煙草の行方

らんまる

幸せの断片

私は、二日酔いでだるい体を起こし煙草をくゆらせる。そして、憂鬱な気分でバイトの準備を始めた。バイトが終わった後は、クラブでいつもの仲間と明け方まではっちゃけるつもりだ。今までの記憶がすべて押し込まれ、どこかへ消えさってしまうような、そんな感覚になれるクラブの音楽は私にとって生きがいだった。当然、バイトでのお金はほとんどクラブに使っている。この生活を誰かに馬鹿にされ罵られようが、別にどうでもよかった。これが私の生き方なのだ。


バイト先に着いてからは素早く着替えて、お客さんの接客に入った。

「おねえさーん、このお酒一気してよ。お金、出してあげるから」

「えーいいの?ありがとう」

こうやってお客さんからお酒を奢ってもらう事なんてしょっちゅうだ。場は盛り上がるし、私は大好きなお酒が飲める。そしてお客さんとも仲良くなれて多少のさぼりは許してもらえる。このスナックは私の独壇場ともいえるだろう。

「お客様一名入りました」

「他のお客さんの対応に行くから、ちょっと抜けるよ」

「えー寂しいなぁ、また戻ってきてよ?」

「お酒奢ってくれるなら考えとくね」

ちょっと愛想を振りまけば、お酒なんていくらでも奢ってもらえる。話だって適当に頷いて、共感していればお客さんは喜んでチップを置いていく。私は対して真面目に仕事などやっていないのに、働いたお金をこんな若者に使う客が馬鹿らしくてしょうがなかった。

「いらっしゃいませ、こちらへどうぞー」

まだ若い男性のお客さんだった。大学生だろうか。なんにせよこんな若い人が一人でスナックに来るなんて珍しい。

「今日はお一人?」

「今日は一人でゆっくり酒を飲みたかったんです」

いいカモになるかもしれないと思いながら、私はお客さんを席に案内した。

「お姉さんは大学生なんですか?」

「まぁ、年齢的にはそうだけど」

「でもお酒、飲める歳じゃないでしょ」

私は目を大きく見開かせてお客さんの方を向いた。今までそんなことを言われたことがなかった。まず、私の年齢に対して興味を持つお客さんの方が少ない。お酒を飲まして場を盛り上げるために私を利用しようとするか、連絡先をきいて体の関係を持とうとする人しかいなかった。皆、結局は自分の利益のことばかりで私に興味などなかったのだ。

「飲める歳だよ。普通に失礼だから」

「はいはい、そういう事にしといてあげる」

信じられなかった。煙草も吸って、お酒も飲んで、クラブにも通って。子供じゃできない遊びをたくさんしてきた。幼いなんて自分に一番似合わない言葉だと、信じて疑わなかった。

「さっきもお客さんにお酒飲まされてたでしょ。あんなの無視したらいいのに」

「私はお酒を飲むことに慣れてるし、何よりお酒が好きだから」

「そんなにお酒飲んでると、体に悪いよ」

屈託のない笑顔で私を子供扱いするかのように言う。こんな扱いを受けるのは初めてだった。私の仲間には犯罪に手を染めている輩もざらにいる。そのせいで大体の人間は私のことを怖がって近づいてこなかった。ましてや子供扱いなど、夢のまた夢だ。

