やらかし王子の世話係
河辺 螢
王子エイベル
第1話
目が覚めると、エイベルは王城の北の塔の一室にいた。窓は高所にあって部屋は薄暗く、絨毯は敷かれていたが石造りの部屋は寒々としていた。
ここは王族の罪人を幽閉するための場所だ。
ルージニア王国の第一王子として生まれたエイベルは、シーウェル公爵の令嬢エリザベスと婚約を結んでいた。シーウェル家は財力も政治的発言力も持つこの国有数の貴族で、王子と公爵令嬢との良縁を誰もが羨みながらも王子に最もふさわしい相手と評価し、来るべき王太子妃の誕生が待ち望まれていた。
王子の婚約から一年足らず、国の南端の小さな領で、養護院で暮らす身寄りのない娘が数々の奇跡を起こしたと噂になった。
瀕死の者が生き返った。
怪我をし立てなくなった馬が走り出した。
凶暴化した野犬がその姿を見ただけで逃げ去った。
枯れかけた木にたわわに果実が実った。
領内に魔物が現れなくなった。
やがて娘は聖女なのではないかと言われるようになり、領主であるバーギン子爵はその娘ロザリーを養子として引き取った。
この世界では時折特別な力を持った女性が現れ、敬意を込めて「聖女」と呼ばれた。聖女がいる国には厄災や魔物が寄りつかなくなり、国に安寧をもたらすといわれており、その力を国に留めるため国策として王族や上位貴族が聖女と婚姻を結ぶのはよくあることだった。
しかし今回は王子と聖女との婚約は実現しなかった。
この国には三人の王子がいたが、年齢的に釣り合うエイベルにも弟のブライアンにも既に婚約者がいた。もう一人の弟リチャードはまだ七歳で、婚約者を決めるにはまだ早いと王が判断したのだ。
期待していた王家との婚約は果たせなかったが、バーギン子爵はロザリーを王都にある王立学校に進学させることにした。王立学校には貴族の子女が通っており、聖女の力を得たい上位貴族の興味を引き、あわよくば婚約を取り付けようと狙ったのだ。
その狙い通り、何人かの貴族家の子息はロザリーの気を引こうとしたが、集まって来たのは二男、三男、四男…。家を継ぐ者は既に婚約者がいることが多いのもあったが、聖女を名乗る者の実力を見定めるまでは不用意に縁を持たないよう警戒している一面もあった。
ロザリーが王都に来てから噂されていたような奇跡は見られず、本当に聖女なのか疑わしく思う者も少なくなかった。するとロザリーは貴族令嬢達の冷遇が怖くて治癒の力がうまく使えなくなったと泣きながら訴えた。入学前の付け焼刃の作法は未熟で、にもかかわらず周囲にちやほやされるまま一向に常識程度の礼儀さえも身に着けないロザリーに、令嬢達の評価はおのずと厳しいものになっていた。
聖女を信じる者は同情を寄せ、むしろ魔物や流行病がない現状こそ聖女の恩恵なのだとロザリーをかばった。しかし信じない者はますます反発を強めた。
ロザリーへの風当たりは強く、いじめは徐々に激しくなっていったが、いつしかそれを煽動しているのは第一王子の婚約者エリザベスだと噂されるようになった。聖女に婚約者を取って代わられることを恐れているのだと。
そんな中、二階の窓からロザリーにバケツの水をかける事件が起きた。
近くを通りかかったエイベルが気付き、ロザリーをかばって自ら大半の水をかぶった。エイベルの側近がいち早く二階に向かい、犯人を取り押さえた。犯人はロザリーと同じ学年のレストン子爵令嬢だった。
「ち、違うんです。エ、エリザベス様から頼まれたんです。…殿下にかけるつもりなんて…」
令嬢はその場にへたり込み、震えてそれ以上言葉にならなかった。
被害を受けたのが王子となれば通常なら即座に王城に連行されるところだが、エイベルは事を荒立てることを望まず、学校の中で起こった事件は学校に任せることにし、令嬢のことは教師に委ねた。
令嬢は取り乱して事情を聞くこともままならず、一端家に帰らせた。しかし翌日には令嬢は学校から処罰を受ける前に自主退学し、家からもいなくなっていた。王家への不敬を罰せられることを恐れた子爵は、他から処分が下る前に早々に娘を修道院送りにしたのだが、秘密裏に国外に逃亡したともささやかれ、背後にさぞかし
