『白い結婚』が終わったら
湊川みみ@8/12『承香殿〜』発売
ある妻の話
目蓋越しに感じる日光の温もりに、イレーヌは朝の訪れを知った。
常よりも身体を重く感じるのは、昨夜の疲れがまだ残っているからだろうか。盛大な式典の最初から最後まで気を張っていたのだから、無理もない。
(久しぶりに二度寝ができるわ……)
思えば足掛け十年も、この日のために頑張ってきたのだ。
その甲斐あって、イレーヌの義理の息子であるジェラルドの襲爵式と結婚式は、つつがなく執り行われた。その翌日くらいは、昼まで惰眠を貪ったところで、誰かに文句を言われる筋合いもないだろう。
寝やすい姿勢に直ろうとごろりと寝返りを打ったイレーヌの指先は、何か温かいものに触れた。……同じ寝台に、誰かいる。
おまけに、体勢を変えた拍子に、身体の深部――あらぬところにズキンと痛みが奔ったもので。
「……えっ? うそ。まさか……一夜のあやまち的なやつ!?」
確かに、昨夜のイレーヌは浮かれていたことは否めない。
愛息子ジェラルドの立派な姿を目にして感涙にむせび、祝宴での歓談も和やかに弾み、勧められるままに酒で喉を潤して――誰かに腰を支えられながら退席して以降の記憶がない。
遠方からの客人には宿泊の手配をしたから、彼らはまだこの館に留まっているはずだ。そんな中で『新郎の義母が男と寝室にしけこんでいた』なんて噂が広まれば――まずすぎる事態だ!
(ことは一刻を争うわっ! 昨夜の私たちを目撃したひと全員に『昨日は仲良くお酒を飲んで二人で寝落ちして朝まで爆睡していたみたいです、うふふ!』って口留めをしに……ああ、でも、ちょっと待って、このひとを独りで部屋に残していくのはまずい! っていうか、誰なのよ、このひと! まず、このひとと口裏を合わせてからじゃないと……どうかお願い、口裏を合わせてくれるお相手であって……!)
イレーヌは半狂乱になって、傍らの人間が被っている薄布を引き剥がした。
まず現れた肉体は、筋肉の隆起も美しく、均整の取れた彫像のようで、そのことが一見して分かるとおり、衣服を一切身に着けていない。潔く全裸である。
『うっかり同じ寝台で寝落ちていただけ』とは言い逃れようもない姿を見て、イレーヌはとうとう涙を一粒ぽろりと溢した。
絶望とともに、向こうに背けられた男の顔を覗き込み、そこでようやく一息つけた時の安堵といったら!
「ああ、なんだ! よかった、ユーグ様でしたか!」
彼は悪夢でも見ている最中なのか、柔らかな黒髪がかかる眉間は顰められ、不機嫌そうではあるけれど、その程度で白皙の美貌が損なわれることはない。
むしろ『冷たいところが堪らないのよね』と貴婦人がたに噂される男なだけあって、眼福ではあった。
ひとまずイレーヌの一夜のあやまちの相手が彼なら、ジェラルドの祝い事にけちをつけてしまうこともないだろう。
ユーグ・アルナルディは、国王からの覚えもめでたく、世間の評判もよく、新アルナルディ公爵ジェラルドとの関係も良好な、ジェラルドの叔父にして養父であり――イレーヌの法律上の夫だからだ。
『イレーヌ、愛している』
ただ、ユーグがイレーヌに愛を囁いたのは、二人の長い結婚生活のうちで昨夜が初めてだった、というだけで。
外から見れば、そんな夫婦の内情など知るはずもないのだから、『夫と一緒に寝室に消えていく姿』を見られたところで問題はないどころか、むしろ『仲睦まじい夫婦だ』と称賛されるような事柄だろう。
酩酊しながらも最良の相手を選べたらしい、と安堵したイレーヌは、隣に眠る夫を起こさないように動くと、つま先をそろりと絨毯につけた。
鏡台の前で簡単に髪を梳かし、手早く身支度を整えると、あらかじめ準備しておいた旅行鞄を手に持つ。
