いまわの際

芽野つぐ

いまわの際

          


 一目見たときから、私はあの人に惹かれていたように思う。あの人を瞳に映すと、躰が熱を持ち、それが伝わって顔まで熱を帯びてしまうのだ。

 ゆらゆらと揺れる電車の中に私は彼と二人きりでいた。私は学生時代に着ていたセーラ服を身にまとっており、電車の窓にうつる私の姿はひどく若くなっていた。彼は私の肩に身を預けて、寝息を立ている。私は人に触れられるのは嫌だったが、彼を突き放す訳にもいかないと、彼に肩を貸すことにしたのだ。

 横を向いて彼の顔を覗いた。長い睫毛、綺麗な線を描く輪郭、すらりとした手足は彼の体格の良さを表している。

 あぁ、本当にあの人によくに似ている。顔も、身体も、性格も、全てがあの人にそっくりなのだ。唯一の違いと言ったら、年齢で、あの人は私と同じ歳だったのに比べて、彼はまだ十代である。でも、それらはあまり重要なことでは無い。少なくとも、今の私にとっては、だけれども。

 ───彼の首を掴んだ。

 あの時の私は、どうしても彼に眠ってもらいたかった。こっちの世界に来て欲しかったのだ。

 彼の首には、まだ手跡がくっきり残っている。

私は安堵した。もう、きっと、彼が起きることはないだろうと。その時の私は、そう確信していた。でも、そうではなかった。

 彼は起きてしまったのである。

 「……っここは」

 私は焦った。ここで言う焦ったは、彼が起きたことだけを差してるのでは無い。私は彼のあの人に似たあの声に愛しいと少しでも感じた自分にも焦ったのだ。そして、その焦りは汗が滲むようなものではなく、腹の奥底からじわじわと込み上げて来る圧迫感のようなものであった。

 彼が起きてしまったと同時に、ゆらゆらとした穏やかな揺れが激しいものになった。電車の運転が杜撰になったようであった。

 ───運転手なんて最初から居なかっただろうけれど。

 彼は辺りを見渡しているようだった。じっくりと車内を眺めた後、私の方を向いた。彼の瞳に私は確かに映り込んでいて、その瞳は何処か焦燥感を漂わせ、鋭い嫌疑を私に向けていた。彼には、ここがもうどの様な場所で、自分が現実でどの様な状況に置かれているか解っているようだった。いや、解ってたんだろう、彼はあの人に似て頭がよく回る。それは、悪い意味で賢いということだった。

 何時まで経っても口を開かない彼に、じわじわ這い上がってくるものを焦らされている感覚が、気持ち悪かった。彼のまっすぐ私を突き刺す視線が、私の鼓動を急かさせる。それが、私には堪らなく煩わしかった。

 「おはよう。起きちゃったんだ、ずっと寝てれば良かったのに」

 ついに、私は口を開いた。普段なら絶対、私から声はかけなかった。ましてや、おはようだなんて彼に言ったのは、いつぶりだっだろう。

 電車はずっとトンネルの中を走っていた。そのせいか、車内は異様に暗く、重苦しい空気が漂っていた。

 私と彼しか居ない車内に、ぶらぶら激しく揺さぶれるつり革が、なんとも言えない緊張感を煽っていた。

 「ねぇ」

 彼はやっと口を動かした。そうして、ぽつぽつと私に問いかけてきたのだ。

 「なんで」

 一息ずつ区切り区切りに喋る彼が、私には堪らなかった。彼がどのような問いを続けるかなんて私には分かりきってることで、そして、その答えは彼も解っているはず。つまりは無意味な問いだった。

 「俺を殺そうとしたの。母さん」

 電車が止まった。急停車した衝撃が強く、私は思わず手すりに掴まった。

 自動に開くドアは、彼をここから逃がそうとしているように思えた。じっと、目を凝らしてドアの奥をみると、先には暗闇が続いているようだった。トンネルの中を走っていると思っていたが、もしかしたら、そうでは無いのかもしれない。