聖女を守らなければいけない。
エイベルは犯人と思われる自分の婚約者エリザベスを牽制するため、極力ロザリーのそばにいるようになった。側近達は王子がすることではないと止めたが、エイベルは自分のせいでロザリーに危害が及ぶのは忍びなく、自分の責任の下対応したいと押し切った。
エリザベスを遠ざけ、時間が合えばロザリーと共に過ごすようになると、自然と二人は親密になっていった。昼休みはもちろん、授業が終われば待ち合わせし、時には誘われるまま街に出ることもあった。今まで気軽に庶民の暮らす街を歩いたことはなく、手を引かれて走り、食べ物を毒見もなく暖かいうちに口にする。見るもの、聞くこと、全てが新鮮だった。
助けてくれた礼にともらった揃いの腕輪を常に身に着け、腕輪を見るとエイベルはロザリーを思い出して胸が高まり、夢の中にまでロザリーが出てきた。
このままロザリーが何事もなく過ごせるようになればいいと願っていたが、エイベルがいない時を狙って嫌がらせは続いた。私物の紛失、実験中の事故、植木鉢の落下、階段からの転落未遂など、次第にいたずらでは済まされない内容にエスカレートしていった。
エイベルはエリザベスに会い、直接これらの事故のことを尋ねたが、エリザベスは表情一つ変えずに答えた。
「そうした事故があったとは伺っております。ですが、それと私にどのような関係が?」
可哀想なロザリーに同情を寄せるような気配さえなく、無関係を主張するエリザベス。その横柄な姿にエイベルは腹立たしさを覚えた。
「しらばっくれるのか」
らしくなく声を荒立てたエイベルに、エリザベスは全く動じる様子もなく言い切った。
「身に覚えのないことで責められるのは不本意です。ですが、殿下が私よりバーギン子爵令嬢をお選びになるというのでしたら、私に異存はありません」
婚約継続に執着しないなら嫌がらせをする必要はない。しかしそれが本心なのかどうかはわからない。振り返ることなく立ち去るエリザベスを見ているうちに無性に腹立たしくなり、重くなっていく頭に鈍い痛みが走った。
その週末の王家主催の夜会に、エイベルは婚約者であるエリザベスではなく、ロザリーをパートナーに選んだ。エリザベスとは口論したばかりで気まずく思っていたところに、初めての夜会参加を不安がるロザリーにすがるような目で頼まれ、ドキリとする心のままに思わず承諾してしまった。にもかかわらずそのことをエリザベスに伝えることさえしなかった。
落ち着いたセージグリーンの上着、白地に淡い緑の刺繍の入ったタイにエメラルドのタイピンをつけたエイベルと、深みのあるグラスグリーンのオフショルダーのドレスにペリドットのネックレスとイヤリングをつけたロザリー。二人は互いの想いを周りに知らしめるように同系色の装いで並んでいた。
エスコートもなく一人で会場を訪れ、他の女を連れた婚約者を目にしたエリザベスは顔をこわばらせたが、二人の視界に入らない場所へと移動した。
エイベルがロザリーと離れて来客と話をしていると、突然ガラスの割れる音がした。周囲の視線の集まるその先には、ドレスに赤いワインがかかり、立ちすくむロザリーがいた。
「ひ、ひどいわ、エリザベス様」
その前に立っていたのはエリザベスだった。それを見たエイベルは二人の元に駆け寄った。何があったのか確認するつもりだったのに、赤いワインの色が目に映った途端、スイッチが入ったかのように怒りの衝動が走った。
「エリザベス・シーウェル嬢、聖女ロザリーに対する数々の嫌がらせ、目に余る。おまえとの婚約は破棄だ!」
気がつけば、そう叫んでいた。
エイベルの言葉を受け、エリザベスは瑠璃色のドレスを両手でつまみ上げて一礼した。そして戸惑うことなく、こう返答した。
「承りました」
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