七月一日
@stey_tich
七月一日(短編小説/本編完結)
チリリ…チリリ…カチッ。
目覚ましを止める。瞼を貫くような日差しが指す中、ベットの下に落ちていたブランケットを乱暴に掴み取り、顔を覆い隠すようにかける。大学受験も無事終わり、合格通知も受け取り終えた三月十一日の朝は、ほのかに冷たい風とお日様の暖かさが部屋中を駆け回っていた。
「はるとにーちゃん、起きて!」
そう言ったのは俺の弟の宮田結翔。十二歳で、ついこの間小学校を卒業したばかりだ。俺、晴翔とは六つも歳が離れている。結翔が生まれたばかりは、まるで母さんと父さんが結翔に取られたようで、少し悔しかった。母さんたちに俺のことも見てもらえるよう、必死こいて結翔の世話をしたものだ。そうすると皆に褒めて貰えて、俺も満足していた…なんて、当時は敵だとすら思っていた結翔だが、知らないうちに俺は結翔のことが大好きになっていた。年頃の小中学生なら反抗期なんてものがあるのだろうが、俺の結翔にそんなものは見受けられない。毎日笑顔でその日に起こった話をしてくれる。俺の誕生日である七月一日には、毎年渾身のプレゼントを用意してきてくれる。結翔の小さくて不器用な手で折ったであろう鶴の折り紙、また違う年には歪な形にカットされたフルーツの並んでいるタルト。もっと大きくなれば、数カ月貯めていた貯金箱を割り、ハンカチを買ってきてくれたこともある。お世辞でもオシャレとは言えない柄のそのハンカチを、俺は高校によく持っていっているのだった。
「はーい、今いくよ。」
そう声をあげて、ベットから足を下ろす。体を向けたその先にある机の上には、昨日の夜に俺が必死に選んだ洋服が畳んで置いてあった。その横には立てかけられた鏡。そこに映る俺の姿をざっと眺める。こめかみのあたりから触覚でも生えたような寝癖、少し浮腫んだ二重、そして口の横にあるほくろ。俺のコンプレックスでありチャームポイントでもあるそのほくろをなんとなく撫でながら、なぜか足元に移動していた枕を定位置に戻す。これが俺のいつもの朝だ。とは言え、今日は一日中横になって意味もなくスマホをスクロールする日とは一味違う。今日は俺と結翔で川に遊びに行く日なのだ。この感覚は久しぶりだ、とざわめく胸を落ち着かせながら、せかせかと着替えていく。
「お待たせ。朝ごはん食べよっか。」
「もー、ずーっとずーっと目覚まし鳴り続けてたよ!一人暮らしになったらどうするの!」
全く、起きて一番に会話することが俺への注意だなんて、可愛いやつだ。
「ふふ、ごめんごめんって。俺のことは大丈夫だから、ほらこれ目玉焼きね。」
「んーありがとう!あ、にーちゃんまたほくろ触ってる。知ってる?ほくろってたくさん触ると大きくなるんだよ!」
「え、そうなの?癖でさ、無意識に触っちゃうんだよね。」
どこから得た知識なのかは知らないが、それを聞いてしまった以上俺はもう触るわけにはいかない。
昔から癖を治そう治そうとウダウダしてきていたが、これを機に本気で治すことを決心する。
そんなこんなで結翔と他愛もない会話をしながら朝ごはんを食べ、家を出発したのだった。
俺たちの住んでいる長野は、見事なほどに田舎だ。コンビニを便利だと感じたことは一度もないし、電車を一本逃したら終わり。それでも少し自転車を飛ばせば川に行けるし、夜に外を覗いてみれば無数なほどの星が広がっている。そんなこの場所が、俺は好きだった。しかし大人になるにつれて、そんなことは言っていられなくなる。実際、俺の将来の夢は外交官なのだが、そのスキルを学べる学校なんて残念ながら長野にはない。だから俺は四月から東京で一人暮らしを始めることにしていた。ずっとずっと夢だった東京の大学に行くのだ。日本で一番の都会に行けるという高揚感はもちろんあるが、生まれ育った故郷を離れて生活する不安もある。何より結翔と離れ離れになってしまうという事実が胸を締め付けていた。この先の結翔の成長を間近でみていたい。結翔がどんな部活に入るのか、どんな子と付き合うのか、どんな進路に進むのか、そして結翔の新郎姿はどんなものか。なんて、気になることはいっぱいある。とまあ、それでも自分で決めたこと。東京でたくさん勉強して結翔にめいいっぱいの土産話をするぞ、と自分を鼓舞する。
「着いたね!はるとにーちゃん。すっげえきれい!」
「ほんとだ、二人で川に来るのなんて久しぶりだね。」
