと預けた。
布と布が擦れ合う、鈍い感触。その下で、千夜の硬い膝の骨が、巴の最も柔らかな場所をぐりぐりと刺激する。最初は恐る恐るだった腰の動きは、得られる快感に比例するように、次第に大胆さを増していった。自らが生み出す摩擦熱が、じわりと滲み出た蜜と混ざり合い、ぬぷり、と湿った音を立て始める。
「ん……っ、ぁ……」
吐息に、隠しきれない甘さが滲む。もはや千夜を誘うためではない。ただひたすらに、自分の身体が求める快楽に突き動かされているだけだった。その無様で、必死な姿が、どれほど彼女のプライドを傷つけているか、今の巴に考える余裕はなかった。
その、変化を。
千夜は、決して見逃さなかった。
自分の膝に伝わってくる、断続的な熱と、確かな湿り気。そして、耳に届く、堪えきれない嬌声。それは、ゲームの主導権が、完全に自分に移ったことを示す合図だった。
すっ、と。
千夜は、それまで視線を固定していたスマートフォンを顔から下ろした。画面の青白い光が消え、部屋の穏やかな午後の光が、彼女の表情を露わにする。
千夜は初めて、巴の顔をまともに見た。
潤んだ瞳、熱に浮かされたように赤い頬、わずかに開かれた唇から漏れる、蕩けた吐息。普段、クールで凛々しい「橘様」を気取っている恋人の、見る影もない姿。自分の膝の上で、したたかに濡れながら、快感を求めて腰を振る姿。
その瞳の奥に、無垢な玩具を壊してしまいたいと願う子供のような、昏く純粋な嗜虐の光が宿った。
ああ、なんて、かわいいんだろう。
なんて、めちゃくちゃにしてやりたいんだろう。
千夜の唇の端が、三日月のように、ゆっくりと吊り上がっていった。
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#### 第6話:理性の溶解
千夜の唇に浮かんだ、あの嗜虐的な笑み。
それに気づいた瞬間、巴の頭の中で何かがぷつりと切れた。羞恥心、プライド、そして、千夜を振り向かせたいという当初の目的すらも、どこか遠くへ霞んでいく。見られている。あんな顔で見つめられながら、自分はこんなにもはしたない行為に耽っている。その事実が、猛毒のように、しかし甘美な痺れを伴って、巴の理性をゆっくりと溶かしていった。
腰の動きが、もはや巴自身の意志によるものではなくなっていた。硬い膝頭が、濡れた布地を通して的確にもたらす断続的な刺激。その快感から逃れたいのに、身体は正直に、より強い刺激を求めて勝手に蠢いてしまう。
「あ……ぅ、んん……っ」
呼吸がどんどん浅くなり、吐息は砂糖菓子のように甘く、熱を帯びていく。最初は小さく結ばれていた唇も、今ではだらしなく半開きになり、そこから漏れ出るのは意味をなさない、獣のような嬌声だけだった。視界は快感で白く明滅し、思考は快楽という名の奔流に呑み込まれ、ただただ目の前の膝に身体をこすりつけるだけの、単純な生き物になり果てていた。
千夜は、その一部始終を、冷徹な観察眼で見つめていた。
ああ、もう駄目だ。この子は。
巴の瞳から、理性の光が消えていくのが手に取るように分かった。必死に誘惑しようとしていた、あのいじらしい姿はもうどこにもない。今はただ、自らが生み出した快感の波に溺れ、それに抗う術もなく身を委ねているだけ。
そのどうしようもないほどの素直さが、千夜の心を強く揺さぶった。
面白い。
心の底から、そう思った。プライドという分厚い鎧を一枚ずつ剥がしていった先に現れた、快感に正直な柔らかな素肌。これこそが、自分がずっと見たかった、橘巴の本当の姿なのかもしれない。
千夜はスマートフォンをベッドの脇にそっと置いた。もう、小道具は必要ない。これからは、この滑稽で愛おしい祭りを、五感のすべてを使って心ゆくまで堪能するのだ。
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#### 第7話:臨界点
どれくらいの間、そうしていただろうか。
巴の意識は、熱い快感の靄(もや)の向こう側で、ほとんど溶けてなくなりかけていた。ただひたすらに、硬い膝がもたらす摩擦熱を追い求め、無心に腰を動かし続ける。その時だった。
ぴくり、と。
腰の奥、背骨の付け根あたりで、何かが小さく跳ねた。それは今まで感じていた心地よい熱とはまったく違う、脳天を突き抜けるような、鋭い閃光にも似た衝撃だった。視界が真っ白に染まり、全身の血が逆流するような感覚。
