第34話 囚われの聖女、メイドになる



 廊下を息を潜めて進み、曲がり角ごとに耳を澄ませる。


 屋敷の中は想像した以上に広く、似たような意匠の扉と廊下が繰り返されており、方向感覚をつかむのが難しい。


 ふと右手の扉が目に留まった。取っ手は真鍮でできており、よく使い込まれて鈍い輝きを帯びている。周囲の壁や床には埃ひとつなく、使用頻度の高さを感じさせるが、今は人の気配がない。


 扉の前に立ち、呼吸を整えて耳を澄ませる。……物音はしない。廊下の奥からも足音は聞こえてこない。

 試しにノブを握る。ひやりとした金属の感触。……鍵はかかっていない。ほんの少しだけ開けて、隙間から覗き込み、耳を澄ます。やはり人の姿も物音もない。


 私は意を決して、するりと中に滑り込み、静かに扉を閉めた。背後で「カチリ」と留め金が収まる音がして、胸の奥で張り詰めていた糸がわずかに緩む。


 そこは小広間だった。応接にも使われるのだろう、壁際には背の高い書棚とサイドボード、部屋の中央には低いテーブルと数脚の椅子。調度は重厚で落ち着いた雰囲気を湛えているが、どうやら今は使われていないらしく、淀んだ静けさが空気を支配していた。


 微かに漂うのは古い木材と蝋の匂い。窓は閉じられているが、ガラス越しに差し込む光が磨き込まれた木の床を柔らかく照らしている。埃が舞い上がらないのは、定期的に清掃されている証拠だろう。


 壁の中央、暖炉の上に──まるで部屋全体を支配するように、ひときわ目を引くタペストリーが掛けられていた。


 深紅の布地は、ただの染め布ではない。光を吸い込むような重みを持ち、織り込まれた繊維は一糸ごとに緻密で、年月を経ても色褪せぬ強さを秘めている。

 そこに銀糸で描かれた紋章が浮かび上がっていた。糸は細いはずなのに、光を受ける角度によっては刃物のように鋭く輝き、また別の角度では月光のように鈍い冷たさを放つ。


 紋章の意匠は、二本の剣が交差し、さらに広げられた一対の翼が重ねられている。その背後には蔦が絡み合うかのように複雑でありながら、意図的な対称性を保っていた。


 見れば見るほど、工芸品というより威信を示すための象徴に近い。


 胸の奥で、緊張感がじわりと広がる。

 こうした紋章は、ただの装飾ではない。家柄、歴史、権力……それらを凝縮した記号であり、背後には必ず血筋と政治的な意味がある。


 私はすぐにスマホを取り出し、シャッター音が響かないよう設定を確認してから数枚撮影した。

 画面に収まった紋章は、実際よりも冷たい印象を放っている。ノートアプリに貼り付け、ひとまず証拠を確保した。


 すぐに窓際へ移動する。外の様子も確認しなければ。


 窓辺に近寄ると、そこにはよく手入れされた庭が広がっていた。

 左右対称に植えられた低木、真っ直ぐに敷かれた石畳の小道。咲き誇る花壇は計算し尽くされた色彩でまとめられており、隙のない風雅さを誇示していた。中央には白い噴水がきらめき、ゆるやかな小道が屋敷の外壁へと続いている。

 見事に手入れされた「見せるための庭」だ。


 やはり、ただの盗賊やごろつきの拠点ではない。しっかりした由緒ある家の屋敷だ。

 私は迷わずスマホを向け、また数枚撮影してノートに追加した。


 その時。

 外から人の声がした。


 私は反射的に身を屈め、窓際の壁に背をつける。心臓が跳ね、呼吸が浅くなった。

 息を詰め、慎重に足音と話し声の数を数える。しばらく耳を澄まし、声の抑揚や間合いから、三人だと確信した。


 そっと窓辺から顔だけを出して覗く。視線の先を横切っていくのは──三人のメイドだった。談笑しながら石畳の小道を渡っている。


 白のフリルキャップに髪をきっちりまとめ、黒いロングワンピースに白の角襟。胸元から並ぶボタンは几帳面に整列しており、全体の輪郭を引き締めている。そして腰から広がる真っ白なエプロンが清潔感を際立たせていた。

 彼女たちが歩くたび裾がふわりと揺れ、庭の草花の色と対照的に鮮やかに映える。


 その姿は、ヴァレスティ邸で見たものとは趣が違う。あちらはもっとドレス的で"お仕着せ"という呼び方が相応しいような制服だったが……こちらは視覚的にわかりやすく、誰がどう見ても「メイドです」と名乗っているかのようだ。


 耳に届く会話は他愛もないものだ。花壇の手入れのこと、厨房での出来事、ささいな噂話。

 その雑談は次第に遠ざかっていく。私はその音を聞き届けてから、静かに体を起こした。三人の背中が角を曲がって見えなくなる。

 心臓はまだ早鐘を打っていたが、頭の中は冷静に回転している。


「……なるほどね」


 あれならイケるな。

 私は心の中で呟き、脳内ウィンドウを立ち上げる。


 検索結果がずらりと並んだ。どれも似たようなシルエット。黒のワンピースに白いエプロン、フリルキャップ。価格帯も手ごろだ。

 商品ページを開き、画像を食い入るように見つめる。細部の作りは異なるだろうし、生地や縫製は多少安っぽいだろうが、シルエットさえ近ければいいだろう。


 購入ボタンを押し、メイド服一式を手元に取り出した。


 同時にノートアプリを同期して返答を確認すると、すぐさま文字が浮かび上がる。


『オルセン侯爵家の紋章だな』

『大物〜』


 思わず眉をひそめる。やはりそうか。重厚なタペストリーに縫い込まれていた意匠は、ただの飾りではなかった。侯爵家──それは、この国でも限られた家柄にしか与えられない高位の爵位。