「私がお酒を飲んでどうなろうが、お兄さんには関係ないじゃん」

「それならお兄さんにちょっと付き合ってよ。お酒、奢ってあげるから」

面倒な客だと思いながらも、お酒を奢ってくれるのであればついていった。ただで飲めるお酒ほどおいしいものはないからだ。

「お兄さんは大学生?」

「そうだよ、もう三年生」

「三年生なら就活も忙しくなるね」

「よくわかってるじゃん、もう大体進路は決まってるんだけどね」

「何になるつもりなの?」

お兄さんがくすっと笑いながら答えた。

「公認心理士だよ。俺にはやたらと不愛想だよね」

調子がいいお兄さんに少し苛立ちを感じながら話を続けた。

「へー、お兄さんは変わり者だから公認心理士がよくお似合いだよ」

「褒め言葉として、受け取っておくね」

戸惑う様子など見せずに、ニコニコと話す姿がどうにも気に食わなかった。これじゃあまるで、自分が本当に幼い子供のようではないか。

「ほら、何か好きなの頼みなよ」

「じゃあテキーラ、ロックで」

「そんなに度数が高いの飲んで大丈夫?」

「平気、それじゃあ私は仕事に戻るから」

「はいはい。テキーラがここにきたら、またこっちおいで」

まったく調子の狂う客だと思いながら、私はお兄さんのもとを去った。

「お姉ちゃん、こっちにハイボールお願い」

「はーい」

「お姉ちゃん、こっちにも」

「ちょっと待ってね」

このバイトを始めてもう3年ほど経つが、未だにお客さんの話を聞きながら順序良くお酒をつくる大変さには慣れない。さぼりたいが、さすがにずっとさぼっていると店長に叱られてしまう。めんどくさい業務もそれなりにこなすしかないのだ。

「これ、あそこのお客さんに持って行って」

さっきのお兄さんが頼んだものだった。気が進まないが、タダ酒をできると思うと損をした気分にはならない。私はあくびをしながらお兄さんのところへ向かった。

「やっときた、おかえり」

「ご注文の梅酒のソーダ割りとテキーラロックになります」

「ご苦労様」

「テキーラ飲んだらもう行くから」

「そんな慌てずに、ちょっとゆっくりしていきなよ」

ため息をつきながら隣に座った。こうなれば、もっとたくさんのお酒を奢らせようではないか。

「なんでお酒なんか飲んでるの?」

「単純に気分がよくなるから飲んでるだけ」

「へぇ、普段気分が落ち込むことでもあるの?」

「別に、お兄さんにはわからないよ」

何のためにこんな事を聞いているのか奇妙に思いながら、ぶっきらぼうに答えた。

「相変わらず冷たいねー。お酒、親には止められないの?」

「止められないよ。クスリもやってて、もう人間らしい生活さえできないのに」

私は親が嫌いだ。育てる覚悟もないくせに生んで、普段は何もしないのに都合のいい時だけ良い親の格好をする。普段ご飯を作るのも、洗濯をするのも、皿を洗うのもすべてやっているのは私なのに。

「なかなか複雑な家庭環境だね。お酒に手を出すのにも納得だ」

「友達もお酒を飲むなんて当たり前な子たちばっかりだし。それよりもこんなこと聞いて、どうするつもり?」

「そんなに警戒することないじゃん、俺はただ君に興味があるだけ」

「はぁ、興味なんてどこにもったの?」

呆れながら答える。公認心理士というものは、こんなにも変な人たちの集まりなのだろうか。

「男が女に興味を持つことが、そんなに珍しい?」

ますます意味が分からない。まるで私のことを恋愛対象として意識しているかのような言い回しだ。話せば話すほど変な客だと再認識させられる。

「テキーラ、飲まないの?」

話に気を取られすぎて、すっかりテキーラのことを忘れていた。グラスをもって一気に飲み干す。

「うわ、いい飲みっぷりだねー」

「テキーラなんてまだまだ飲めるよ」

「じゃあもう一杯頼んであげようか?」

「それはお言葉に甘えて」

突然お兄さんがこちらの顔をじっとみつめる。私の顔に、なにかついているのだろうかと思うほどに。

「なに?」

「いやー、思ったんだけどさ。君ってずっと寂しいんじゃないの?」

核心をつかれたようで、否定しようと思ったのに言葉がでなかった。自分でも薄々わかっていたのだ。私の生き方はいつまでたっても誰かと安心できる関係を築けない。まず安心できる関係を築ける人がいない環境に、自分から飛び込んでしまっているのだから。心のどこかではわかっていても、目をそらし続けた。それに気づいてしまうと、あまりにも自分が惨めでどうにかなりそうだったから。

「寂しさを紛らわせるためにお酒を飲んで、自分の弱さを隠すために不良とつるんで、君はそれでいいの?」

「あんたに、あんたなんかに何がわかんの」

気づきたくなかった。気づかなければ、ずっとわからずに暮らしていくことができれば、きっと苦しまなくて済んだのに。私は何も言わず席を後にした。私から目をそらさず、まっすぐ向き合おうとするあの男が居心地悪くて仕方なかった。その日は体調不良と噓をつき、バイトを早退した。