まずい。
その直感的な予感が、靄のかかった思考を強制的に覚醒させる。
今の、痺れるような感覚の波。巴は、それが何を意味するのかを痛いほど知っていた。これは、終わりが近いことを告げる合図。このままでは、イってしまう。たった一人で、恋人の無関心な膝の上で、こんなにも屈辱的で、情けない絶頂を迎えてしまう。
「―――っ!」
巴の顔から、血の気が引いた。蕩けきっていた表情は恐怖と絶望に凍りつき、瞳が驚愕に見開かれる。止めなければ。今すぐに、この愚かでみじめな行為を中断しなければ。
脳が、身体に必死の指令を送る。止まれ、と。動くな、と。
しかし、一度火がついた身体は、もはや主人の言うことを聞かなかった。まるで金縛りにあったかのように、腰は意志とは無関係に小さく痙攣し、最後の坂道を転がり落ちるように、律動を止めない。
「だめ……」
喉から絞り出されたのは、懇願とも悲鳴ともつかない、か細い声だった。
千夜は、その劇的な変化を見逃さなかった。
ほんの数秒前まで快感に溺れていたはずの巴の顔が、一瞬にして蒼白になったのを。そして、助けを求めるように、絶望の色を浮かべた瞳が、自分を捉えたのを。
何が起ころうとしているのか、千夜には即座に理解できた。
ああ、もうすぐだ。
このプライドの高いネコちゃんが、完全に壊れてしまう瞬間が。
千夜は息を殺し、その一瞬を待った。破局へのカウントダウンが、静かに始まった。
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#### 第8話:零れた雫
時間は、無情だった。
巴の悲痛な抵抗も虚しく、身体の奥でくすぶっていた火種は、ついに臨界点を超えて爆ぜた。
「ぁ、―――っ!」
声にならない絶叫が、喉の奥で詰まる。びくんっ、と。まるで釣り上げられた魚のように、巴の身体が大きく弓なりにしなった。腰が最後の意思に反して、千夜の膝にぐりっと強く押し付けられる。その瞬間、身体の中心で何かがぷつりと切れ、熱い雫がじゅわっと溢れ出した。
薄いショーツを、そして千夜のルームウェアを、じんわりと濡らす、決定的な証。
あまりにも、情けない絶頂だった。
数秒間、巴の動きは完全に止まった。痙攣の余韻が全身を微かに震わせる中、彼女の心は真っ白な空白に包まれていた。熱に浮かされた頭では、何が起きたのかを正確に処理できない。ただ、自分の身体から零れ落ちた生温かい感触だけが、やけに現実的だった。
そして、現実が追いついてくる。
じわじわと、しかし確実に。快感の残り香が、冷たい絶望と灼けるような羞恥心に塗り替えられていく。
やってしまった。
たった一人で。千夜に触れてもらうことすらできずに。ただ、その膝に身体をこすりつけて、みっともなく果ててしまった。
その事実が、鋭い刃物となって巴のプライドをズタズタに引き裂いていく。
ぷつ、ぷつ、と。何かが内側で壊れていく音がした。
熱いものが、込み上げてくる。それは、もはや欲望の熱ではなかった。
巴の美しい顔が、くしゃりと歪む。整った眉は情けなく下がり、固く結ばれた唇はわななと震え始めた。潤んでいた瞳の奥から、大粒の涙が、ぽろり、ぽろりと零れ落ちた。
それは、静かな決壊の始まりだった。
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#### 第9話:慰めと罪悪感
ぽろり、ぽろり、と。
決壊した涙は、後から後から巴の瞳を濡らし、頬を伝ってシーツに小さな染みを作っていく。声を殺し、ただひたすらに肩を震わせるその姿は、あまりにも痛々しく、か弱かった。
その光景を目の当たりにして、千夜の心を満たしていた嗜虐的な愉悦は、潮が引くようにすうっと消えていった。代わりにじわりと広がってきたのは、チリチリと胸を焼くような罪悪感だった。
やりすぎた。
ほんの少し意地悪をして、困らせてやろうと思っただけだったのに。彼女の心の、最も柔らかい部分を、土足で踏み荒らしてしまった。こんなにも深く傷つけて、泣かせてしまうつもりなんてなかったのだ。
自分の膝に残る、生々しい湿り気と熱。それが、自分の犯した罪の重さを物語っているようだった。
