空を、見上げる
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空を、見上げる
いつのまにか風は止んでいた。
ほんの少し前、家の外では飢えたハイエナのような風が体当たりを繰り返し、家中ガタガタ震えていたはずなのに。
その時は、まだ夏の終わりを帯びている大量の木の葉が、ベタッと窓にくっついては離れることを繰り返していた。
だが今、最後の風に運ばれてきた木の葉たちはなすすべもなく、窓に張り付いているだけだった。次の風を待つ間、一枚の木の葉が窓から部屋の中を覗いた。
その部屋はとても雑然としていた。積み上げられた大量の紙はすでに始めの隙間風によって、無様に崩れ落ちていた。そこにあるものは、積み上げられているか、押し込められているか、あるいは吊るされているかだった。
壁側に、椅子の背をぴたりとくっつけて、肘掛けに身体を寄せていた男は、ふと顔を上げた。
男はこの瞬間を待っていたのだ。どの瞬間を?男にはわからなかった。身体だけがその瞬間の訪れを祝福し、みぞおちあたりをくすぐった。
突然、つま先の方から、なにか生暖かいものが込み上げてくるのを感じた。それは、ゆっくりと男の静脈を伝い、たまに、男をチクッと体内から刺した。そして、いつのまにか心臓を過ぎ、喉を撫で、そしてーーー
「アハハハッ」
男の声が身体を飛び出した。だが、果たしてそれは本当に男の声だったのだろうか。声は八方に広がり、壁を蹴った。彼は何故自分が笑ったのかわからなかった。
男は目を閉じた。考えなければならなかったのだ。何を考えなければならかったのか、それはやはり、わからなかった。ただ、考えることは、重要であった。
どれくらいたっただろうか。男は急にひょいと立ち上がり、棚にかかっているベストをすくい取り、軽やかな足取りで玄関へ向かった。
外は夜だった。けれど、街灯も家の光もないはずなのに、不思議に明るかった。男が剥き出しの足で地面にふれると、白砂がさらさらと足元で舞った。さらに指先にぐっと力をいれると、足の先っぽが砂の中に沈んだ。片方の足でもう片方を砂に埋めると、これもまた愉快で、うまい具合に足首のみがぴょっこり飛び出ているきれいな砂の山ができるのだ。
「おーーい」
遠くから、男を呼ぶ声がした。それは目の前の群衆から投げかけられているようだった。群衆に「個」はなかった。群衆は大きな生き物となり、たまに揺れた。
群衆は、空を見上げていた。
空は、無数の星がびっしり詰まっていた。チカチカと点滅を続ける星たちの中で、月が輝いていた。流れ落ちる月光は白砂を淡く照らし出し、あたりを銀色のカーペットのように映し出していた。
その群衆の中で、男は女を見つけた。女は、スカーフをスマートに首に巻き付けており、髪を下で軽く結っていた。
「君たち、何をそんなに見ているの?」
男が女に話しかけると、空から目を離した女は男を見て、顔をほころばせた。今、初めて出会った人のはずなのに、女の細めた目は、男を懐かしんでいるように見えた。
「空よ」
「なぜ?」
「たまに、こうすることも大事なの」
女がそう微笑んだ。もう、男は口を開こうとはしなかった。しっかりと裸足で地面を掴みながら、女の横で、空を見上げた。
ここは、死後の世界なのだろうか。
夢を見ているのだろうか。
足元で砂がカラコロ笑っていた。
どこまでも続く空は、やがて、その広い手で二人を静かに包みこんでゆく。
空を、見上げる @canvas_3650
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