 どくどくと、心臓の音が全身に鳴り響く。

 「ねぇ母さん」

 彼は先ほど向けていた視線を隠すように目を細めると、口元を引き上げ、孤を描いて微笑んだ。

 なんで、と放たれた言葉は私を嗤っている様だった。

 「そんなの。貴方が憎かったからよ」

 跳ねる心臓の音は、腹の底から這い上がってくるものを焦らさせた。まるで、手すりと一体になったように、掴んだ手の感覚だけは敏感になっていた。けれど、それとは対照的に思考はすっかり冷めている気がして、放った言葉は何処か落ち着きがあった。

 「俺が父さんに愛されてたから」

 憎かったの?とあの人みたいに、ゆっくりと愛撫するように問いかけてくる彼が、私は堪らなかった。堪らなかったのである。故にさっきまで、腹の底に渦巻いていたものが、もう、喉元まで這い上がっていた。故に、私はそれをまた、抑えきれくなった。

 気づいたら、私は嗚咽を吐いて、掴まっていた手を手すりから離して、両手で髪を掻きむしっていた。取り繕っていた冷静さも失って私はただただ泣き喚く。

 そんな、床に崩れ落ちて縮まる私を、彼は面白いものを見るような瞳で見下していた。

 「でも、まさか首を絞められるとは思わなかったよ、母さん」

 彼はしゃがんで私の髪を掴み、頭を上げさせた。そうして、首を見せつけた。あの時みたいに。

 「頑張って手跡で、これを隠そうとしても、無意味だったよね」

 彼はそう言って、襟元を引っ張ると次は、鎖骨辺りを私に見せつけた。そこには、鬱血痕があった。私はその濁った赤い点から目が離せなかった。

 「どうしてぇ…!」

 首にあったそれは、もう私の手跡で見えなくなっていたのに。けれど、瞳に映るのは確かにほんのりと色付いた赤い跡で。見たくないのに、目に入れたくないのに、それから目が離せなかった。私は両手でがり、がりと首元を必死に掻いた。目からは、涙が溢れ、その滴は私の頬をゆっくり垂れて床にぽたぽたと落ちた。

 目を見開く私を、彼は更に煽った。

 「ほら見て、母さん。僕が父さんに、トオルに愛されてた印だよ」

 そう言って、心底愛おしそうに鬱血痕をなぞる彼に、簡単にあの人の名を呼ぶ彼に、私は溢れ出る涙を抑えられなかった。

 「うぁあぁあっはあ」

 情けなく、泣き喚く私に彼は呆れてたみたいで、私の髪から手を離して立ち上がった。私の頭は、そのまま床に打ち付けられて、がつんと車内に音が響き渡った。その衝撃が私の頭にも伝わった。

 「結局、僕を殺そうとしても無駄、だったよね」

 「うるさい!ころしてやる、ころしてやるぅう」

 割れそうな痛みが私を苛む中、私は彼をただただ憎いと思った。どうしようもなく憎かったのだ。醜く騒ぎ喚く私を無視して彼は歩きだす。

 ドアに向かい歩く彼の足に、私は必死に縋り着いた。

 そんな私に、彼は汚物を見るように顔を歪ませた。そして、私を思いっきり蹴っ飛ばした。

 若い姿である私は簡単に吹き飛んで、ドアにぶつかった。

 「じゃあね、母さん」

 手を伸ばしても、彼に届くことはなくただ空虚を握った。つうっと頬を渡る涙が冷たい。

 ここから出て行く彼をぼんやりと眺めながら、何処か身体がすぅーと冷めていく感覚があの時の様で、見えなくなっていく彼があの人と重なってしまって、私は懐かしく、愛おしく、腹の真ん中を触った。しかし、そこには何もない。

 「ああぁあ、」

 溢れた自分の声を聞きながら、私は必死にそこを掻いた。

 ドアが閉まる音が車内に轟く。それを聞いて、私は目を閉じた。次にドアが開いた時、私もあっちへ戻れるのかもしれないという少しの希望を抱いて。

 ──結局、ドアが開くことはなかった。


 ✲  ✲  ✲ 

  