「バイト早く終わったの?言ってた時間よりもめっちゃはやいじゃん」

「今日はだるかったから早退した」

「これからもずっと早退しなよ」

笑いながらこちらに話しかけてくるこの子は、今から一緒にクラブに行く友達だ。私にとって初めての友達だった。

「ほら、はやく行こ」

友達に手を引かれて、そのままクラブの方へ向かった。

「お姉さんたち二人?一緒に飲もうよ」

「悪いけど私ら連れ待ってるから」

「なに?彼氏?」

「おーい、お待たせ二人とも」

ナンパしてくる男の話を遮るように、二人の男が現れた。

「やっときた、遅いっつーの」

「悪い悪い、お待たせ」

皆が集まってからは酒を飲んでは踊って、酒を飲んでは踊ってを繰り返した。人が波打つようにうごめき、辺りが線香を散りばめたようにキラキラと光る。

「いつもより元気なくない?なんかあった?」

「普通に元気だって。ほらまだまだ踊るよ」

皆で踊ってわいわいしている時も、バイト先に現れた男の言葉が頭から離れなかった。今まで蔑ろにしていた問題を急に突き付けられて、どうすればいいのかわからなかったのだ。

「そろそろ俺の家来る?」

「いこ、あれあるんだよね?」

友達の言う「あれ」とは違法薬物のことだ。友達はみんな大麻を当たり前のように吸っている。

「一緒に吸わないの?」

「私はいいよ。みんなで吸ってきて」

クスリは大嫌いな自分の親がやっていたこともあって、したくなかった。今まで何度もクスリに手を出そうとしたが、親のようには絶対になりたくなかった。みんなが別の部屋で大麻を吸っている間、私は一人で煙草を吸いながら音楽を聴いている。この時間はいつも本当に苦痛だった。みんなが大麻でハイになっている中、それをしていない私は、みんなの事が嫌でも客観的に見えてしまうのだ。行き場のない感情がずっと自分の中を駆け巡って、吐き気を催す。私はこの感情を紛らわせるために、たくさんのお酒を飲んだ。

「私はそろそろ帰るわ」

「お疲れー、また連絡するよ」

「お疲れ」

今日はもう家に帰ってはやく寝たい。寝て、全部忘れたい。血反吐を吐く思いで生きてきた今までの自分を、これ以上責めたくない。考えたくもない事が頭をよぎる上に、酔いすぎて気持ちが悪く思ったように歩けなかった。

「なにしてんの」

聞き覚えのある声だった。誰だろうと思い顔を上げると、そこにはさっきスナックで出会ったお兄さんがいた。

「ほら、手貸すよ」

お兄さんが私の腕を自分の首に回す。

「一人で歩けるから」

「こんなにふらふらしてるのに?」

抵抗しようとしても酔っているせいで力が入らない。お兄さんに体を委ねるほかなかった。

「なんでよりにもよってあんたに」

今一番会いたくない人は誰だと言われたら、私は迷わず彼だと答えるだろう。こんなに情けない姿は、絶対に見せたくなかった。

「そんなピリピリしないでよ」

お兄さんは、私の言葉など気にする様子も見せずに笑いかける。

「こんな明け方まで、どこほっつき歩いてたの?」

「さっきも言ったけど、お兄さんには関係ないから」

鬱陶しそうな態度をとり、私はお兄さんを突き放そうとした。お兄さんはビクともせずに、私の事を介抱しながら言う。

「そんな寂しそうな顔して、よく言うよ」

言い返せないのが悔しかった。私の事を哀れに思っているであろうその態度が嫌いだ。お兄さんのように恵まれた環境で生きてきた人間が私を励まそうだなんて、虫唾が走る。

「親は物心ついた時からヤク中で、その噂が学校に流れたせいで友達なんかできなかった。親には日々暴力を受けて、包丁で足をえぐられたことだってある。そんな時に私の生きがいだったのが酒と煙草、それを教えてくれた仲間たちだった。だから私は自分の生き方に後悔なんてしてない。自分の生き方を辛いと思ったことなんてない」