毎年夏休みに川へ遊びに行くのが宮田家の習慣なのだが、この川の水には二年近く触れていなかった。それもそのはず、去年の夏は永遠にテキストと睨め合いっこをしていたものだから。あと少しで東京という遠い所に行ってしまう俺に同情してくれたのか、ただ本人が遊びたかっただけか。ともかく、結翔が「別れる前に川に行こう」と、一週間ほど前に話を持ちかけてくれたのだった。
「うおー結翔、追いかけちゃうぞー!」
きゃっきゃっと響く甲高い音。まだ声変わり前のその声は、音の高さとは裏腹に全く不快感を覚えない。歌うように流れる川のせせらぎと、小さいながらに生を感じさせるような力強いカワセミの鳴き声。やっと暖かさに辿り着けたであろう木々の葉たちは踊るように蠢いている。そして、
ズシャン
何か大きな塊が倒れたような、鈍くて痛々しい音がした。反射的にそちらの方向へ目を向ける。その視線の先にいたのは、結翔だった。手足を羽蟻のようにして踠いている。だがそんな力も虚しく、結翔は早瀬の勢いに呑まれていく。
情報が脳を駆け巡るよりも先に、俺は動き出していた。
川には何度も来ているというのに、なんで転んでしまったのか。なんで戻って来られないのか。なんて、そんな思いが頭を駆け巡る中、ひたすらに泳いだ。結翔の元へ、泳いで、泳いで、泳いだ。俺は決して泳ぎは上手くなかったが、それでも思うままに手足を動かした。やっとの思いで結翔の手を掴み取り、平瀬の方へ投げやる。兄としてやれることはやった、その一心だった。
久しぶりに酸素を肺いっぱいに吸い込んだ結翔は、口をあんぐりと開けながら俺の方を見ていた。濡れているのか、はたまた涙を流しているのか。その顔はぐしゃぐしゃになり、目を大きく見開いている。それもそうだ。何年も通っていた川の中で初めて死を感じたのだから。
それから先は、よく覚えていない。死と隣り合わせになった結翔はもちろん、俺も体力が尽きてしまうほど泳いだのだ。どうやってここに帰ってきたのかも何もかも、あまりはっきりしなかった。
その日から結翔は、俺の前で笑顔を見せることが少なくなった。自分が溺れて、俺に助けてもらったことに負い目を感じているのか、俺が何度気にするなよと言っても聞く耳を持たなかった。これが噂の反抗期なのだろうか、なんて間抜けなことを思いつつ、結翔も成長したのだろうとポジティブに考えておく。少しの間だけ我慢したら、またすぐに笑顔を見せてくれるだろうと、そう信じていた。
あの日からいくらか時が経ち、結翔は中学生二年生になった。少し前に比べて大分疎遠になってしまったと思うが、それはしょうがない。俺は長野からずいぶん遠い場所に行ってしまったわけだし。それでも、俺が上京すると決まった日から「毎月必ず会おう」と駄々をこねていたのを結翔は覚えているのか、毎月一日に結翔は俺のところに会いにきてくれるのだった。たとえその日に部活があってもそれを休んでまで、友達に遊びを誘われてもそれを断ってまでだ。日が落ち始める少し前にきて、その一か月で起こったことを息継ぎも忘れたという勢いで話しだす。そうして日が落ちる頃には解散する。これがいつものルーティーンだった。結翔ももう中学生でスマホを買ってもらったはずなのに、メッセージや電話ではなく、ちゃんと会いにきてくれる。本人の負担は気になるが、やはり来てくれることはとても嬉しいので、それについてはあえて何も言わないようにしていた。そうしているうちに木の葉は一層元気を蒔き散らす青々しさを放つようになり、初恋の頬のような紅色に染まり、静かに何かを訴えているような枝に変わり。そうやってただただ時が過ぎて行った。
ある月の一日に、結翔はまるで長年の隠し事を絞り出すような声でこういった。
「そう言えば俺、中学で水泳部に入ったんだ。心配しないで、なんとか頑張ってるよ。部員の中に未経験者は俺だけしかいなかったんだけど、ぱっと見はその差がわかんないくらい上達したんだ。ほら、どう?昔より筋肉ついたでしょ?」
何を恥ずかしがることがあるのか。俺がいなくても立派に成長しているその姿を前に、思わず胸が熱くなる。
ある月の一日には、まるで初めて大地を踏み締めたカンガルーの赤ちゃんのように目を光らせてこういった。
「俺、彼女できた!!日菜ちゃんっていうんだけどね、もうねーすっごく可愛いの!もうすぐ日菜ちゃんの誕生日なんだけど、プレゼントって何あげたらいいんだろう?」
おお、なんとめでたい。可愛い弟の大きな一歩を素直に喜びたいところだが、人生で一度も彼女ができたことがない俺はなんだか結翔に負けた気がして、悔しさが胸に顔を出す。それどころか、こんなにも可愛い弟をそのヒナとやらは守ってやれるのかという謎の怒りすら覚える。そんな愉快で騒がしい俺の心と一緒にまた一ヶ月の間、次のお話を待つのだった。
