思い出喪失

@Soft_Ago

 夏の夕暮れ、薄暗い空は朱や紫が混ざり、まるでグラデーションのある溶けた氷菓子を思わせた。蝉の声が聞こえなくなる頃、夏の残りが最後まで足掻いている。だが、それももうじき果てるだろう。今年の夏は、猛暑をふるっていた。暑さのおかげで気力が削がれ、体調を崩しがちであった。そんなはた迷惑な、目眩を覚える程の暑さなど、とうに過ぎたはず。だが、調子は良くならなかった。頭が重い、ズキリと痛む。街灯の光も、踏切のランプもチカチカとして、脳髄に響く。一歩進むたび、何が切れるような気がしてならない。時折纏わりつく、生暖かさのある風が、頬を撫でるのは、なぜだか気分が悪かった。それだけではない、この身を襲う、激しい忘却感のせいでもあった。何かを忘れている。ただそれを思い出すことが出来ない。それが不快感を起こさせた。思い出そうとすると、頭が軋む。

 休息が、必要だ。体を休めれば、やけに痛む頭もこの鉛がついたような足も、きっと良くなる。ここから自宅までは、まだ距離があった。今の状態では耐えられないだろう。どこか、夏風を凌げるところはないか。重い足を上げ、線路沿いの小道を歩む。その足取りも重いものであった。

 

 その先で見いだしたのは、小さなカフェだった。

日が完全に暮れ、夜空に小さな星々が浮かび上がる。人通りが少ない通りに差し掛かったとき、ふと、看板が目に入った。足を止める。薄く平たい木の看板。黒い太文字で、「カフェ-ヤマウミ」と書かれていた。同じく木製の扉に括り付けてある。辺りを見渡すと、どうやら目に付く所には、休憩場になるような建物は見当たらなかった。一刻も速く休憩を取りたいため、迷わず店に入ることにした。

 カランと扉のベルが鳴る。店内には他に客は居ないようで、茶色のカウンターの奥で店員が一人棚を整理していた。店内は外見通り、あまり広くないようだ。ただ、まだ閉店はしていないようで、店内には古いジャズソングが流されている。それは不思議と馴染む曲だった。入店後、すぐに頬を涼しい冷風が頬をかする。それが小気味良い。私は迷わず一番手前の、窓がよく見える席に座った。なぜだかそこがとても気に入っていたように思う。店員は、ドアベルが鳴ったことに気付き、こちらを振り向いた。すると愛想良い笑みを浮かべた。

「いらっしゃいませ!ご注文はお決まりですか?」

明るく、夜だというのに元気そうな声色だった。その笑顔に見覚えがあるような気がする。私は取り敢えず飲み物を頼んだ。この店で一番気にいっているアイスコーヒーだ。私は疑問に感じた。なぜ来たこともない店のことが分かるのか。どうして気に入っているなんて分かるのか。店員はニコリと笑って

「はい、いつものですね。ミルク多めですね。」

店員は私の趣向を理解していた。

 休憩したおかげで頭痛が治ったため自宅に帰り、借りてきていた本を開く。挟まれていたのは、返却日時の書かれた紙と、薄青の用紙だった。紙に書かれていたのは言葉だった。

「思い出して、僕たちを」

 その文字列の意味を理解した、まさにその瞬間、一枚の原風景のようなものが頭をよぎる。一人の少年と、自然の風景。少年は、柔らかそうな芝生の上に座り込み、こちらを見ている。そして笑顔で何かを話そうとしている。その後ろで、風にゆられて木々がざわめく。まるでその瞬間を切り取ったような精巧なイメージ。こちらに向かって微笑みかける彼は。誰だったか。

 瞬間、頭が割れるように痛みだした。その風景がシュレッターにかけられるみたいにバラバラになり始めた。意識が沈むと、何も考えられなくなった。

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