第2話

 

 

果てしない――記憶が巡る。



   『豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、

   是れ吾が子孫の王たるべき地なり。

   宜しく爾皇孫、就きて治せ』



 天孫と呼ばれる、神々の末裔たちにその命が下されたのは、二千年の時代を溯る、遥かな記憶の彼方のことだった。

 それは朧な、凪の闇の底。

 安らぐことを捨ててから――幾多の時代が飛ぶように過ぎ去った。

 人の世は変わり、流転し、神を忘れ去った。

 そして二千と余年。

『死』を迎えることを知らず。転生――脆く老いて崩れ去る肉体という器を、幾度も幾度も交換しながら、その果てしない時を生き続けてきた。この手を、重い使命という枷で縛られて、現代まで。……もう、楽になりたい。許されたい。

 その命を負う者を『御師おし』と呼ぶ。

 人の知らない古代は神話、歴史の真実。

 神代世界が裂けたとき――彼らは常世豊葦原に生を受けた。世は、戦乱の始まりの時代。

 それは、暖かい誕生の記憶ではなかったし、安らかな母との出会いの記憶でもなかった。彼らは母体から生れ出た者ではなかったし、人でもなかったのだ。

 炎獄――緋い火の海が、あたりを染め上げた。それが、最初の記憶。神々の愛みの証しのはずである地には悲鳴と哀願が満ち、豊かな瑞穂の国が、戦場へと変貌を遂げた。

 反乱が、起きたのだ。歴史にそれを『国譲くにゆずり』と。

 神々の郷高天原の帝であり人の子らの地豊葦原の統治者天照大御神に弟神・建速須佐鳴命が大国主命・穴牟遅とともに反旗を翻したのだった。須佐鳴を主神とする出雲神族はこぞって伊勢神族に離反した。統治権を主張する双方は、互い譲らなかった。沢山の人が死に、大地には累々たる屍が満ちた。風はいつも生臭く、血の匂いが絶えなかった。炎がどこかで邑を焼き払い、幾つもの命を奪った。

 やがて戦局は大きく変化する。穢れの大地で戦局をさきに捩じ曲げたのは、須佐鳴率いる出雲神族だ。豊葦原を支配下に置くために、彼は大国主と奸計を用いた。須佐鳴の母神であり、黄泉の統治者である伊邪那美を封印せしめ、本来禁忌である死者の国『黄泉』と『豊葦原』との門扉を開いたのである。それは恐るべき事態だった。

 豊葦原は人の住む国ではなくなってしまった。絶対秩序という拘束を失った死者と生者とが入り乱れ、黄泉神族――穢れ忌むべき存在として追いやられた化け物、禍物、妖怪があふれかえり、いよいよ人の地は蹂躙の限りを尽くされた。

 救いを求めて縋る声が、ひっきりなし、天にむけてこだました日々。

 高天原の統治者天照はこれをみかねて自らの伊勢神族よりの使いを、地上へ降らせしめ統治を守るよう命じることになる。

 ――『天孫降臨』。

 豊葦原を、須佐鳴の手から守護するために、遣わされた『五柱の伊勢神族』――それを、『御師』と呼ぶのだ。

『天宇受女命』――天照直属の巫女姫にして御師を束ねる女神。指揮官にして司である彼女は眩い美の化身だった。

『猿田彦』――宇受女の夫――千年の時の彼方、彼は戦役に破れて常世を去った。

『健御雷』――黄泉は伊邪那美の眷属。単独行動の好きな策士だった。

『天忍日命』――地上にて案内役をかってでた……つきあいの長い大切な双身だった。

 そして――『天津久米命あまつくめのみこと』――それが、時代の彼方、一番最初に授かった名前だった。

 必死だった。

 どれほどに疲弊しようとも、泣きごとをいいたくとも、そんないとまはあたえられなかった。彼らには、守らねばならぬものがあった。戦わねばならない敵がいた。滅ぼさなくてはならないという使命が在った。

 宇受女の夫神・猿田彦が千年の大戦で敗れて果て、戦線を離脱した。千年連れ添った人との永遠の離別の衝撃にすらも……揺るがぬ強さで、それを押し隠して、女神は毅然として後ろを振り向くことがなかった。

 その姿の息の詰まる美しさ。ひたむきすぎるまなざし。殺伐とした戦のなかで、膨れる想いを止めることができなかった。猿田彦の『死』――それが久米命の理性を突き崩した。

 想いは……募り、自らを苛み苦しめた……。 

 ――二千年。

 少しずつ……少しずつ、歪んでゆく自分の中の何かをくいとめることができなかった、弱さ。そしてすべてが狂い出した……百年前。繰り返し、繰り返し、眠るごと苛むあの悪夢。