 一目見たときから、私はあの人に惹かれていたように思う。あの人を瞳に映すと、躰が熱を持ち、それが伝わって顔まで熱を帯びてしまうのだ。

 「好きです。付き合ってください」

 放課後の校舎裏、夕陽を覆いかくす影の下で私はおずおずと、いつものように手を差し出した。

 何度目の告白だっだろう。何度ふられても、私は諦めなかった。私はあの人のことが好きで好きで仕方なかったのだ。

 何度告白しても慣れなくて、いつもいつも顔に熱が帯びているのを感じながら、毎度、同じ言葉を吐いた。

 「いいよ、付き合ってあげる」

 あの人は溜息をつくと、諦めたように言った。

 私は、あの人の彼女に成れた、という事実に涙を零した。今までの努力がやっと報われたと思ったからだった。でも、そうじゃなかった。私は気づかなかった。あの人が決して、私の手を取らなかったことに、あの人の瞳が、冷めきっていたことに。

 あの人は学生時代よくモテていた。よく告白されてたし、女子に囲まれていた。そういう場面をみるたびに硝子にヒビが入るような不快感を覚えた記憶がある。

 ──それでも、私は彼に愛されていると勘違いし続ける様な、そんな馬鹿じゃなかった。

 あの人が冷めた瞳で私に笑いかけるのに、私はだんだん気づいていく。だから、あの人の瞳に少しでも映りたくて、したこともなかった化粧をした。だから、あの人と出掛けるためだけにバイトだってした。私はあの人の特別になりたかったのだ。それでも、あの人の瞳に私が映り込むことはなくて、それでも、あの人は「別れよう」とは言葉を綴らなかった。

 一度も手も繋がず、付き合ってるという言葉だけの曖昧で脆い関係が高校を卒業しても続いていく。

 小さな箱の中にある小粒の指輪がきらりと輝いていたのを覚えてる。

 「結婚してください」そう口を開いたのは、あの人からだった。あの人手の中にあるそれは、私が何度も夢にみた輝きであった。けれど、あの人の瞳には私の姿はなく、映されていたのは指輪だけ。私と結婚さえできれば良いと思っていたのだろうか。瞳の奥で、指輪がきらきらと揺らめいていた。

 ──私はあの人の特別になりたかったのだ。

 手を差し出した。そうして、あの人に指輪を着けてもらった。ゆっくりと私の指に指輪が通る。初めて触れたあの人の手はひどく冷たかった。

 結婚式をあげることもなく誰にも知らせず、私はあの人と夫婦になった。

 たまに会う同級生の知り合いに、私の薬指にある指輪を見て、どうして教えてくれなかったのとか、結婚したの、おめでとう!などと言われるのが嫌だった。その度に、そんな言葉を投げつけられる度に、私は心臓がきゅっと握られたようになるのだ。

 おめでたくなかったのだもの。皆が思う幸せな結婚じゃなんかちっとも無かったのだもの。だってあの人の瞳に私はまったく映っていなかった。なんど、あの人に手を伸ばしても届くことすらない、その手は行き場を失うだけなんだ。

 きっと胸が痛かったのは、わたし、私は、結婚までしたのにキスもしたこともない私達の関係が明らかにおかしいものだと気付いていたからだ。

 ──私は本当の意味で彼の特別にはなれなかった。

 最初に子供が欲しいと言ったのはあの人だった。今まではそんなこと一度も言わなかったので、私は当然おどろいた。私はなぜ、あの人が急に子供が欲しいなんで言い出したのか分からなかった。私はまだあの人の特別じゃない、到底、私の子など愛せる訳が無い。

 それでも、私は子供をつくるのを煩った。特に明確な意味があるのではなかったけれど、悪い予感がしていたのだ。もし、あの人が私との子を愛してしまったら、瞳にその子が映ってしまったらと。想像するだけで気が狂ってしまいそうだった、本当にそうなったら私は壊れてしまうと。

 キラとあの人の指輪が月明かりに照らされて煌めいた。テーブルの上に置かれたそれを私はそっと手のひらに収める。

 あぁ、子供が出来たら私は狂ってしまうかもしれない。私はあの人との子を愛せる自信がない。

 なのに、なのに、あの人に触れたいと、あの人と子供を作る行為をしたいという欲望に私は抗えなかった。

 手に収めたそれがまた光を放った。

 

 ✲  ✲  ✲ 

 

 生まれた子供は男の子だった。私は正直ほんの少し安心した。女の子だったら、その子にあの人が取られると思っていたからだ。だから、そんな心配はいらなかったんだと。でも、ちがった。そもそも、あの人の恋愛対象は、性的な目でみれる対象は、女ではないのである。