千夜は、ゆっくりと自分の膝を巴の身体から引き抜くと、静かに上体を起こした。そして、涙にくれる恋人に向かって、そっと両腕を広げる。
「……ごめんね、巴」
囁くような、けれど芯のある、優しい声だった。
「おいで」
その声に、巴の震える肩がぴくりと反応した。彼女はゆっくりと顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、千夜を見つめる。その瞳には、戸惑いと、ほんの少しの安堵が浮かんでいた。
巴は、まるで何かに導かれるように、おずおずと千夜の胸の中へと身を寄せた。
千夜は、その華奢な身体を、壊れ物を扱うように優しく抱きしめる。腕の中で、巴は「うっ……」と、堪えきれなかった嗚咽を漏らした。千夜は何も言わず、ただ、その背中をゆっくりと、あやすように撫で続けた。もう片方の手は、汗で湿った巴の髪を、指で優しく梳いていく。
大丈夫。大丈夫だよ。
言葉にはしない慰めが、その優しい手つきから巴へと伝わっていく。腕の中で、巴の嗚咽は少しずつ、ぐすぐすと鼻を鳴らす音へと変わっていった。静かな部屋に、ただ、恋人を慰める優しい時間だけが、ゆっくりと流れていた。
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#### 第10話:倒錯の萌芽
腕の中で、巴がぐすぐすと鼻を鳴らす音が聞こえる。大粒の涙はとうに止まり、今はただ、泣き疲れた子供のように、その身を千夜に預けているだけだった。その絶対的な信頼と、無防備に委ねられた身体の重みが、千夜の胸にじんわりと温かく広がっていく。
かわいい。
最初は、ただ純粋にそう思った。プライドの高いこの子が、自分にだけすべてを晒して、甘えてくれている。その事実が、たまらなく愛おしかった。罪悪感は、この温もりの中でとっくに溶けて消えていた。
しかし、その感情は、ゆっくりと、しかし確実にその色合いを変えていく。
千夜は、腕の中の恋人を見下ろした。泣きじゃくったせいで赤く腫れた目元。乱れた髪。自分の涙で濡れたシャツに、臆面もなく頬を寄せる姿。そこには、普段の凛々しい「橘様」の面影はどこにもなかった。あるのはただ、自分の前で完全に無力化され、プライドを粉々に砕かれた、一人の弱い女の子の姿だけ。
その、みじめで、無防備な様が。
千夜の中で、庇護欲という名の感情を、じわじわと黒く変質させていった。
守ってあげたい、という気持ちのすぐ隣で、もっとめちゃくちゃにしてやりたい、というどす黒い欲望が、鎌首をもたげる。
この子のその高いプライドを、もう一度、自分の手で、めちゃくちゃに壊してみたい。この腕の中で、今日のように無様に泣きじゃくる姿を、もう一度見てみたい。
それは、紛れもない加虐心だった。
千夜は、自分が今、とてつもなく倒錯した感情を抱いていることをはっきりと自覚した。だが、不思議とそれに嫌悪感はなかった。むしろ、ぞくぞくするような興奮が、背筋を駆け上がっていくのを感じていた。
これは、自分にしかできないこと。
この子をここまで壊せるのも、そして、壊した後にこうして優しく慰めてやれるのも、世界でただ一人、自分だけなのだ。
千夜の口元に、再び笑みが浮かんだ。
先程までの嗜虐的なそれとは違う。深く、昏い、愛情に満ちた笑みだった。
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#### 第11話:静かなる豹変
どれくらい、そうしていただろうか。
巴のしゃくり上げるような呼吸が、ようやく穏やかな寝息に近いものへと変わったのを見計らって、千夜はそっと腕の力を緩めた。そして、名残惜しむようにその身体を離すと、泣き疲れて力の入らない巴を、ベッドのヘッドボードにゆっくりと寄りかからせる。
巴は、失われた温もりに戸惑いながらも、されるがままになっていた。千夜が何かをしようとしているのは分かる。けれど、その意図までは、まだ読めなかった。
千夜は、そんな巴には一瞥もくれず、無言で行動を開始した。
ベッドの上に散らばっていたクッションを一つ、二つと拾い集める。さらには、自分たちが普段使っている枕までをも、ベッドの中央へと運んでいく。その動きには一切の迷いがなく、まるで何か、厳かな儀式を執り行っているかのようだった。