本当は今日くらいぐっすりと休みたかったが、ユーグを巻き込んでしまった以上、彼に気づかれる前に
「お世話になりました、ユーグ様。本当は、二人で離婚記念日のお祝いでもできたらよかったのですけれど。私は一足先に退散いたしますわ、これから再婚相手を探しに行かねばなりませんもの!」
そうして、イレーヌは、ひょこひょことおぼつかない足取りながらも、鼻歌交じりに上機嫌に、アルナルディ公爵邸を後にしたのである。
☆
今から振り返ること十年前、イレーヌは一介の伯爵令嬢に過ぎなかった。
それも子沢山で娘の持参金すらろくに用意できそうにない貧乏伯爵家の生まれだ、格上の公爵家との縁組なんて望むべくもない。
「えーっと……どうして、公爵様は、私のような取るに足らぬ者をお求めに?」
それなのに、名門公爵家であるアルナルディ家の当主から自分を名指しで縁談が持ち込まれたと聞いて、見合いの場で素直な疑問を口にすれば、後に夫となるユーグは言った。
「君は、弟妹が多いだろう。幼子の世話には慣れていると聞いた」
「まあ。噂になっているとは知りませんでした」
おそらく『ポネット伯爵家は貧乏すぎて子守を雇う金も無い』という噂が広まっていたのだろう。
貴族の端くれとしては恥ずかしい限りだが、事実だから否定のしようがない。まだ幼い弟妹達の一人一人に子守をつける余裕がないことはもちろん、両親も使用人たちも、幼児の世話に手が回らず、皆の面倒をみるのはイレーヌだった。
「それに、ポネット伯爵は、王宮で要職に就いているわけでもない。アルナルディ公爵家と縁故ができたからといって、権力を振るうこともないだろう。『権力を振るいようがない』と言うべきか」
「ええ。そうでしょうね」
公爵家の当主でありながら騎士団長として王宮に勤めてもいるユーグとは比べるまでもなく、イレーヌの父親には才が無かった。
優しい人ではあるから悪気はないのだろうが、少し考えなしすぎた。先祖代々の土地の税収以外に収入源は無いというのに、子作りには人並み以上に精力的で子沢山。わんさかいる子どもたちの全員を育て上げて就職なり結婚なりの世話をするには、どう頑張ってもお金が足りない。
長女のイレーヌは給金要らずの労働力として実家に留まるとしても、このままでは弟妹たちの何人かは聖職者にするしかないと思うと、頭が痛い問題だった。
「俺には、甥のジェラルドを立派に育てる責務がある。我が妻は、ジェラルドにとって利になる者を選ぶ。ジェラルドに害をもたらすような者は論外だ。その意味で、君が一番条件に合っている」
その時のユーグは、数か月前に、彼の兄である前公爵夫妻を事故で亡くしたところだった。
兄亡き後、己に転がり込んできた爵位を喜ぶどころか、兄の遺児の養育に自分の人生を費やすつもりだと、だから結婚相手にも同じことを求めると述べたユーグの眼には、求婚の場面に似つかわしい熱情や恋慕は一切存在していなかった。言葉通りに『条件』のすり合わせをしているだけのようだ。
仮にも求婚相手によくも堂々とそんなことを言えるなと、かえって感心してしまったイレーヌが何も言わずにいると、ユーグはためらいがちに言葉を続けた。
「……甥に、爵位を継がせたいんだ。元々そうなるはずだったのだから、そうすべきだと思う。だから、俺が君を愛することはない。これはいわゆる『白い結婚』だ。俺が当主でいるうちに俺の実子が生まれれば、ジェラルドが家を継ぐことに支障が出るかもしれないから」
――公爵夫人にはなれるが、次期当主であるジェラルドを最優先しろ。
――次代はジェラルドが継ぐと決まっている。妻が自分の子を持つことも、その子を通じて公爵家に影響を及ぼすことも認めない。
さすがに、ユーグも、この条件が一般的に受け入れがたいものであることは分かっていたのだろう。