「じゃあ、なんで今泣いてるの?」

「え、、、?」

自分の生き方を間違っているだなんて、思ったことはなかった。今までどんな思いをしても這いつくばって生きてきたのだ。そんな自分を否定する方がおかしいじゃないか。

「安心して、俺は君を責めたいわけじゃない。ただ君のことが」

「私のことなにも知らないくせに」

もうこれ以上何も聞きたくない。赤の他人にどうこう言われたくない。私が自分の事を認めてあげなければ、誰が私なんかを認めてくれるのだろうか。

「確かに俺は君のことを知らないし、君が今までしてきた経験をすべて理解してあげることはできない。それでも俺は、君の人生に干渉することをやめない。君を、理解しようとすることをやめないよ」

頭の中がぐちゃぐちゃだった。こんなにも真っすぐに自分のことを見つめようとしてくれる人など、私の人生に現れることはないと思っていたから。

「綺麗ごとばっかり並べて、なんでそこまでかまうわけ?」

お兄さんが少しの間黙り込んで、口を開いた。

「君は俺の兄さんにそっくりなんだよ。兄さんは、ずっと君と同じような生活をしていた。でもその生活に耐えきれなくなって、死んだんだ」

私たちのような人間の間では自殺や自殺未遂などよくあることだった。皆、私と同じように苦しい現実を抱えていたから。

「私がそのお兄さんの後を辿ろうが、あんたには関係ないから」

「そうだね、でも俺は君にそうなってほしくない。その腕にある根性焼きの痕、自分でつけたんでしょ?これ以上君には自分を傷つけてほしくない」

こんな浅はかな言葉に喜んでいる自分が気持ち悪い。頭を掻きむしりたくなるほどのどうしようもない感情が私に襲い掛かった。

「私はあんたが嫌い。そうやって人の事を知った気になって弱みに付け込もうとして、あんたはそうやって他人の事を馬鹿にして生きているくせに」

私はお兄さんの事を振りほどき、声を張り上げて言った。

「もう私に近寄らないで」

そう言い残して、ふらふらと一人で空虚感に包まれた街を歩いた。


あれから寝ても寝ても疲れが取れなかった。死んだように生きているのに、お腹は空いている。今も尚、生に執着している自分にうんざりした。こんな状態でも、バイトを休むわけにはいかない。私は重い体を起こして煙草を吸い、バイトに行く準備を始めた。


「いらっしゃいませー」

今日も変わらず店にはたくさんのお客さんがいた。死んだ魚のような目をしている私の事には誰も気にとめず、それぞれが自分の話で盛り上がっていた。人間は所詮、自分が一番大切なのだ。

「一名様入りましたよ」

ぱっと入口の方に目を追いやると、またあの男が立っていた。こちらに気づくと、以前と同じように屈託のない笑顔を私にみせる。見て見ぬふりをしていたが、私が仕事をしている時も隙あらば声をかけてきた。次の日も、その次の日も、私がいる時間帯に合わせてスナックを訪ねてくるようになった。私はずっと無視を続けたが、諦めるそぶりは一向にない。