その横顔を見て、巴の胸に言い知れぬ不安が広がっていく。
さっきまで自分を優しく慰めてくれていた、あの眼差しはどこにもなかった。今の千夜の瞳に宿っているのは、獲物を前にした獣のような、あるいは、これから解体する精密機械を前にした技術者のような、すべてを見定めるような冷たい光だった。
静寂が、怖い。
この人が何を考えているのか分からないことが、怖い。
巴は、まだ少し掠れた声で、目の前の恋人の名を呼んだ。
「……千夜……?」
それは、どうしたの、と尋ねるための、か細い問いかけ。
しかし、千夜からの返事はなかった。彼女は巴の声など聞こえていないかのように、黙々と枕とクッションを積み重ねる作業を続けている。
無視された、という事実が、巴の心臓を冷たく握りつぶした。
部屋の空気は、先程までの穏やかなものから一変し、張り詰めた硝子のように、脆く危険なものへと変貌を遂げていた。巴は、これから自分の身に何が起ころうとしているのか、ただ息を殺して見つめていることしかできなかった。
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#### 第12話:屈辱の祭壇
千夜は、ベッドの中央に完成した、いびつな台座を満足げに眺めた。それは、柔らかい枕とクッションでできた、即席の祭壇のようだった。彼女はその祭壇を無言でぽんぽんと叩くと、ようやく、ずっと沈黙の中で待たせていた巴の方へと視線を向けた。
そして、その冷たい光を宿した瞳のまま、短く、しかしはっきりと命令する。
「逆だよ」
「……え?」
巴には、その言葉の意味が理解できなかった。逆とは、何が。どういうことなのか。混乱する巴の様子を気にも留めず、千夜は彼女の腕を掴み、ベッドの中央へと引き寄せようとする。その有無を言わさぬ力強さに、巴は本能的な恐怖を感じて抵抗した。
「や、やだ……なに、するの」
「いいから」
弱々しい抵抗は、ほとんど意味をなさなかった。千夜は巴の身体を軽々と抱え上げると、完成したばかりの祭壇の上に、その身をうつ伏せに押さえつける。そして、巴の腰を持ち上げ、頭が下がり、腰が最も高くなるような、屈辱的な体勢へと、その身体を折り曲げさせた。
柔らかい枕に顔を押し付けられ、巴の視界は闇に閉ざされる。自分の意思とは無関係に、無防備に開かれた下半身が、部屋の空気に晒される感覚。先程の絶頂のせいで、まだじっとりと濡れたままの、最も恥ずかしい場所。それが今、千夜の視線に、値踏みするように晒されている。羞恥で、いっそこのまま気を失ってしまいたかった。
巴が絶望の中で身を固くしていると、頭上から、恍惚とした吐息まじりの声が降ってきた。
「すごいね……」
千夜の声は、先程までの冷たさが嘘のように、甘く、とろりとしていた。
「うちがやりやすいように、ちゃんとしてくれてる。……かっこいいよ、巴」
かっこいい。
その言葉は、巴が千夜から一番聞きたかったはずの言葉。しかし、この人生で最も屈辱的な瞬間に贈られたその賛辞は、鋭いガラスの破片となって、巴の心を深く、深く、傷つけた。
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#### 第13話:指と甘言
屈辱と、混乱と、そして微かな歓喜。
千夜に与えられた「かっこいい」という言葉は、巴の心の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、彼女の思考を完全に停止させていた。身体は無様に晒され、心はガラスのように傷つけられているというのに、それでも、褒められたという事実が、心のどこかを甘く痺れさせる。
巴がその矛盾の中で身動きできずにいると、不意に、ぬるりとした生温かい感触が、最も無防備な場所に触れた。
「……ひっ!」
思わず、奇妙な声が漏れる。千夜の指だ。その一本の指が、先程の絶頂の余韻で濡れたままの花弁を、いたわるように、なぞるように、ゆっくりと撫でていく。そのあまりにも優しい手つきに、巴の身体はびくりと大きく震えた。
抵抗しなければ。そんなことをされては駄目だ。
そう思うのに、身体は正直に、その指がもたらす快感に反応してしまう。腰が、くねりと微かに揺れた。