こちらの出方を窺っているような様子があって、さらにイレーヌに有利な条件を追加してきた。
「君の系譜にアルナルディ公爵家の身代を任せることはないが、君が存命中の金銭的援助は惜しまない。ポネット伯爵家のことも、妻の実家となれば、援助や口利きはしよう」
「いいですよ。結婚しましょう」
『援助や口利き』の言葉を聞くや否やイレーヌが受け入れると、ユーグはほっとしたように息を吐いていた。
「ありがとう。君を歓迎する。俺にできることがあれば、何でも言ってくれ」
親切な申し出には、曖昧な微笑みを返した。
ユーグの提案に、イレーヌにとっての損は無い。このままポネット伯爵家に留まり、行かず後家として弟がいずれ迎えるだろう妻に煙たがられながら生きるよりは、名目だけでも公爵夫人になって、豊かな暮らしをする方がマシだ。だから、受け入れようと思った。
それはそれとして、自分の妻になる女の気持ちをまるっきり無視した計画を提案するユーグは、普通にクズである。可能なら、イレーヌだって、クズではない男に嫁ぎたかった。その意味では、全然嬉しくなかった。
(せっかくお顔は宜しいんだから、『その条件でもいいからあなたと結婚したいわ』って喜んで受け入れる人を探せばいいのに)
まあ、ユーグとしても、ジェラルドの母代わりの女が欲しいだけなのに、自分のことを熱烈に愛する女に押しかけられるのは負担なのだろう。
『君を愛することはない』という発言は、その予防線なのかもしれない。
「ああ、公爵様。一つだけ聞いても宜しいですか?」
「何だ?」
「どうして『妻』が必要なのですか? お子様のお世話なら『子守』をつければ十分なのでは? 子守を雇えば、公爵様が結婚する必要もないように思うのですが」
最初から金で繋がれた雇い主と使用人の関係にしておけば『色恋は不要』という掟が分かりやすいだろうに。
浮かんだ当然の疑問に、ユーグは淀みなく答えた。
「決まっているだろう。ジェラルドには、欠けのない完璧な『家族』を与えてやらねばならない」
「……ああ、そうですか」
彼の言う『妻』と『子守』の間に何の違いがあるのか、イレーヌにはさっぱり分からなかったが、何せ『公爵様』の仰ることだ。『偉い者には従う』という貴族社会の絶対の掟に則り、イレーヌは淑やかに微笑んで口を閉ざした。
(別に、私が忠告する義理もないし。夢を壊すのもお可哀想だわ)
これはあくまでも利害の一致による契約結婚で、二人は『ジェラルドを立派に育て上げる計画』の同志でしかないのだから、相手に深く関わる必要なんてないのだ。
――後から考えれば、この時点でユーグが『家族』について抱いている夢を粉砕しておけば、話は早かったのだけれど。
「君はどうして、俺を『公爵様』と呼ぶんだ!」
次にユーグが言い出したのは、イレーヌが公爵家に嫁いで三か月ほど経った頃だった。
ジェラルドは人懐っこい子で、突然現れた義母にもすぐに懐いたから、互いに『イレーヌ』『ジェリー』と呼び合うようになっていた。たまたまユーグが早く帰宅したときに、寝る前に和気あいあいと話していた義母子から『おじさま』『公爵様』と呼ばれたせいで、自分だけ除け者にされたように感じたのだろう。
「君は俺の『妻』だろう! 『妻』なら『夫』のことを家名や爵位では呼ばないはずだ! 俺のことは『ユーグ』と呼んでくれ!……ジェラルドが、君を真似して呼ぶようになったら困るからな」
不満げに口を尖らせたユーグに言い募られて、イレーヌは内心で疑問を覚えた。
(ジェリーにとって、公爵様は血の繋がった叔父なのだから、これから打ち解けたって、呼び方は『おじさま』のままなんじゃないかしら? それに、既に『おじさま』と呼んでいるものを、私の真似をして『公爵様』に変えることもないでしょうし)
