3章-3


 日が傾き始めた畑の中の道を、セレーとアスタリがのんびりと歩く。畑で作物の世話をしている者たちからは観察するような視線を向けられているが、セレーが笑顔で手を振るせいでなんとなく手を振り返してしまう村人もいた。

 主要な都市から離れた山麓の村落群。エレフォール山脈の恵みがあるとはいえ、豊かな蓄えがあるはずもない。その中から油や卵を使った菓子を提供してくれたのは、それだけ彼らの村にとって行商人が重要な存在であるという証だった。キャラバンがなければ、彼らの村は立ち行かないのだ。行商人リュックがセレーたちに報酬を支払ってでも荷を運ばせたのは、行商路が潰れるからという私欲だけが理由ではなかった。

 そこで二人は、菓子のお礼に手伝えることはないかと顔役のテーガを訪ねることにしたのだ。馬車の旅で強張った体、特に腰をなんとかほぐしたいという切実な事情もあった。

 広場に近づくと、テーガと旅人らしき女が話しているのが見えてきた。セレーの耳を、ヒステリックな叫びが叩く。


「――卵がないですって!?」


 内容と剣幕のギャップに、セレーは思わずアスタリと顔を見合わせた。女は金髪をくるくると巻いた重そうな髪型で、セレーより少し年上と見える美人だ。茜色の、ドレスのようにスカートが広がったワンピースを身につけている。


(ぜんぶ派手な女だ)


 セレーが失礼なことを考える間に、女はがっくりと肩を落として俯いた。そのまま地面に手をついてしまいそうな勢いである。


「なんという悲劇……エレフォール山麓村落の卵料理を味わいに遥々来たというのに……」


 女の後ろにはもう一人、従者と思しき男が立っていた。黒髪をぴしりと後ろに撫で付け、ダークグレーのチェスターコートが似合う美丈夫だ。低い声で女に声をかける。


「お嬢」

「様、を付けなさいと言ったでしょう」

「エクレールお嬢様。そちらの方、まだ何か言おうとしてますが」


 エクレールと呼ばれた女が顔を挙げると、顔役のテーガが苦笑して頷いた。


「今日の分はなくなってしまいましたが、明日か明後日には山に狩りに出ている者たちが戻る予定です。少し時間をいただければ、振る舞えると思いますよ」

「そ、それに、あの……」


 テーガの横から、ティーナが覗くように顔を出す。


「生地、少し残っていますから……ドーナツなら……」

「ドーナツですって!?」


 全身が脱力しかけていたのが嘘のように、エクレールが勢いよくティーナに迫る。ひ、と小さく悲鳴が上がり……その間にアスタリが左腕から割って入った。


「あら?」

「幼気な子羊を……悪戯に脅かしてはならない……」

「失礼。少々はしたなかったですわね」


 おほほ、と笑った女は姿勢を正し、スカートをつまんで腰を落とす気取った礼を示す。紅いブーツがちらりと覗いた。


「星追い、エクレールと申します。ぜひドーナツをお願いしますわ。昼食を抜いてきたからお腹ぺこぺこですの」



 テーガは従者の青年と情報交換を。

 ティーナは、手伝いを申し出たアスタリと共に家でお菓子作りを。

 残されたセレーは自然、エクレールのそばに立つことになった。


「貴女と、先ほどの義腕の方、星追いかしら?」

「そ。そっちは何でこんなルートに?」

「無論、美味と名高い卵料理を味わうためですわ」


 豊かな胸に手を添えて高らかに、エクレール。セレーは思わずじとっとした視線を向けてしまった。


「ご飯のため……?」

「美味のため、と」

「……同じじゃん」

「いいえ、いいえ。貴女も星追いを名乗るならば覚えておくべきよ。このわたくしの信念を――すなわち世界の真理を」


 ふふん、と笑ってロールした髪を払う仕草。じっくり間を取ってエクレールは告げた。


「美食に勝る美徳なし」

「……お、おお」


 反応に困って曖昧に、セレー。


「感動して声も出ないようね」

「違うけど。……美味しいご飯は大事だけど、そこまで?」


 問う声には疑問というよりも呆れの方が強い。バイグラードからの道のりは平穏ではあったが、あくまで実力があっての話。どのようなルートで訪れたにしろ、卵料理のために荒野を渡るというのはセレーにとって想像が難しい動機であった。

 セレー自身はある材料を上手く使う料理の方が得意でもある。


「そこまで、よ。至上の美食のために【星】を目指しはするけれど、荒野にはまだまだ私の知らない美味がある。キャラバンは食材は運べても料理そのものを運ぶことはできない……」