その反応を、千夜が見逃すはずもなかった。彼女は、耳元に唇を寄せるようにして、甘い毒を囁きかける。
「あ、動いた。……こんな格好させられて、うちの指一本で感じてるなんて、ほんと、えっちだね♡」
えっち。その直接的な言葉が、巴の羞恥心を煽る。顔を枕に押し付け、いやいやと小さく首を振ることで、かろうじて抵抗の意思を示した。しかし、そんな弱々しい拒絶は、千夜の愉悦をさらに掻き立てるだけだった。
千夜の指は、ゆっくりと、しかし確実に、湿った入り口から内側へと侵入していく。その侵入と同時に、悪魔の囁きが、再び巴の耳を犯した。
「でも、それがかっこいいよ♡ 感じてるときの巴、最高にかっこいい」
やめて。そんな言葉で、私を肯定しないで。
心ではそう叫んでいるのに、身体は歓喜していた。千夜の指が、内側で的確に快感の在処を探り当て、く、くりと刺激する。抗いがたい快感の波が、腹の底からせり上がってくる。
羞恥と快感の、あまりにも暴力的な波状攻撃。その中で、巴が最後まで守りたかったはずの抵抗する力は、少しずつ、しかし確実に、削り取られていった。
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#### 第14話:淫猥な川
もはや、巴の身体に抵抗する力は残されていなかった。千夜の指一本に、その身も心も完全に支配されてしまっている。その絶対的な服従を確認すると、千夜はゆっくりと、二本目の指を湿った入り口へと押し当てた。
「んっ……!」
内側が、むにゅりと押し広げられる。一本の時とは比べ物にならないほどの充満感に、巴の身体が弓なりにしなった。しかし、千夜はそれを許さないとでも言うように、さらに三本目の指を加え、内壁を蹂虙するように、ぐちゅぐちゅと激しくかき回し始めた。
完全に、許容量を超えた刺激。
あまりの快感に、巴の思考は真っ白に染め上げられる。もはや羞恥心すらどこかへ吹き飛び、ただただ与えられる快楽に、その身を震わせるしかできなかった。身体は正直だった。快感の波に呼応するように、内部からは次から次へと熱い蜜が溢れ出し、千夜の指の動きを、より滑らかなものへと変えていく。
逆さまの体勢。それが、この後に起こる光景を、より淫猥なものへと変えた。
掻き出されるようにして溢れ出た大量の愛液は、重力に従って、巴の身体を伝って流れ落ちていく。下腹を通り、おへそを濡らし、そして、みぞおちから胸の谷間へと。まるで、彼女の身体そのものを源泉とする、抗いがたいほどに淫猥な川が生まれる。
その光景を、千夜は恍惚とした表情で見下ろしていた。そして、内側をかき回していた指の動きをぴたりと止めると、その川の流れを、もう片方の指でそっとなぞりながら、囁いた。
「ねえ、見てごらん、巴」
見ることなどできっこない。巴は、枕に顔を埋めたまま、ただ喘ぐことしかできない。
「あんたの体から、きれいな川ができてる。きらきら光って、すごくきれい。……ああ、最高にかっこいいよ、巴」
自分の身体から溢れたものでできた川。それを、きれいだ、と。かっこいい、と。
その倒錯した賛辞は、もはや巴の心を傷つけることすらしなかった。ただ、脳を蕩かす絶対的な快感の一部として、その身に吸収されていくだけだった。
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#### 第15話:天と地の逆転
脳が、蕩ける。
千夜の倒錯した賛辞と、内側を蹂虙する指の動き。その二つだけで、巴の意識はもう限界に近づいていた。身体は快感に震え、もはや自分がどんな格好をさせられているのか、ここがどこなのかすら、曖昧になっていく。
しかし、千夜は、まだ巴を解放するつもりはなかった。
内側を激しく抽挿していた指の動きは止めないまま、空いていたもう片方の手を、ゆっくりと巴の身体の中心へと伸ばしていく。そして、度重なる刺激ですっかり腫れ上がった、最も敏感な一点を、親指の腹で、ぐり、と強くこすり上げた。
「―――っ!」
内と外からの、同時攻撃。
それは、逃げ場のない快感の嵐だった。全身の神経が、その二つの点に集中し、火花を散らす。巴の身体から、完全に思考が消え去った。快感を処理しきれなくなった脳が、悲鳴を上げる。
もう、だめ。
だめ、だめだめだめ、こわれる、こわれてしまう―――!