『ジェラルドの教育のために『ユーグ』と呼ぶべきだ』という彼の言い分は、正直全く理解できなかったが、『公爵様』の仰ることである。彼がそう望んでいて、イレーヌとしても抵抗が無いなら、応えない選択肢はなかった。
「分かりました。ユーグ様」
「っ、ああ、それでいい! これからはそう呼んでくれ! それからっ、君はどうして、ジェラルドと一緒に寝ているんだ!」
「どうしても何も……ジェリーはまだ幼いのですもの。いけませんか? 眠れない夜に一人にするのは可哀想です。公爵家の教育方針ではそうしないのですか? それなら……」
貧乏伯爵家では暖を取るために子どもたちは身を寄せ合い眠ったものだが、公爵家には暖房器具は潤沢にある。公爵家の跡取りにはふさわしくないふるまいなのかもしれない。
ぐずって抱っこをせがむジェラルドを独りにするのは可哀想だが、心を鬼にして厳しくせねば――。
「俺も一緒に寝るっ!」
「は?」
――イレーヌが悲壮な決意を固めるよりも先に、ユーグは彼の要望を大声で伝えてきた。
「俺は、ジェラルドの養父で、君の夫だ! これからは俺も一緒に寝る!」
「お言葉ですが、ユーグ様がお帰りになる時刻は、子どもには遅すぎます。そんなに待てません」
「……っ、なるべく早く帰るようにするが、待たずに寝てもいい。後から寝台に入るのを許してくれ」
「それだと、ジェリーはユーグ様がいらっしゃるのを知らないままなのでは……?」
ジェラルドが寝ついた後に寝台に入り、ジェラルドが目覚める前に出かけるなら、義父子の生活はすれ違ったままだ。その行動に何の意味があるのだろうかと訝しみつつも、最終的にはユーグの希望を受け入れることにした。
翌日から、彼は早く帰宅するようになった。公爵家の寝台は広くて眠る場所には困らなかったし、幸いにもジェラルドも嫌がらず、それからは三人で同衾することになった。
「あのね! ぼくね、おとうとがほしいの! そうしたらね、おじさまと、イレーヌが、いっしょにねればいいって、せんせいがいってたの!」
目をきらきらと輝かせたジェラルドにせがまれて、気まずくごまかす瞬間は何度かあったけれど、イレーヌから『そろそろ別々に眠りましょうか』と切り出すような出来事は起きなかったから、三人での共寝の習慣はジェラルドが思春期に差し掛かるまで続いた。
「……君は、自分の実子が欲しいのか?」
ああ、でも、振り返ってみれば、イレーヌにとって一番気まずかったのは、寝入ったジェラルドの隣で、神妙な顔のユーグから尋ねられた時だったかもしれない。
ぬけぬけと『君を愛することはないが妻になってほしい』と求婚してきた時とは違って、その時の彼は堂々とした風格を纏わず、何かに怯えて恐れているように見えた。
あまりに直球に聞かれたから嘘でごまかす気にもならず、イレーヌは本心を答えた。
「正直に言うと、子どもは欲しいです。でも、今は、ジェリーを育てることで精いっぱいですし、ユーグ様は元々『白い結婚だ』と仰っていましたものね。私の立場はわきまえているつもりです」
「……ジェラルドが爵位を継ぐまで、実子は駄目だ」
「分かっていますよ。私も、ジェリーを悩ませたくはありません。それに、いざ自分の子が生まれたら、『どうして我が子はジェリーよりも蔑ろにされるのか』と恨んでしまうかもしれません。そうはなりたくないと思いますし……そうなるのが怖いです」
「そうか……」
だから、子を持つつもりはなかった。ただ――言いながら、イレーヌは『それならジェリーが爵位を継いだ後なら、子を儲けても問題ないじゃないか』と気づいてしまった。