「知らない……美味、か」


 そう言われると、セレーも少しその衝動を理解できる気がしてしまった。知らない場所、未知の光景を見たいという衝動と近いのかもしれない、と。

 エクレールはその反応を知ってか知らずか、胸を張って笑う。


「星追いの強さは、すなわち願いの強さ。これで貴女よりも私の方が一歩も二歩も先んじていると格付けが済んでしまったようね。おほほほ」

「寄り道してるようなお嬢様には負けないけど???」


 笑顔で睨み合う二人に声がかかった。控えめなティーナの声と――


「あの……できました」

「要らないならそのまま仲良く話しているといい行こうティーナ」


 本気のこもったアスタリの声。


「要りますわ!」

「要る!!」


 即座に駆け寄る二人。ティーナが持っている皿には、輪型ではなくころころと丸い揚げ菓子が三個。


「輪にするには足りなくて、小さく揚げたんですけど……」

「ドーナツの穴の部分だね、かわいい」

「頂戴しますわ――ちょっと待ちなさい、どうして貴女がたが手を出すの!」


 手を伸ばすエクレールの両側から当然のように摘まもうとしたセレーとアスタリの動きが止まる。


「え?」

「愚問……甘美なる誘惑に抗える者はいない……」

「私がオーダーしたものでしょうこれは!」


 ぎゃいぎゃいと騒いだ結果、エクレールが二個、セレーとアスタリで一個を半分ずつ食べることになった。エクレールの指が揚げ菓子を摘まみ、まだ温かいそれを口元へ。

 あむ、と柔らかな生地に噛み付く。


「ん……」


 そのまま黙々と一個食べ切ってふうと吐息をこぼした。まぶたを閉じたエクレールの表情を、ティーナが少し緊張した様子で見つめる。

 目を見開き、エクレールが託宣のごとく告げた。


素晴らしいエクセレン。お見事ですわ。しっかりとした甘みに軽い食感の生地、幸福を具現化したようなお菓子……この良い香りは種の油かしら。生地にも秘密があると見ましたわ」


 「甘い」と「ふわふわ」しか言えなかったセレーとアスタリは思わず押し黙る。ティーナも褒められているというよりは圧倒されたようにアスタリの背に隠れてしまったが、そんな様子を気にもせずエクレールは腰のポーチから羽ペンのかたちを模した銀色の金属を取り出した。

 銀色のペン先を残りひとつの揚げ菓子へと向ける。その動きの鋭さに、セレーは思わずホルスターに手を伸ばしかけた。エクレールの方はセレーの反応にも気付かず、真剣な表情で告げる。


「――美食に勝る美徳なし。測定せよ、〈度量衡メトロージ〉」

「願鋳……!?」


 セレーの驚きの声の中、羽ペンの形をした願鋳が淡く輝く。猛禽の羽を模した部分に細かな文字が浮かび上がり、エクレールは真剣なまなざしでそれを読む。


「なるほど、卵……卵黄をたっぷりと使うのがこのコクと柔らかさを生み出しているのですね。生地を寝かせる時間も……」

「す……すごい。そんなことまで、わかっちゃうんですか……?」


 言い当てられたティーナが目を丸くする。エクレールはものすごく自慢げに羽ペン型の願鋳を掲げて頷いた。


「これぞ我が願鋳、万象を測定する〈度量衡〉。貴女の芸術のようなお菓子、堪能いたしましあむ」


 解析が終わったもう一個の揚げ菓子を口に放り込んで味わう。指をハンカチで拭うと、エクレールはポーチから金貨ステーターを二枚差し出した。思わず手を引いてしまったティーナはもちろん、セレーとアスタリも目を丸くする。二口分の菓子の対価としては明らかに過剰だ。


「も、もらえません、こんなに」

「いいえ、受け取りなさいティーナ。これは美味に対する対価であると同時に、美味を生み出す貴女の腕前、そして使に対する正当な評価と心得なさい」


 まるで演説するような凛々しい声音。ティーナは戸惑って視線を彷徨わせる。アスタリが深く頷いて見せて、ようやく意を決したように金貨を受け取った。


「本来なら物々交換の方が良いでしょうけれど、そちらは手持ちが少なくて。両替の手間も含めてになること、許して頂戴」

「は、はい。いえっ。助かり……ます」


 まだ実感が湧かない様子のティーナに微笑み、エクレールはその場を離れる。交渉を終えたらしい従者の青年を引き連れて馬に跨った。


「それではごきげんよう。明後日までなんて待てません、私は狩りに出ているという方々に会いに行きますので」

「は、はい、お気をつけて……」

「セレーと言ったわね。【星】の下で会いましょう。生きて辿り着けたなら至上の美食を分けてあげても良くてよ」

「いいね――私が手に入れた【星】を見ながらのランチなんて楽しそうだ!」

「おほほ、ぶっ潰してさしあげますわ!」


 夕暮れの畑に、エクレールの高笑いと勢いのある馬の足音が遠ざかっていく。


「お嬢、出てます。地が」

「様を付けなさい! 実家ウチ堅気カタギじゃないってバレちゃうでしょう!」


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