「ねぇ、今日のおすすめのメニュー教えてよ」

ついに断念してしまった私は、質問に答えた。

「今日はフライドポテトがおすすめ」

「やっと口を開いたね」

「お兄さんがあまりにもしつこいから」

「人聞きが悪いなぁ、じゃあフライドポテトお願いしていい?」

「お酒、奢ってくれないの?」

「はいはい、好きなの頼んでいいよ」

聞きたいことがたくさんありすぎて、考えがうまくまとまらなかった。お客さんの話をきいている間も、思考を止めることなどできなかった。

「これ、いつものお兄ちゃんのところに持って行って」

考えていると時間があっという間に過ぎていたようだ。深呼吸して、自分の気持ちを落ち着けながらお兄さんのところへと向かった。

「これ、ご注文の品物」

「ありがとう」

思うように言葉が出てこない。内心あたふたしながら、私は口を開いた。

「なんで来てくれたの?」

「さぁ、なんでだと思う?」

何事もなかったかのように、穏やかな笑顔みせる。この笑顔を見るたびに、私は言葉を詰まらせた。

「赤の他人のためになんでここまでするわけ?」

お兄さんは、じーっと私の事を見つめながら足を組み、優しい笑みを浮かべた。

「一目惚れしたからって言ったら、怒る?」

悠然とした微笑みでこちらの様子を伺う。これで私が心を開くとでも思っているのだろうか。

「まったく、からかうのもほどほどにして」

「つれないなぁ」

ムッとしている私を見て小さく笑ったあと、物悲しい表情をしてお兄さんが言った。

「君がさぁ、あまりにも寂し気な顔してるもんで、放っておけなかったんだよ」

「ほんとにそれだけ?」

「他に何か思い当たる節でもあるの?」

私はお兄さんに鋭い視線を送りながら答えた。

「自殺した兄と私が重なった。違う?」

お兄さんは意表を突かれたのか、少しの間言葉が見つからないようだった。冷静さを取り戻すと、いつものように平然とした態度で答える。

「そうかもしれないね。でもさっき言ったことは、全部俺の本心だよ」

どんどん顔を曇らせるお兄さんに、これ以上問い詰めることはできなかった。

「兄はいくつの時に自殺したの?」

「21の時だったかな」

目線を下に落としてお兄さんは話を続けた。

「大学受験に受かって、俺はいちはやく兄貴に報告しようとした。でも、連絡がつかなかった。その時、一本の電話が入ったんだ」

伏し目がちで焦点が定まらないまま、私のお酒が入ったグラスを見つめる。お酒が小さく揺れ動き、まるでお兄さんの心情を表しているかのようだった。

「兄貴が自殺した。首を吊って死んでいたらしい。受験に合格したことは、結局最後まで兄貴に報告できなかった」

少しの間沈黙が流れた。椅子にもたれかかり、ふっと笑いながらお兄さんが口を開く。

「はぁ、本当に後悔しかないよ。兄貴は成人する前からお酒や煙草に手を出すようになって、家に帰らない日も多かった。それでも俺の事は小さい時からたくさん可愛がってくれて、俺が受験勉強をしている時も差し入れをよく持ってきてくれたんだ」

どんどん表情が暗くなっていくお兄さんに対して、私は何も言えなかった。いつも笑顔を絶やさないお兄さんがこんな表情を見せるなんて、思いもしなかったのだ。

「ごめんね、自分語りをしてしまって」

「なんで謝るの?私が聞きたいから聞いただけ」

お兄さんは安堵するような表情を見せて、また話を続けた。

「俺はあの時、兄貴がなんで酒と煙草に依存していたのかを考えられたはずなのに、考えようとしなかった。心のどこかではわかっていても、蓋をして目をそらし続けた。俺は兄貴に何もしてやれなかったんだ。あんなにも近くにいたのに、俺は結局自分のことしか頭になかった。その時気づいたんだよ。兄貴が死んで自分が無力感に苛まれているのは、兄貴の苦しみから逃げていた自分自身のせいなんだって。だから俺は、もう絶対に逃げたりしない」

この時、私がお兄さんの事を居心地の悪い存在だと感じるのはなぜなのか、分かった気がした。お兄さんは自分の根本にある問題と本気で向き合い、目をそらすことをやめたのだ。その姿が私にはあまりにも眩しくて、妬ましかった。

「俺と一緒に、考えよう」

認めたくなかった。今、この状況に自分が安心感を抱いてしまっていることに。それでも認めざるを得なかった。正面から私と真剣に向き合おうとしてくれることが、なによりも嬉しかったから。私はお兄さんの目を見て静かに頷いた。


今日はバイトが終わってすぐ家へ帰った。今までにない心地よさに包まれながら、ふと夜空を見上げた。私にも真っ当な生き方ができるかもしれないと思うと、思わず涙が込み上げてくる。もう自分の中にある問題を誤魔化すことはやめようと、心から誓った。


次の日、私はいつものようにスナックを訪ねるお兄さんに言った。

「今日、バイトが終わるまで待ってて欲しい」

居酒屋の騒がしさに負けないぐらい、自分の心音がはやく脈打ちうるさかった。私がこうやって言いにくるのを知っていたかのように、お兄さんは答えた。

「いいよ。バイト頑張ってね」

自分が自分じゃないみたいだった。驚くほど頭がすっきりしていて、お兄さんに近寄ることを躊躇しないようになっていた。喜びと不安が入り混じった感情を抱えながら、私はテキパキと仕事をこなした。