それから二回、桜が落ちた。
その期間でどれほどのお話を聞いただろうか。いつもふざけてくる結翔の友達、全力で勉強したのに結果の振るわなかった中間テスト、じゃんけんに負けてとても面倒くさいと噂の環境委員会になってしまったこと、そしてその環境委員会が思ったよりも楽しかったこと。
ある月の一日には、驚くほど浮かない顔で姿を表してきた。結翔の進学した高校のその制服はまだ見慣れなく、少しドキッとする。
「俺、日菜ちゃんに振られた。お互い違う高校に進学してさ。他校だとやっぱりうまくいかないもんだね。でも俺ら、一年以上は付き合ったんだよ。中学生にしてはすごく長い方だったんだよ。ねえ、俺のどこが悪かったのかな。」
今にも泣き出しそうなその目を前に、俺はなんて言うべきかわからず言葉が詰まる。こういう時は元気に次を励ますべきなのだろうか、それとも隣に座ってひたすらに背中をさするべきなのだろうか。自分の恋愛経験の無さに恥を感じることはよくあったが、無念さを感じたのはこれが初めてだった。
それから三回、赤く染まった葉が落ちた。
ある日の一日には、たくさんの絶望と希望を見据えた力強い目で歩いてきた。左手には、付箋が森のように生い茂った英単語帳を握りしめている。
「俺、再来週大学受験なんだよ。はるとにーちゃんみたいな東京の大学なんて俺には無理だけど、長野の中ではトップ一、二を争うような国立大を受けるんだ。絶対に、ぜったいに受かってやるんだ。」
夢のために直向きに走るその姿は、かっこよかった。大丈夫、結翔ならできる。俺は知っている。君が血反吐を吐くような努力をどれほど続けてきたのかを。君はどこまでも真面目で責任感が強くて、一度決めたことはぜったいに最後までやり切ることを。
それから何色の葉が、何回落ちただろうか。
今日は七月一日。俺の誕生日、そして結翔と会える日。
俺はいつものように日が落ち始める少し前に、結翔の登場を首を長くして待っていた。だが結翔は一向に現れない。日が落ちても、月が昇っても現れない。どれくらい待っただろうか、一分、いや一時間か。夏の夜特有の、ほんのり暖かい湿った空気が俺の中を通った時、遠くに二つの人影が見えた。一つは、結翔だった。今までで見たことのない服を着ていて少しわかりにくかったが、あのぎこちない歩き方は確実に結翔だ。その隣は、
「はるとにーちゃん。来るの遅くなってごめんね。この人は日菜ちゃん。あれからね、色々あって、復縁して、。今日、結婚式を挙げてきたんだ。」
なるほど、この服装は結婚式用の服なのか。ああ、結翔。君の新郎姿が見たいと何度願ったことか。
「今日ははるとにーちゃんの誕生日だったね。あの日から十二年かな。
俺もうさ、にいちゃんよりも六個も年上になっちゃったよ。」
そうか、結翔はもう二十四歳になったのか。
「中高で頑張った水泳部のおかげで、少しは泳げるようになったかな。今は地元の市民プールで溺れている人を助けるバイトをしているんだよ。」
だから結翔は、だから君は、性に合わない水泳部なんて入っていたのか。
「それでね俺、外交官の仕事に就くことになったんだ。にいちゃんの夢は、俺が叶えるんだ。」
ああ、俺、外交官になりたいなんて言ってたっけ。
「ありがとう。にいちゃん、はるとにーちゃん。本当に、ほんとうにありがとう。俺、はるとにーちゃんのおかげで、ここまで生きてこられたんだ。にーちゃんきっと、今までずっとこのお墓を離れずに俺を見守っていてくれたんだよね。もう大丈夫、心配しないで。ありがとう。俺、にーちゃんのこと、絶対に忘れないよ。」
結翔の顔は、まるであの日のように涙でぐしゃぐしゃになっていた。だけどその瞳の奥にはあの日のような残酷な悲しみは見られない。その代わりに、あの楽しかった日々を思い出すような、穏やかで、優しく、そして力強い瞳が、そこにはあった。
俺にはもう涙腺なんてないはずなのに、この頬を伝う熱いものはなんなのだろうか。
「ずっとずっと、だいすきだよ。」
それから三回、青々とした木の葉が生い茂る景色が流れた。
七月一日、その日、結翔はパパになった。
そしてその子どもの口の横には、ほくろがあった。
七月一日 @stey_tich
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