ジェラルドが成人する頃、イレーヌは三十路間際になっているけれど、その年頃で再婚する者はぼちぼちいるし、末子を三十歳を超えてから産んだ婦人はいくらでもいる。
(ジェリーが独り立ちしたら、
将来に一つ、大きな楽しみができた。
それが実現する日を夢見て、未来に思いを馳せるイレーヌをよそに、その晩、ユーグは夜遅くまで、何かを考え込んでいたようだった。
――後から考えれば、この時点で、ユーグに『どうかしましたか』と尋ねていればよかったのだ。
夫の真意を問う機会はその後も無く、『その日』の訪れを今か今かと十年間待ち続けていたイレーヌは、ジェラルドの独り立ちを見届けるや否や、意気揚々と積年の計画を実行したわけだが――。
「イレーヌ、どうして逃げ出した!? ジェラルドが独り立ちしたら、俺と本当の夫婦になるという話だっただろう!?」
公爵邸を出奔したその日のうちに、イレーヌが宿を取った最寄りの宿場町に現れた元夫は、鬼気迫る表情で取り縋ってきた。
今のユーグを見て『冷たいところが堪らないのよね』と称えるご婦人方はいないだろう。
彼は明らかに狼狽していて、顔は青ざめ、額に汗をかき、イレーヌの腕を掴んでぐいと引く手には恐ろしいほど強い力が込められている。
「早く帰るんだ!」
「公爵様とそんな約束をした覚えはございませんが」
「何だとっ!? それに、今、『公爵様』と呼んだか?」
「公爵様、私は、自分の血を引く子が欲しいのです。いつまでも子を産めるわけではありませんから、まずは急いで相手を探さないと……」
「相手なら俺がいるだろうっ!?」
「え?」
どうも、どうしても話がかみ合わない。
困惑したイレーヌが彼を見上げると、彼はぐっと喉で音を立てた。
「俺がいるのに……っ、俺のことをどうとも思っていないなら、どうして、昨夜、俺に抱かれたっ!?」
「さあ……? 詳しいことは覚えていませんが、」
「覚えていない!?」
「立派になったジェリーを見て、つい達成感で舞い上がったというか」
「達成感!? そんな理由で!?」
「たぶん、そんな感じかと思います。さすがに前夫と十年も結婚していたのに処女だと知られたら、次の夫に不審がられますから、その意味でも公爵様が抱いてくださったおかげで助かりました」
「この局面で、次の男の話をするかっ!? 俺との離婚を既定路線にするな!」
おかしい。聞かれたことには真摯に答えているつもりなのに、イレーヌの答えを聞くたびにユーグはいきり立ち、彼の興奮は収まる気配が見えなかった。
いかにも目立つ風体の男が騒ぐ様を見て、野次馬も集まってきた。十重二十重に遠巻きにされると逃げようもないが、この状態で、イレーヌが取った宿に戻るわけにもいかない。
困り果てたイレーヌが『早く離してください』と彼に帰宅を促すと、ユーグの目は据わり、目から光が消えた。
「そうか。どうせ愛されないなら、いっそこのまま……」
「――そこまで。新婚ほやほやの息子を、夫婦げんかの仲裁に駆り出さないでください」
ぱち、と手を打ち鳴らす音がした方を振り向くと、生温い視線を送ってくるジェラルドが立っている。近くに馬車が停められているところからすると、彼は、ユーグの後を追ってきたのだろうか。
それにしても、新婚の妻を初夜の翌朝から放り出すような息子に育てた覚えはない。イレーヌが眉根を寄せると、当の息子からは『叔母上が考えていること、僕は叔母上にだけは言われたくないですけどね』と呆れ笑いを返された。
「お互いに言いたいこともあるでしょうが、話し合いは後にして、とりあえず一旦戻りますよ。イレーヌ叔母上は僕と同じ馬車に乗ってくださいね。今は、叔父上は気が立っているようなので」
――公爵邸に戻る前にどこぞの知らない屋敷に連れ込まれ、囲われたくはないでしょう?