 あの人が初めに息子──彼を見たとき、あの人の瞳は輝いているように見えた。あの人は彼を優しく抱き上げると、愛おしそうに目を細めて名を呼んだ。そこには、いつもの冷めた、どこか苛立ちの含んだ目を私に向けるあの人の面影はなかった。でも、まだ、まだあの人の瞳には何も映っていなかったから、私は覚えた違和感を噛み締めた。

 彼はあの人によく似て、美しかった。

 彼が小学校に上がったくらいのこと。冷えた部屋の中で私はそっと息を吐いていた。十一月の寒い冬の日だった。

 私は喉が渇いたので、水を飲むためにそろりと、ベッドから立ち上がり部屋を出た。のっぺりとした湿っけ、静かな廊下は少し不気味であった。ぎしぎしと音を立てる床を踏みながら歩く。リンビングに入る前、部屋の明かりがついているのに気づいた。私はこっそりと中を覗く。

 そこには、あの人と彼が居た。あの人は彼の両肩を掴んで、なにかを話しているようだった。私は目を凝らしてあの人をみる。

 どくん、心臓が跳ねる。それは、一定のリズムを刻んで音を鳴らす。どく、どくん、とばくばくなる心臓の鼓動がしんとした廊下にただ一つあった。

 ─────あの人の瞳に彼が映り込んでいた。

 そして、あの人と彼は顔を近づけて─。

 私は、手首を掻きむしりながら、喉の乾きも忘れて自分を落ち着かせるために部屋に戻った。私を渦巻いていたのは、彼への憎しみだけだった。

 その日から、私は彼を邪険に扱うようになった。声をかけることも、彼に触れることもなくなった。彼をそういう風に扱うと、あの人は私を睨んでくる。酷く、憎しみを込めた瞳で。私は嬉しかった。あの人が私を、私という存在を見てくれたような気がして。相変わらず、あの人の瞳に私は居ないけれど、それでも、あの人が私を意識してくれたのが私は嬉しかったのだ。けれど、あの人が彼に向ける瞳は優しくて、彼はしっかりあの人の瞳に居て。そんな二人を見る度に私は、割れた硝子が心臓を貫くような厭わしさを感じたのだ。

 ──日々、毎晩、毎晩あの人の部屋から漏れだす二人の声にだんだん私はすり減られていった。


 雪が降るほど気温の低い日。彼は中学生であった。その日は湿度が高く、じめじめとした空気が広がる、息の詰まりそうな日だった。窓も湿っていて、景色はぼやけてよく見えなかった。

 この日、あの人は残業で帰りが遅くなると連絡を受けていた。だから、夕食は彼と私との二人きりだけだった。もちろん、私は彼の分の食事は作らなかった。あの人の分は、ラップをかけてテーブルの上に置いておいた。彼はお湯を沸かしていたから、カップラーメンでも食べたのだと思う。

 食事を取り終わり、最後に食器と包丁を水切りかごに入れ終えて、そそくさと部屋に戻ろうとする私に彼は言った。

 「ねぇ、母さん」

 私は彼を無視してリビングを出ようとした。けれど、彼が私の腕を掴むせいで進めない。

 「ねぇまって行かないで、父さん─トオルのことで話があるんだ」

 言葉とは反対に、力強く握られた手が私の腕を決して離さず、有無を言わさせない。あの人の名を呼ぶ彼が酷く、穢れて醜くいと思った。

 「貴方と話すことなんてない」

 少し震えた、苛立ちを抑えた声で言う私に、彼は困ったような顔で微笑んだ。

 「そんなこと言わないでよ。血の繋がった家族じゃないか」

 嘲笑って彼は言う。ぐいっと彼は私の腕を引っ張った。そのまま私は床に倒れ込む。立ち上がろうとしている私の前に彼はしゃがみ込んだ。

 「ほら、見てこれ」

 彼は首元を見せつけた。そこには、うっすらと赤い斑点があった。私はその点が何か、どうして出来てしまったのかを察していた。

 「僕はトオルの特別になれたみたいだよ」

 にこにこ笑顔を貼り付ける彼が、憎らしくてしょうがなかった。溜まっていた鬱憤が抑えきれなくなっていた。故に、ゆえに、私は一心不乱に彼を押し倒して───彼の首を掴んだ。