 あの……何もかもを突き崩してしまった日。瓦解した日。

 心を強く持って――そういったのは、半身・天忍日命だったっけ。いっときは彼を失いたくないとも思った。

 なのに……結局一緒に生きて来た、かけがえのない人々を失った。それを選んだ。

 それでも。……失ってでも……手にいれたいものがあったのだ。


      ☆


 そして現実は。



「高崎! 高崎っ!」

「聞こえるか!? しっかりしろよ! 高崎!」

 朦朧とする意識に鈍痛を感じながら、悠弥は呻いた。体が動かない。

「たかさきっ!」

 ああ……そんなに呼ばなくても聞こえる。……でも……目の前が暗いや。あっちこっちで呼んでる。悲鳴も聞こえる。……。救急車……のサイレン……。

「いま、救急車が来たからなっ。頑張れ、大丈夫だぞ!」

「悠弥くんっ、悠弥くんっ」

 クラスの女子か。覚えのある声だ。それにしても……何かあったのか? ああ、わかんねー。

 まわりで聞こえる様々な声が、再び歪みだしたかとおもうと、あっというまに意味が取れなくなって意識が底のほうへ沈み始めた。

 ――ハハ。……みっともねー。

 苦笑しようとしたら、やけに胸が痛かった。

 どうやら怪我をしたのは自分らしい――そう思ったのが、最後だった。脳裏に――微かに『死』という言葉が過ぎって、消えた。



 再び意識が浮上したのは――白い部屋の中だった。

 いやになるほど全身が痛い。体がいまにもばらばらになりそうだ……悠弥は、虚ろな意識の中でそう思った。歯を食いしばる力すら、ない。

 見えるのは、チューブが幾本か。点滴の瓶。酸素マスクと、仕組みのよくわからない機械。かすかに耳に届く音は、どうやら自分の心音を刻んでいるらしい。他には、何もない。

 この世界で人を生かすモノ。

 たまらない――。

「……先生」

 枕元から、声。重い首を無理やり巡らすと、白衣の女性だった。看護婦さんか、と思うや否や、白髪に眼鏡の男が顔を出した。……担当医、だろうか。

「君、……わたしがわかるかね」

 悠弥はぎこちなく頷いた。その動作さえ億劫だし、辛い。

「名前は『高崎悠弥』くんだね」

 再び、頷く。

「いいかい。君は快方へ向かっている。助かったんだよ。……わかるかい」

 こくん、こくん。

 医師は、すると微笑んだようだった。

「奇跡的なことだよ。頑張りなさい。……生きたいと、おもいなさい」

 患者の負担を考えてか、医師はそれで会話を切り上げた。看護婦と何か言葉を交わし始めたが、それは聞き取れなかった。ここは集中治療室か――とおもったとき、こんどは聞き覚えのある声を捕らえた。

「悠弥ちゃん……!」

 病室のドアのあたりのような気もしたが、悠弥の意識は、強烈な睡魔をともなってふたたび遠のきかけていた。苦笑、する。また、迷惑かけたな……悠弥はそうおもった。

 悠弥ちゃん、なんて。中学三年生の男つかまえて。

「……悠弥ちゃん、かわいそうにね。頑張るのよ……」

 頷いたつもりだったけれど、それがどうにか形になって伝わってくれたかどうか。

 多栄子という優しい人だ。近所に住んでいるというだけで、問題をめいいっぱい抱えた子供を、我が子のように大事にしてくれる。すまない、と――心の底から。

 ――死にたかった。

『転生』――魂の器であり、老いては朽ちる肉体を、幾度も交換して生き続ける……生き続けてきた、『御師』。その生を、終わらせてしまいたかった。

 どだい、二千年などという途方もない時間を生きてきたこと自体が……正気の沙汰では有り得なかったのだ。

 だから、あんなことになってしまった。

 早く、『天津久米命』などという……天帝から授かった名を捨てるべきだったのだ。任務に失し、罪を犯したその時、この世から消えてしまうことを心から望んだ。確かに自分は、『死』を願った。

 二度と、ふたたび……この世の光を見るまいと。

 敵味方が入り乱れた百年前の、大戦。

 覗きたくない、記憶の狭間。

 指揮官を失ったとき、すべてがばらばらになった。同じ『御師』たる伊勢神族は、戦に散った。壮絶な戦いは凄まじい痛手だけを残し――百年という歳月が過ぎ、肉体を換え、やっとまともに行動できるようになったいま。誰ひとりの消息も知れない状況が続いている。そのつけなのか  『高崎悠弥』には、温かな家族も家庭もなかった。

 報いだ、とおもう。

 命に背き、天を欺き、勝手な暴走で味方を総崩れに陥らせた報いだ。

 伊勢神族の名に、恥じる行為で。

 死にたかった……。

 これが報いというならば、滅することなき魂と、苦しみと痛みを抱え、いつまで生きてゆけばいいのか。

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