『すぐにむかえに行く』

『こらこら〜君はダメでしょ』


 私はノートに打ち返し、深くため息をつく。胸の奥で緊張が再び膨らんでいくのを自覚した。


 侯爵家が相手だとすれば、私がここに連れ込まれたことの意味は一層重い。相手が大きいほど厄介さも跳ね上がるのは当然だ。

 私一人を捕らえることなど取るに足らぬ労力だったのかもしれない。けれど、そんな相手が、なぜわざわざ私を攫ったのか。考えれば考えるほど胃が重くなる。


 けれど、今は考えても仕方ない。ここから出ること──あるいは潜り込んで情報を持ち帰ることの方が優先だ。


 ここは一階。窓から出て庭を突っ切れば脱出できるだろう。だが、ヴァレスティ邸よりも一回り狭いと想定しても十二分に広大であろう庭園を抜け出すにも、手間と時間がかかる。出来れば姿を隠す手段が必要だ。


 それに……ただ抜け出すだけでは、何故私が攫われたのか、その理由は分からないままだ。

 私が目的なのか、レオナルドか、はたまたルクレツィアか、エウジェニオか……。

 私が目的だったとして、"商人"なのか"聖女"の方なのか。


 出来れば、少しでも情報が欲しいところだ。でなければ、今後の対策もしようがない。


 私は再び脳内ウィンドウを開き、検索フォームに「ファッションウィッグ」と入力する。


 画面に並んだ商品画像の数々は、コスプレ用の、カラーバリエーションや発色を重視したウィッグとは異なる。色の鮮やかさよりも「自然さ」を重視したラインナップ。黒髪、茶髪、金髪……いずれも実際の人間の髪色に寄せて作られている。


 私はその中から、明るめの茶髪を選んだ。地毛よりも軽やかな色で、光に透けると柔らかい印象を与える、ナチュラルなウェーブ入りのセミロング。


 購入ボタンを押し、目の前に畳まれたウィッグが現れる。新品特有の淡い化繊の匂いが漂うそれを持ち上げた。指先で梳くと、思ったよりも自然な手触り。光の反射も人工的なテカリは少なく、安心する。


「……よし」


 まずは下準備だ。


 コスプレメイクの動画を再生して、脳内ウィンドウと手元の鏡を交互に見比べながら、手際よくメイクを進めていく。


 ポイントはシャドウ。彫りの浅い顔立ちを、いかに立体的に見せるか。鼻筋の横には影を。頬骨の下にはシェーディングを。普段はほとんどしない化粧だが、こうして真剣にやると、自分の顔が他人のものに変わっていく過程がわかる。

 ベースのファンデーションの色も少しだけ明るめを選び、陰影を強調した。

 ハイライトは光を拾う額と鼻筋の高い部分にだけ少量。頬にほんのり血色を加えると、顔全体が一気に立体感を増した。


 私は何度も角度を変えて鏡を覗き込む。鏡の中の私は、見慣れた顔の輪郭が曖昧になり、どこか異国的な印象を帯びていく。

 目元も、アイシャドウを丁寧に入れただけでぐっとくっきりし、普段よりも二回りほど存在感を増していた。


 さらに瞳の色も変える必要がある。私はカラコンの一覧から、ブルーグレーを購入。パッケージを開き、恐る恐る装着する。ひんやりとした違和感が走り、瞬きを繰り返した。

 やがて鏡に映った自分の瞳が、落ち着いた薄青に変わる。これで黒髪黒目の印象からはだいぶ離れられただろう。


 ひとしきりメイクを終えると、いよいよウィッグを取り出す。


 まずは自分の黒髪をまとめ上げ、付属のウィッグネットの中に丁寧に仕舞い込む。はみ出す毛を指で押さえ込みながら、茶髪のウィッグを被った。

 ふわりと広がるウェーブ。明るい色が顔まわりを柔らかく照らし、先ほどのメイクと相まって、まるで別人のように見える。後ろ髪を簡単に結い上げた。


 机の上に置いた、さきほど取り出したばかりのメイド服一式。それらを手に取り、素早く袖を通す。


 黒のロングワンピースは体にぴたりと沿い、白の角襟が清楚な印象を強調する。腰に結んだ真っ白なエプロンが、きゅっと全体を引き締めた。

 フリルキャップをきちんと頭に乗せ、髪を押さえ込む。ふわりとしたウェーブが頬にかかり、表情を柔らかく見せた。


 私は姿見を出して全身の身だしなみを確認する。姿見の前で裾を広げ、くるりと一回転。布の揺れ方、袖のライン、襟の収まり。

 鏡の中にいるのは、慎ましく、どこにでもいるようなメイドが一人映っていた。


 私はスマホを取り出し、鏡越しの自分を撮影する。

 写真に収められた姿は完全に別人だった。光沢を帯びた茶髪に、クラシカルなメイド服。メイクで輪郭を変えた顔は、元の私を知っている者ですらすぐには気付けないだろう。


 その写真をノートアプリに貼り付け数秒後、レオナルドから返事が来た。


『誰だ?』

『笑』


 スマホの画面を見て、つい声を殺して吹き出してしまった。

 うん、たしかに私に見えないかもしれない。変装としては成功、ということだ。


 深呼吸をして気持ちを落ち着ける。

 このまま屋敷の中を歩き、情報を集め、脱出のタイミングを図る。

 侯爵家の私邸に潜り込む危険は計り知れないが、仮面を被った今なら、歩ける道がある。


 私は裾を正し、再び扉に視線を向けた。


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