花天月地【第96話 曇ることを知らない】

七海ポルカ

第1話



 魯粛ろしゅくは久しぶりに建業けんぎょうに戻って来た。



 彼は最近あまり建業に戻って来ていない。

 意図して避けているのである。

 孫呉そんごの――そして呉軍の支柱であった孫策そんさく周瑜しゅうゆ黄蓋こうがいという存在を失って、今、王都である建業には「防衛においていささかの失態も許されない」という風潮が病のように蔓延はびこっており、建業に戻ると魯粛は方々から各方面の戦況は今現在どうなっているのだとか、これから先どうするつもりなのかとか――屋敷に戻って少しは優雅に余生を過ごしたらどうだと言いたくなるような老人たちに引き留められるのだ。


 それが今の彼には煩わしかった。


 魯粛もろうけた知性や経験は時に、興味深く尊いものだとは思っているが、いくら何でも一日に聞ける老人からの説教は二つか三つが限度である。


 孫呉は若い将官が多いが、孫堅そんけんの代からの重鎮が力も持っているので、発言権の強い老人も多い。孫権そんけんが若い王であるからと、重鎮が彼の側に張り付いて魯粛に意見を求めて来るのだ。


 今までは孫策そんさく周瑜しゅうゆに遠慮してそういう人間は孫権の側に現れなかったのだが、今は魯粛も呉軍の総司令として軍につきっきりにならなければならず、孫権殿の側にいて、信頼される関係を作っておけと建業の将校達に伝えてはいるのだが、やはり三十代や四十代では、六十を超えた重鎮に「お前は黙っていろ」などと一喝されるとなかなか反論が出来ないようである。


 しかし老けた知性とは、いつの時代も孫呉の未来を照らす光のようであるべきだと思っている魯粛は、曹魏を長江ちょうこうの水戦で打ち破った今、守りに入れなどと言ってくる老人の臆病に、付き合う必要は全くないと考えていた。


 魯粛が補佐官として使い、時に自分の側で使い、時に建業との連絡役に使っている呂子明りょしめいは、懸命に働いてはいるが人が良すぎるところがあり、重鎮との夕餉など愚痴を聞かされるだけだから「忙しい」の一言で断れと言っているのに断り切れず呼び出されているようだ。


 魯粛は呂蒙りょもうを叱る時に「もっと毅然としろ」という意味を込めて、


『孫策殿、周瑜殿、黄蓋こうがい殿の死に様を忘れるな』


 とよく口にした。

 これは呂蒙だけでは無く、他の呉軍の若き将官達全員に共通するものだが、

 この言葉を口にすると、重鎮の前で肩を縮めて顔色を窺っていた者達がハッとしたように顔を上げ、目に強い光を宿す。


赤壁せきへきの地で誓ったのだ。俺達は)


 守るということは、攻めてくる相手に一歩も引かない毅然を見せるのだということを。


 呂蒙にも「今のお前の姿を見たら周瑜しゅうゆ殿が嘆くぞ」という言葉が一番堪える。


 魯粛は元々、考えの古い年上に反抗するのは得意だが、自分より年若い者に説教するのは柄では無く、どちらかというと若い無茶をニヤニヤして眺めているのが好きだったから、年下を説教するのはどうも苦手で、結局死してなお、こうやっていちいち周公瑾しゅうこうきんの力を借りていた。


 魯粛ろしゅく建業けんぎょうに来る目的は二つだけだ。

 孫呉の王である孫権そんけんに呉軍の現状や今後の展望を自分の手で報告すること。


 ……もう一つはこの地にある、周公瑾との思い出に浸り、自分の中の臆病や不安を打ち消すことだった。

 

 その必要がある時だけ「建業に帰るか」という心持ちになる。


 城下には妻子の住む私邸もあるのに、彼らには会わず、また戦場に帰ることも多々あった。

 

 周瑜しゅうゆが生きていた時は、妻子に顔を見せないと「顔を見せてやれ」と必ず言われるのが分かっていたので、逆に、ちゃんと私邸に帰っていたのだ。


 魯粛の妻は東城とうじょうにいた頃から知り合いで、それ以後遠征ばかりの夫に辟易することも無く、しっかり私邸を守り、子を教育し、姑の面倒も見てくれるような女なので、滅多に夫のやることに口を出してはこないたちなのだが、ついこの前久方ぶりに戻った時に、二十年以上連れ添って初めて「貴方が心配だ」と言われた。


 浮気などと疑ったりはしないから、もし数ヶ月でもどこかで留まるようなことがあれば、必ず信頼出来る女官を側に置き、生活の面倒を見てもらって欲しいと、結婚してから初めてそう言われた。

 

 魯粛はあまりに意外なことを言われて大笑いしてしまい、


「そんなにやつれているか?」


 と古馴染みの友のように妻に尋ねたが、彼女は寂しげに苦笑して「心がね」と答えた。


「貴方が周瑜様をとても大切に敬っておられたことは知っていますけど。

 あの方を失って、貴方がこれほど変わられるとは想像していませんでした。

 貴方のような立場の方は、他の男と心の拠り所が違う。

 普通は家族が人生における錨のような存在になるのに、周瑜様を失って貴方は心が居場所を失ったみたい」


 心が漂浪している、と彼女は言った。


「そうかもな」


 魯粛はその時はなにも答えず誤魔化したが、周瑜とよく共に座り、春も夏も秋も冬もそこで話した、建業の城の回廊に寄りかかり、池を見下ろして呟いた。


(そうかもしれんが、だとしても、それは心から望んで俺はそうなっているのだ)


 それだけは確かだ。



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