「いくら僕が領主になったからって、さすがに行方知れずになった人は助けてあげられませんよ。一人旅なんて危ない真似もやめておいた方が無難かと」――と続いた言葉に、ぞくりと背筋を凍らせたイレーヌは、頼れる息子とその護衛たちとともに、ひとまず公爵邸に戻ることにしたのである。
こうして、イレーヌの出奔は、わずか一日足らずで終わりを迎えた。
「イレーヌ、俺のどこが不満で出て行ったんだ」
そこからは、『話し合い』とは名ばかりの、怒涛の求愛を防戦する一方になった。
十年前のそっけない求婚とは比べものにならないどころか、『好き』だの『愛している』だのと、惜しげもなく贈られる言葉の氾濫に溺れてしまいそうになる。
「なあ、イレーヌ。俺の駄目なところがあるなら、全部直す。どうしたら愛してくれる?」
切なさを湛えた瞳で訴えられると、さもイレーヌが悪いことをしているかのような罪悪感が湧くが、事の発端は彼だ。
イレーヌは自分の心を叱咤しながら言い返した。
「そっ、そもそも! 公爵様が仰ったんでしょう、『愛することはない』って!」
「……っ、あの時は、本当にそのつもりだった。だが、だんだんと君を愛しく思うようになった。ジェラルドのために君と結婚したはずで、そのつもりだったのに、君から愛してもらえて、君と親しくできるジェラルドに嫉妬するようになって……『どうして俺のことはその目で見てくれないんだ』と思った」
――だからこそ『ジェラルドと同じことを許してほしい』とねだった。
数年越しに明かされた彼の本心を知って、イレーヌは息を呑んだ。
当時、イレーヌも『これに何の意味があるのだ』と思ってはいた。だが、それ以上を知ろうとはしなかった。……そこに『愛』という意味が無いのなら、考えても虚しいだけだと思ったから。
「イレーヌ、俺とやり直してくれないか」
「……私にだって、相手を選ぶ権利はあります」
「お願いだ、前向きに考えてほしい」
「『欲しいのは子どものお世話係だけ』『都合が良かったから選んだだけ』って言われて、そう言ってきた相手のことを好きになると思うんですか?」
言いながら、過去の自分の傷口に気づいた。
彼がイレーヌを求めたのは、都合がいいから。イレーヌのことなんてちっとも愛していない、イレーヌから向けられる愛にも価値はないのだと言われた。
自分は生涯誰とも愛し合うことができないのだと思い知らされて、それでも『条件のいい縁談』を受け入れねばならなかった、あの日の虚しさと惨めさを、この家に嫁いだ時の重苦しい絶望を思い出した。
「本当に申し訳ない。君は俺のことを嫌っているだろうが、俺は――」
「普通は好きになるわけないのに、なんで好きになっちゃったんでしょうね」
「え?」
だが、その絶望は長くは続かなかったのだ。
いつだっただろう。ユーグが、イレーヌ自身よりずっと、イレーヌを大事にしてくれることに気づいたのは――。
『目が覚めたか』
『っ、申し訳ありません、わたし……っ!』
『イレーヌ、寝てないとだめだよっ! めっ、なの!』
例えば、公爵家に来たばかりの頃の、覚えることの多さに忙殺されて体調を崩した時に。
談話室のソファにぐったりと背中をもたれていたイレーヌを見つけた彼は『様子がおかしい』と寝室に運び、寝室には医者と彼が信を置く者以外は入れなかった。
あの頃はまだ『貧乏伯爵家の娘が公爵夫人なんて生意気だ』と反発する使用人もいたから、イレーヌが『公爵夫人にふさわしくならねば』と必要以上に気を張っていたことに気づいたのだろう。
『イレーヌ、げんきになる?』
『ええ、ジェリー。すぐに良くなるわ』
『ほら、ジェラルド。彼女を休ませないといけないだろう。部屋に戻るぞ』
『はあい』
ジェラルドを連れて見舞いに来た彼は、手短なやりとりを終えるとすぐに出て行った――はずだったのに。
『ユーグ、さま?』
『悪い、起こしたか? 俺はここにいるが、気にするな』
『気にします。ジェリーと一緒に戻られたのでは?』
少しして彼だけが戻ってきて、寝室の隅の椅子に腰かけ、同じ部屋の中でずっと本を読んでいた。
病人の看病――それも名ばかりの妻の看病なんて、楽しいはずもないだろうに。