営業時間が終わり店を閉めた後、お兄さんと合流して人気のない路地裏に移動した。

「君から誘ってくれるなんて、嬉しいなぁ」

お兄さんは嬉しさを隠せない様子で、私に微笑みかける。さっきまで静けさに包まれていた路地裏が、一気に温かさを取り戻すようだった。私は静かに小さな箱を取り出す。

「煙草、付き合ってよ」

煙草をとるように促すが、お兄さんはポケットに手を入れて煙草を吸うのをためらっているようだった。

「吸いたくないの?」

お兄さんはうんともすんとも言わずに煙草を見つめ続ける。すると、何かひらめいたような顔をして口を開いた。

「煙草よりももっといいものがあるよ。ちょっと待ってて」

お兄さんは口笛を吹きながら近くのコンビニへと入っていった。何を考えているのだろうかと不思議に思いながら待っていると、案外すぐにお兄さんはコンビニから出てきた。

「これ、あげる」

お兄さんは、手に持っているチュッパチャップスを私に差し出す。

「なにこれ、なんでこれにしたの?」

「それなら口寂しくないでしょ」

はにかんだ笑顔でお兄さんが笑って見せた。お兄さんは不器用ながら、包装されているチュッパチャップスを力でこじ開けようとする。意外に筋肉質な体をしており、男らしいごつごつとした手をしていた。何かスポーツでもしていたのだろうかとぼんやり考えていると、包装されていたチュッパチャップスが気づかぬうちに開いていたようだ。二人でチュッパチャップスを舐めて、懐かしさを感じながら夜風に当たった。

「ねぇ、君ってさ」

お兄さんと視線が交差する。その艶めいた瞳に、私は釘付けになった。

「やっぱりお酒飲める歳じゃないよね」

お兄さんは、私を見透かすような不気味な笑みを浮かべる。私の事を吸い寄せるようなその瞳から、逃げだすようにして目を背けた。

「、、、なんでわかったの」

「見てたらわかるよ。一応、煙草も吸える歳した大人だから」

私の事をおちょくるようにお兄さんは言った。もう呆れることもなく、鼻で笑いながら私は答えた。

「そうだよ。本当になんでもお見通しなんだね、お兄さんって」

お兄さんが満足げな顔をして私の事を見る。鋭いがどこか抜けているお兄さんに、私はどんどん心を掴まれていった。

「話、聞いてほしいんだけどさ」

落ち着いた雰囲気に流されて、つい本音が出てしまう。

「いいよ。続けて」

包み込まれるような包容力に、私はいつの間にか自分をさらけ出していた。

「幸せになろうと努力する事が、私には怖いと感じるの。幸せになる努力をしたとして、もし結果が悲惨なものだったとしたら。私は自分の非力さに打ちのめされて、立ち直れなくなると思う」

お兄さんは私の話を聞いて、少し考え込んでから言った。

「なんで、幸せになれなかったらだめなの?」

空気が張り詰める。お兄さんは私のことを見つめて、そのまま話を続けた。

「幸せになれない自分が惨めに思えてしまうのは、君自身が幸せになれない自分の事を否定しているからじゃないかな」

私ははっとした。今まで私は自分の事を認めてあげているつもりだった。しかしそれは私の幻想にすぎなかったのだ。私を一番否定していたのは、紛れもない私だった。

「そうだね、図星としか言いようがないよ」

私は否定しようがない彼の言葉に、思わず笑いをこぼしてしまった。

「俺も人のこと言えたもんじゃないけどね」

私につられたようにお兄さんが笑った。そんなお兄さんを見ながら私は言った。

「私、最初はお兄さんのことが嫌いだった。お兄さんといると、自分が物凄くちっぽけに感じるから」

「知ってる。俺が君にどれだけ塩対応されたことか」

お兄さんは腕を組んで、軽く笑いながら答える。私は、お兄さんの事を突き放していたことに少し罪悪感を覚えながら口を開いた。

「でも今はそんなことないよ。他人の人生の面倒事に首突っ込んでいけるお兄さんはかっこいいと思う」

お兄さんがこっちを向いて固まった。そして我に返ったかのように、突然そっぽを向いて私に言った。

「ありがとう」


薄暗いスナックの店内に扉が開く音が響き渡った。

「お兄さん、いらっしゃい」

「今日もお世話になるよ」

少し時が流れて、私とお兄さんは気を許した仲になっていた。お兄さんとスナックで他愛もない世間話をすることが、私の楽しみになっていたのだ。

「最近財布の中が潤ってきたから、何か奢ってあげるよ」

「じゃあコーラにしようかな」

「あれ、お酒はやめたの?」

「うん、お酒はもうあんまり飲まないようにしてる。時間を無駄にしたくないから」

「偉いじゃん、前の君からは想像もできないけどね」

茶化すようにお兄さんが言った。恥ずかしくなった私は、そそくさと逃げるようにして仕事に戻った。振り返ると、お兄さんがこっちに気づいて手を振る。私はお兄さんの頼んだ物ができるまで、浮き立つ気持ちで仕事をこなした。