身体が限界を告げ、意思とは無関係に、びくん、と大きく反り返った。硬く引き絞られた弓が、その限界点でついに弦が切れるように。
「いきゅっ!」
金切り声に近い、甲高い絶叫。
それと同時に、巴の身体の奥から、大量の熱い潮が、ビュッ、と音を立てて激しく迸った。シーツを、クッションを、そして千夜の手を、余すところなく濡らす、決定的で、抗いがたいほどの生命の証。
天と地が逆転するような、強烈なオーガズムの奔流。
その中で、巴の意識はぷつりと途切れ、真っ白な光の中へと、ゆっくりと沈んでいった。
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#### 第16話:夜明けの戯言
嵐が、過ぎ去った。
ぐったりと意識を失った巴の身体を、千夜は愛おしげに見下ろしていた。その表情に、先程までの嗜虐的な光はない。ただ、心の底から大切なものを見つめる、穏やかで、慈愛に満ちた眼差しがそこにあった。
千夜は、手際よく後始末を始めた。濡らしたタオルで、汚れた巴の身体を丁寧に、優しく拭いて清めていく。めちゃくちゃに乱された祭壇を解体し、枕とクッションを元の場所へと戻す。そして、綺麗になった巴の身体に、ふわりと柔らかいブランケットをかけた。
まるで、壊れかけた大切なお人形を、元通りに直してあげるように。その一連の作業は、祈りにも似た静けさの中で行われた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
部屋に差し込む光が、昼下がりの白から、夕暮れのオレンジ色へと変わり始めた頃。巴の長いまつ毛が、ぴくりと震えた。
「……ん」
ゆっくりと、その瞳が開かれる。
意識はまだ、靄がかかったようにぼんやりとしていた。身体は、心地よい疲労感に包まれている。何があったのか、すべてを思い出すことはできない。ただ、自分の身に、とてつもないことが起きたという実感だけが、微熱のように身体の芯に残っていた。
ぼんやりとした頭で、必死に記憶の断片を繋ぎ合わせていく。
屈辱的な体勢。千夜の指。そして、何度も、何度も、耳元で囁かれた、あの言葉。
かっこいい、と。
その瞬間、巴の中で、すべてが繋がった。
彼女は、ゆっくりと顔を横に向け、ベッドの脇で自分を静かに見守っていた千夜を見つめる。そして、まだ少しだけ掠れた声で、拗ねたように、唇を尖らせた。
「……かわいいを、かっこいいに、おきかえてるでしょ」
その、あまりにも的を射た指摘に、千夜は一瞬きょとんと目を丸くした後、たまらず、ふふ、と吹き出した。
「あはは。……ばれたか♡」
悪戯が成功した子供のように、千夜は屈託なく笑う。そして、まだ少し気怠げな巴の身体を、ぎゅっと優しく抱きしめた。
「巴は、どんなでも、うちにとっては最高にかっこよくて、最高にかわいいんだよ」
その言葉は、巴がずっと求めていた、何よりの答えだった。
巴の口からも、つられたように、小さな笑い声が漏れる。
それは、不器用な恋人が見つけ出した、歪で、倒錯的で、けれど二人にとって唯一無二の、正しい愛の形だった。二人の笑い声が、夕暮れの静かな部屋に、いつまでも優しく響いていた。
- 完 -
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不器用なきみの、正しい壊し方 舞夢宜人 @MyTime1969
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