『寝ついていると気持ちが弱るだろう? 俺は、子どもの頃、兄上が傍にいてくれると、心強かった』
『……っ!』
そうか、彼が『家族』から受けた愛情は、これが『普通』なのだ。この人に愛されれば、これくらいのことは、当たり前にしてもらえるのだ。そう気づいたとき、イレーヌは頭を殴られたような衝撃を受けた。
だって、イレーヌの『家族』はそうではなかった。
彼らとて愛がなかったとはいわないが、それ以上に生活のための『働き手』を欲していた。イレーヌまで倒れてしまえば皆の生活が行き届かなくなるから、イレーヌは常に元気でいなくてはならなかった。……元気じゃないなら、無理にそのふりをしてでも。
『……っ、あなたに病がうつったら、困ります』
『俺はそんなにやわな鍛え方はしていない。それに医者も、病ではなく過労だろうと言っていた。まったく、君が無理をする前に言わないから……なぜ泣く!? 悪い、君に文句を言ったわけではなくて! いや、文句ではあるが……!』
心配の小言を聞くことすら嬉しくて、瞳に涙を滲ませたイレーヌを見て、あたふたと狼狽する彼がおかしかった。
(私は、ユーグ様の名ばかりの妻だけれど、仮にも『家族』である限り、ユーグ様は名ばかりの妻にも、愛情の欠片をくれる。それで十分よ。……でも『家族』じゃなくなったら? ジェリーが一人前になったら、ユーグ様にとって、私は要らない存在になる)
――いつか、『白い結婚』が終わったら。
彼は『今までご苦労だったな』なんて言葉でねぎらって、きちんと謝礼も持たせたうえで、それでも無慈悲にあっさりとイレーヌを実家に送り返すだろう。
そして、ジェラルドを公爵家の当主に据えて、ジェラルドが妻帯して子でも持とうものならその子の義理の祖父として可愛がり倒すのだろう。
だって、ユーグにとっては、ジェラルドはもちろん、甥のまだ見ぬ妻子でさえも、『大事な家族』なのだから。……彼らと何年も一緒に過ごしたイレーヌだけは、ひとり寂しく、『家族』から弾き出されるというのに。
(私だって、家族がほしい。私と一緒にいてくれる、私の家族が欲しい。……子どもがいたら、違うのかな)
――本当は、それは誰でもいいわけではなかった。
イレーヌは彼と家族になりたかったのだ。そうでなければ意味がなかった。
けれど、それは手に入るはずのないものだったから、見ないふりをした。
「イレーヌ! 今、俺のことを『好き』って言ってくれたか!?」
手に入らないと思っていたのに、ユーグはいつの間にか、イレーヌに愛情を向けるようになっていたのだという。
これからも妻でいてほしいと必死に引き留められている。――じわじわと、喜びが込み上げてきた。
「まあ、あなたが夫なら、お金には困らなそうだし、立派な跡取り息子がいてお家は安泰だし……私の夫にするには、悪くない条件ですね?」
可愛げのない皮肉を吐いて、求婚のときの意趣返しをしてやろうと思ったのに、それを聞いたユーグは顔を輝かせた。
「ああ、ジェラルドにも陛下にも話をして、君と俺の子どもに継がせるための分家を創っていいことになった! 分家に取り分けた財産だけでも君の金蔓としては十分だと思う!」
「そ、そうですか……」
自分から『金蔓』宣言をされると、戸惑いしかない。
目を瞬かせて固まっていると、ユーグはイレーヌの纏っていた外套を脱がせ、ソファにぽいと放り出した。ちなみに、旅行鞄は最初に没収されたから、ここからあらためて旅支度を整えるには時間がかかるだろう。
「もう出て行かないな? イレーヌにはこれまで通り、俺の妻として過ごしてもらう。分かったら、その『公爵様』呼びもやめてくれ。俺はもう公爵でもないわけだし」
「……ユーグ様。私にも、夫に望む条件があるんですが」
「何だ? 俺には果たせない条件だとでも言う気か?」
途端に皺を寄せる夫の眉間を、イレーヌは細い指でぐりぐりとなぞった。
「私は、子どもが欲しいの。『これまで通り』じゃ、嫌よ」
――あなたが『条件』を満たしているか、示して?
拙い誘惑に対する答えは、噛みつくような口づけによってもたらされた。
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