「ご注文の品物です」

「ありがとう。なんか最近明るくなったよね」

これはお兄さんだけではなく、いろんな人から言われるようになっていた。人に気づかれるほどの変化を遂げているのだと思うと、嬉しくて仕方がなかった。

「最近調子いいの?」

「最近は絵を描くことにハマってるの。昔から絵を描くのが好きだったからさ」

絵を描くことが好きだったことなど、お酒に溺れている時の私は忘れてしまっていた。お酒や煙草が自分の成長の足かせになっていることに気づくことができて、本当に良かったと思っている。この頃には、夜遊びをしていた仲間との付き合いもほとんどなくなっていた。

「どんな絵描いてるか見せてよ」

「これ」

お兄さんがノリノリで私の絵を覗き込む。自分の作品をこんなにも嬉しそうに見てくれる人がいることに喜びを隠せなかった。

「これ君が描いた絵なの?超上手いんだけど」

目を輝かせてお兄さんが言った。最近は自分で描いたイラストをSNSに投稿するようになって、褒めてもらう機会も増えていた。あんな生活をしていた自分にも、人に褒めてもらえるような特技があったのだ。

「イラストレーター目指そうと思っててさ。これからもっと力入れていこうと思ってる」

「良いイラストレーターになれると思うよ。頑張ってね」

お兄さんが頬をつきながら目を細めて言った。素直に嬉しかった。私は、幸せになろうと努力する事に恐れなくなっていたのだ。

「これ、とっといて」

お兄さんが電話番号を書いた紙を私に渡した。

「いいの?」

「もちろん。いつでもかけてきていいからね」

私は電話番号の紙を大切にしまった。この幸せが続きますように、そう心の中で呟きながら。


バイトが終わって家に帰ると、普段見ない靴が玄関に置いてあることに気が付いた。私は背筋を凍らせた。この靴はお母さんのものだと気づいてしまったからだ。冷汗が止まらなくなり、動機がひどくなっていくのを感じる。家にはほとんどいない母が、なぜ今頃帰ってきたのだろうか。おそるおそる廊下を歩いていく。

「あんた、こんな時間まで何してたの?」

唐突に聞こえてきたお母さんの声に、体が硬直して動かなくなる。私は震える体をおさえて答えた。

「バイトしてただけ」

お母さんがこちらに近づいてくる。床が軋む音が、これから起こることを連想させるようだった。恐怖で顔を上げることができない。

「お金、渡しなさいよ。少しは親孝行でもしようと思わないわけ?ほんっとう頭に来るわ」

言い返そうと思っても言葉が出てこない。怖気づいて、頭の中が真っ白だった。

「なんとか言えよこのクソガキ」

声を荒立てて私のことを蹴り上げた。痛い、怖い、苦しい。視界が滲んで前が見えなくなる。

「あんたのせいで、私がどんなに苦労したかわかってる?そんなんだからあんたには誰も近寄ろうとしないのよ」

私のことを踏みつけながら、次々と罵声を浴びせた。家に怒鳴り声が鳴り響こうが、誰も私を助けようとしない。

「あんたなんか生まなきゃよかった。生きてて恥ずかしくないの?」

髪を引っ張って、私のことを起き上がらせようとする。

「痛いからやめて、、」

お母さんは、か弱い声で抵抗する私の頬をひっぱたいた。

「あんたさぁ、机の上に置いてあったあの落書きってなんなの?」

馬鹿にするようにお母さんが笑いながら言った。絵のすぐそばには、私が応募しようと思っていたコンクールのチラシもあったはずだ。

「あんたなんかが絵描いて飯食っていけるとでも思ってんの?真っ当に生きることもできない出来損ないが夢見てんじゃないわよ」

この時、私の中で何かが切れる音がした。私の事を人間として扱わない母親にも、気づいていながら見て見ぬふりする周囲の人たちにも、反吐が出る。今までの努力など、どうなろうが知ったことではない。私は迷わず包丁を手に取っていた。