 この時の私は、どうしても彼に死んでもらいたかった。赤い点を消したかった。

 私は彼の首を、赤い斑点を覆うようにして両手で掴み、ぎりぎり強く絞めた。彼はなぜか、あまり抵抗せずに軽く私の手首を握っていた。はっはっと短い息を吐き出して、苦しいのか、口元を歪めて口の端からは涎を垂らしていた。目元からは涙が流れていて、その水滴が床にぽとりと落ちた。普段のすました顔の端麗な彼とは違く、その姿は醜くみえた。

 「消えろ。きえろ!」

 口元が少しづつ引きつり上がってくる、昂った感情のまま私はさらに手に力を込めた。

 あと少し、あと、ほんのちょっと。なのに、なんでか、彼の、私の手を掴む手が弱くなるごとに、私もなんだか力が入りずらくて、でも、それでも夢中に彼の首を絞めようとした。でも、でも力が入らなかった。私の瞳から涙がゆっくり滴った。水滴は、自分の両手に、彼の首を絞める二つの手に静かに落ちた。

 どうして。彼のことが憎くて仕方ないのに。どうして、涙が流れるのだろう。今、自分のこの手で穢れた赤い斑点と共に彼を殺そうとしているのに。

 彼のこと愛したことない、産む前から愛せる自信もなかった。あの人を奪っていった彼が憎い。憎い。そう、憎らしいくて堪らない。堪らないのだ。

 ──私は再び手に力を込めようとした。この時、視界の端に映った彼は少し笑っていた。それは、苦しそうなものではなく嘲笑っていたのだ。

 あと少しという所で、私はがつんっと吹き飛ばされた。勢いのまま私はテーブルの足に突き当たり、あの人のために用意して置いた料理がテーブルの上から皿ごと、がしゃんと落ちた。

 そろと顔を上げると、あの人が私を見下してはあはぁと息を吐いて、震えていた。

 私は、ぶつかって痛む身体をどうにか持ち上げると、震えた足取りで私は彼の方へと歩いた。あの人を見向きもせずに。彼を殺すことで頭がいっぱいだった。

 一歩一歩、彼の元へ進む私の前にあの人は立ちはばかった。

 「どいて、どいてよぉ!」

 大声で泣き喚いても、あの人は退かない、退いてくれなかった。私は両手で髪を掻きむしって、叫んだ。叫びながら、あの人に体当たりして、前に進もうとした。その時、私の腹になにかが刺さった気がした。

 はっはぁと興奮が抑えられないまま、ゆっくりと顔を下げて自分の腹を見ると、包丁がめり込んでいた。つうっと腹の中にある冷たいそれが抜き出される。

 ──私は彼のことで頭がいっぱいだった。だから、気づけなかった。あの人が包丁を取り出していたことに。

 包丁が私の腹から抜けると、一気に血が吹き出し、その血が服を真っ赤に染めあげる。私はそのまま床へ倒れた。

 腹にあるくぼみを、刺された傷を私は手で抑えたあと、その中に指を入れた。中はまだ暖かくて、指を奥に入れれば入れるほど、血が溢れて止まらない。ぐちょり、中にあるなにかを掻くとそんな音が鳴る。手を抜き出してみると自分の血でぐちゃぐちゃで、べっとりと、指と指の間に糸を引いて血が床にぽたぽたと落ちた。

 冷えゆく体と対照的に私の感情は昂っていた。私は恍惚と笑った。だってだってあの人がやっと私を見てくれた。私に包丁を刺した時、彼の酷い憎しみが籠った瞳の中に私は確かに映されていた。もう、それだけでよかった。それだけで、うれしかった。それに、あの人に殺されたのは、きっと、この世で私だけ。私、たった一人だけなのだ。

 私、わたしはあの人の特別になれた気がした。

 「はぁははっ」

 息を吐いて、はいて笑った。

 そのうち、耳が遠くなって、瞼も上げられなくなった。暗くなりゆく意識のなか、かすかに電車の走る音が聞こえた。──


✲  ✲  ✲ 


 目を覚ます。瞼を上げてもまだ電車の中だった。そこには、さっきまでいた彼はもう居ない。ごと、ごとと電車の音だけがある。

 息を吸う。

 この電車の行き先はどこにも、明記されてなくてもうずっと止まることなく走り続けている。

 私は息を吐き出す。

 この電車に乗っていると走馬灯のように、今までの人生が流れていく。あぁ、いつから私の世界はあの人を中心に回るようになったのだろう。いつから、彼をあんなに憎むようになったのだろう。冷静な頭で考えても答えは出なくて、私はぼんやりと車窓に眺める。窓から何も見えない。真っ暗だ。

