第3話
「朝です」
侍女の声で目が覚めた。こんなによく眠れたのはいつぶりだろう。
侍女は相変わらず素っ気なく、無言で持ってきた洗面器に朝の洗顔用の水を用意した。温度は適温で、アロマオイルでも入れているのか森林を思わせる爽快な香りがほのかに香った。洗顔が終わる頃合いでタイミングよくタオルを手渡された。
エイベルが顔を洗っている間に侍女はベッドを整え、ベッドの上に着替えを置いた。男が着替えをしていても恥ずかしがる様子も見せず、その間に昨日と同じように食事をトレイごと卓上に置き、洗顔用具や着替えをワゴンに乗せると礼の一つもせず部屋を出て行き、ドアは閉じられた。
出された食事はぬるく、いつもより種類も量も少なめだった。少し物足りない気はしたが、今の体調で食べ切るにはこれくらいでよかった。
ロザリーに会うにはここから出なければいけない。エイベルは食器を引き取りに来た侍女に、
「少し体を動かしたいんだが、散歩くらいできないか」
と話しかけたが、侍女はきっぱりと
「無理です」
と言い切った。
「少しでいい。塔の中でいいんだ」
聞こえていないかのように無視する侍女に、さらに魅力的な提案をしてみた。
「ここから出してくれたら礼金として金貨を一枚渡そう」
代償を提示したとたん、侍女はエイベルの方に顔を向けると、ふんっと鼻から息をもらした。
「今のあなたのどこにそんなお金があると?」
かつては金貨の一枚ごとき容易に用立てられたが、幽閉されている今となっては一文無しだ。それに気づかされ、エイベルは羞恥で顔を赤くした。慣れない賄賂は失敗に終わった。
侍女は食べ終わった朝食のトレイを手に取ると、そのまま部屋の外に出て行った。
今やエイベルにはあの粗雑な侍女ほどの自由も金もない。自分が大きな何かを失っていることに気づかされた。
この日も昨日と同じ文官が聴取に来た。聞かれるのはロザリーが王立学校に来てから今までのことだ。既に下調べが済んでいる事項の確認をしたいようだがうろ覚えのことが多く、返事に身が入らない。それよりもロザリーのことが気になって仕方がない。
「ロザリーはどうしている?」
「殿下と同じように事情を聴いています」
昨日と同じ答えだ。そういう風に答えることになっているのだろうか。
「元気にしてるか。ちゃんと食事はとっているか?」
「…」
「粗末に扱っていないだろうな」
「…」
「牢に入っているのか?」
「お答えできません」
結局自分からの質問には答えてはもらえない。それなのに自分には次々に質問を向けられるのが腹立たしく、エイベルは握った拳を震わせ、
「この俺が…」
と声を荒げかけたところで言葉を止めた。昨日と同じ、動じない目と怯える目。同じことをしても進展はない。ゆっくりと息を吐き出し、心を落ち着けようと努めた。
「婚約破棄は私の一存で行ったことだ。ロザリーには関係ない」
「…お決めになるのは陛下です」
「頼む、父に会わせてくれ」
「陛下はお会いになりません」
続く同じ問答に文官達は諦めたように聴取を切り上げた。昨日と何も変わらない。イライラしてドアに枕を投げつけた。
その日は午後から医者が来た。衛兵二人も入ってきて、エイベルの左右についた。医者の道具には武器になるようなものもあり、警戒されているのだ。そんなに自分は信用されていないのか。聖女を守ったというのに…。エイベルは苛立ちを感じながらも、努めてそれを表に出さないようにした。
医者は昨日とは違う飲み薬を処方した。何のための薬かわからない。公爵令嬢との婚約を破棄したくらいで、自分を薬殺しようとでもしているんだろうか。とてもじゃないが口にする気にはなれなかった。
公爵令嬢と子爵令嬢を比べれば、公爵家を優遇するのは当然なのか。エイベルには納得いかなかった。その比較は正しくない。比べるなら公爵令嬢と聖女だ。この国を守る存在。疫病や魔物、天災から人々を守り、国に安寧をもたらす聖女…
どうしてもロザリーを助けなければ。この国の王子として守る義務がある。
今頃無理な尋問を受けているのではないか。自白を強要されて拷問を受けたり、まさか公爵家の手にかかり殺されたりは…
悪い方に広がる空想に不安を掻き立てられ、エイベルはドアを叩きいて外にいるだろう衛兵に声をかけた。
「おい、開けろ。ここから出せ! 聞こえないのか!」
一度足音が部屋の近くに寄ってきたが、
「放っておけ」
と言う声がした。叫び続けてもドアが開くことはなかった。喉の渇きと疲れが意欲を奪うまで、エイベルはドアを叩き続けた。
夕方になり、食事の時間が来た。机の上に置かれる食事。食事を共にする者は誰もいない。
夕食を片付けに来た侍女が食器を引いた後、ワゴンの下段から薬箱を取り出し、エイベルの手を取ると血のにじんだ手の甲に薬を塗り包帯を巻いた。食事を運んできた時に怪我に気がついたようだ。ドアを叩きすぎたせいだろう。熱くなりすぎてエイベルは自分の怪我にも気付いていなかった。
声もかけずに男に触れることに躊躇しない女。エイベルは王子であり、安易に下女が触れていい存在ではない。しかしこの侍女には警戒心も反発心も起こらず、治療を受け入れていた。
「お医者様からの薬は」
置きっぱなしになっている飲み薬を見た侍女がエイベルに問いかけたが、エイベルは黙ったままだった。するとそれとは別に昨日と同じ薬の入ったコップが卓上に置かれた。あのまずい薬がコップに波々と入っている。
じっとエイベルを見る侍女の目。本気だ。飲まなければ昨日のように押さえつけてでも無理矢理飲ませるつもりだろう。エイベルは覚悟を決めてコップを手に取ると、一気に飲み干した。自分で飲もうと飲まされようと、まずいものはまずかった。
うえっと顔をしかめると、あの侍女がわずかに笑ったように見えた。目の錯覚と思うほどのほんの一瞬だった。まずいものを飲まされ、苦しむ姿を見てざまあみろとでも思ったのかもしれない。むっとしたが、それよりも手の怪我に気付き治療してくれたことへの感謝の気持ちの方が強く、
「ありがとう」
と素直に礼を言った。それなのに、
「薬、おいしくなった?」
と皮肉る侍女。
「…そんな訳あるか」
侍女を睨みつけたが、さっと水を差し出され、あの味を薄めるためすぐに口に含んだ。空になったコップに追加の水を注ぐと侍女は部屋を出た。
いつの間にか机の上に本が二冊積んであった。一冊は歴史小説で、もう一冊は数学の本だった。恐らく自分の護衛をしていた堅物のフランクの選択だろう。ロザリーとの仲を咎める口うるさいフランクとはここしばらく口をきいていない。聖女の価値もわからない頭の固い男だ。反発心を覚えながらも小説を手に取った。ろくに体を動かせず、学校も公務もなく、こうして時間を持て余すことなど今までなかった。
早くここから出て、ロザリーを助けなくては。
目で追う文字はほとんど頭に入らないまま、気がつけば眠りに落ちていた。
その日も夢は見なかった。夢を見ないことをこんなに楽だと思うなんて不思議だった。いつも夢を見ると幸せな気持ちになり、夢の世界に行けるのを待ちわびていたのに…。
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