気づくと辺りは血の海だった。最初から私が幸せになることなど、不可能だったのだ。私はスマホを手に取り、とっさに電話をかけた。

「もしもし」

相手はお兄さんだった。

「、、、た」

「なんて?」

「お母さんを、、、、」

電話越しにお兄さんが固まったのを感じる。数秒の沈黙の後、電話を切ろうとするとお兄さんが口を開いた。

「ちょっと待ってもっと詳しく」

話の途中でも構わず電話を切った。もうどうでもいい。力が入らない体をなんとか動かしながらシャワーで血を流し、着替えてから外に出た。

いつもの道を歩いていく。飲食店のいい匂いや、ガヤガヤとした賑やかさになど目もくれず、ひたすら歩いた。何も考えられなかった、いや考えたくなかったのかもしれない。私はもう犯罪者として余生を生きていかなければならないのだから。ふと横を見ると、お兄さんといつも和やかな時間を過ごしていた思い出の場所で、私の大切なバイト先であったあのスナックが目についた。店は今日も何一つ変わらず、みんな楽しそうに酒を飲んでいた。もうここに来ることもないと思いながら通り過ぎようとすると、誰かから声をかけられた。

「やっと見つけた」

振り返ると、そこにはお兄さんがいた。信じられない光景に思考が停止しながらも、私は言葉を絞り出した。

「なんでここにいるの」

「さぁ、なんでだと思う?」

そう言いながら頭を撫でてくれるお兄さんに胸が熱くなって、気が付くと涙が零れ落ちていた。頭を震わせて、荒くなる息を抑えきれないままお兄さんにもたれかかる。

「なんで、なんで会いに来てくれたの」

一呼吸おいて、お兄さんが答えた。

「誰に何と言われようが、俺は君に会いたかった」

そっと抱きしめてくれるお兄さんに抑えきれない感情が込みあがってきて、しばらくの間私は顔をぐしゃぐしゃにしながら泣いた。

「、、、、ねぇ、俺たちさ」

お兄さんが口を開いたその瞬間、時が止まった。世界に存在するのは、私たちだけなのではないのだろうかと思うほどに静かだった。

「一緒に終わらせよう」


私たちは海に来ていた。安らかな波の音と潮の香りが、心身共に私たちをリラックスさせる。

「夜の海もいいもんだね」

お兄さんが風に髪をなびかせながら、私に言う。

「そうだね」

私はポケットから小さな箱を取り出した。

「煙草、吸っていい?」

「いいよ、俺も一本吸わせて」

前は吸うことをあんなにも渋っていたのに、お兄さんは自分から煙草に手を伸ばした。ライターで煙草に火をつけて、二人で海を眺めながら煙草を吸った。

「ありがとう」

お兄さんが驚きを隠せない表情で私のことを見た。

「私はあなたに救われた」

目を丸くさせたあと、一粒の涙がお兄さんの頬を伝った。手で涙をぬぐいながら、お兄さんが口を開いた。

「俺、最初からわかってたんだ。他人を変えることはできないって」

遠い海を見ながらお兄さんは言った。きっと、お兄さんももがき苦しみながら自分なりに答えを探し続けていたのだろう。自分が選んだ道は本当に合っているのだろうかと、葛藤しながら毎日を送っていたはずだ。

「でも、君を理解しようとすることをやめなくて本当に良かった」

顔をうずめて、嗚咽を押し殺しながらお兄さんは言った。静かに二人で海を見渡しながら、私たちはゆっくりと立ち上がった。

「来世でも、会えるといいね」

それを聞いたお兄さんは、柔らかな表情で答えた。

「きっと会えるよ。何度でも俺が、君の事を探しに行くから」

お兄さんが私の手を優しく握りながら答えた。二人で顔を見合わせて微笑んだ後、手を繋いだまま私たちは海へ飛び込んだ。煙草の煙が交わり、海に溶けるように消えていく。私は、貴方に出会えて幸せでした。


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