 死んでから冷静になって、まともになっても意味なんかない。

 ふと、学生時代あの人に会った日のことを思い出した。あの人に一目惚れした日だ。あの時も今と同じ様に電車に乗っていて、今と同じ制服を着ていた。

 もし、あの時、あの電車に乗っていなかったら、あの人と出会わなかったかもしれない。もし、あの人と出会わなければ、彼を憎まなかったかもしれない。

 そうだ。あの電車に乗らなければ、もう一本はやい電車に乗っていれば、良かったのだ。私達は出会うべきではなかった。出会わない方がよかった。

 電車は走る。走り続ける。止まることなく、ずっと。この電車に終点はあるのだろうか。

 ─私はまた、目を閉じた。


✲  ✲  ✲ 


 まもなく電車が来るというアナウンスを聞いて、私は階段をかけおりる。ひとつ前の電車に乗り遅れたのに、この電車にも乗れなかったら最悪だと。走って息をあげながら電車に乗ると、空いてる席をみつけ、すばやく座った。

 すぐに、電車は出発した。

車内には、がたんごとんという音と周りの喋り声などのがやがやした音が私を取り巻いている。私はイヤホンをして周りの音を塞いだ。

 その時、電車はトンネル近くを走っていた。私は制服を身にまとっており、端の席に縮こまって座っていた。ふと、私は顔を上げる。目の前に同じ制服を着た男子がつり革に掴まって立っていた。彼は、長い睫毛、綺麗な線を描く輪郭、すらりとした手足で体格が良いのが分かる。彼の端麗な顔に私は惹かれて、じっと見つめていた。

 彼がこちらを向く。彼は辺りを見渡しているようだった。目が合う。

 彼と目が合ったと同時に、ゆらゆらとした穏やかな揺れが激しいものになった。電車の運転が杜撰になったようであった。

 彼の瞳はなんにも映さないほど真っ黒で、目が当てられないほど美しかった。私はどうしようと、目を逸らそうとした。そしたら、彼は、はっきりと私をみて軽く微笑んだ。顔に熱が帯びるのを感じる。はたから見たら、きっと私の顔は真っ赤に染っているだろう。彼はもう視線をほかに向けてしまっていた。

 顔の熱は中々、落ちつかない。ぎゅっと両手を膝の上で握る。この熱は、きっときっと純粋な想いからきたもので、初めて感じたほのかな淡い恋心である。雅な彼をまた、そっと盗み見る。この想いは絶対に叶えたい、この恋を大切にしたい。彼を逃したくない。手に汗を握らせながら、私は彼を見つめ続けていた。

 電車が止まった。急停車した衝撃が強く、私は思わず手すりに掴まった。自動にドアが開く。

 彼が動きだした。おそらく、この駅で降りるのだろう。

 ここで話しかけないと駄目だと私は思った。

 汗ばんだ手をスカートの裾でかるく拭いて、イヤホンを外すと私は彼に近づいた。顔にまた、熱が帯びてゆく。

 「あの!クラスと名前教えて、ください!」

 緊張していると分かる声で私はたどたどしく言った。けれども、彼は私の言葉を無視して通り過ぎようとした。行ってしまいそうな彼に私は再び口を開く。

 「せ、せめて名前だけでも教えてく、ください!」

 面倒くさそうに、彼はドアから出る寸前で振り返って一言だけいった。「宮下」とだけ。

 彼が行ってしまう。私は思わず、手を伸ばした。けれど、彼が振り返ることはない。伸ばされた手は行き場を見失った。そのまま、手を振り下ろす。直ぐに、ドアが閉まる音が車内に轟いた。

 私は席には戻らずにつり革に掴まった。彼のことで頭がパンクしそうだった。イヤホンがなくても、もう周りの雑音が気にならないくらには。

 ───電車はまだ、走り続けている。

 私が降りる終点まで、あともう少しだ。

 「宮下くん」

 私は彼の名を確かめるようにそっと呼んだ。───

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いまわの際 芽野つぐ @tumm__gi03

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