無限界集落

季節は晩秋。昼間のぬくもりはもうなく、夕暮れとともに気温はぐっと下がり始めていた。


「寒い…」


無意識に漏れた言葉が、静寂に包まれた山中にむなしく響く。


すれ違う者は誰もおらず、獣道状態の道をひたすら下って行く。


愛する登山が、いつの間にか予想外の方向に向かってしまっていた。飲み水も底をつき始め、次第に焦りが募る。こんな状況での夜の山は、非常に危険だ。


結婚を半年後に控える30歳の俺は、東京の会社員でありながら、週末によく山に登っていた。


下山中、どうやら標識を見誤ったらしい。


標識はの確認の有無は命に関わるので、確実に行ったはずだ。


それに、山岳地図を見るのは大好きで、予習も完璧だった。


なのに、なぜ?


愛する山が試すかのように冷たい風を突きつけてくる。


戻るか、降り切るかのの2択だったが、俺は降りきる選択をした。


運が良ければ、どこか林道か集落に出られるかもしれない。


日は完全に落ち、あたりは真っ暗になったがヘッドライトを持ってきていたので前に進む事ができる。


もしも、コイツをリュックに入れていなかったらと思うと冷や汗が出た。


進むにつれ、当初は獣道のようだと思ったこの道も、思ったよりしっかりしていて、どこかに続いている気がした。


ふと、視界の先に小さな明かりが見えた。


「…助かった…」


俺はその光を頼りに、足を速めた。


枯れ葉が積もった狭い山道は、やがてしっかりとした石段に変わり、神社の裏手へと続いていた。


階段を下りきると、古びた木造家屋が15〜16軒ほど立ち並ぶ、小さな集落にたどり着いた。


ゆっくりと村へ足を進めると、そこには待ち構えていたかの様に50歳くらいの男性がひとりぽつんと立っていた。


彼は山で道に迷った登山姿の俺の状況を、瞬時に察したようだった。笑顔で手招きすると、俺を家の中へと招き入れた。


古びた家の中に足を踏み入れると、中には40代の奥さんと、20歳くらいの美しい娘がいた。


男性は簡単に自己紹介を始めた。


「私は角田功、妻は光代、娘の雅子です。疲れたでしょう?お風呂に入り、ここへ泊まっていきなさい」


「ありがとうございます。標識を見誤ってしまった様で…。本当に命拾いしました。この恩は一生忘れません」


俺は深く頭を下げた。


それからお風呂に入ると、寒さでこわばった体をほぐすように、湯気の立ちこめる風呂に身を沈めた。


温かさが体中に広がり、登山の疲れがじわじわと溶けていくようだった。


風呂から上がると、豪華な山の幸がテーブルに並べられていた。鹿肉のステーキやきのこ鍋、そして地元で作られた濁り酒。


俺はその美味しさに感動した。迷ってこの集落に足を踏み入れただけの人間に、ここまで豪華な料理を振る舞ってくれるなんて…。


濁り酒もアルコール度数が高いが美味しい。


その上、功さんがどんどんお酌をしてくれる。


隣では、娘の雅子さんが静かに座っていた。彼女もまた、父親から酒を注がれている。


最初は一言も発さなかったが、杯を重ねるうちに頬がほんのりと赤く染まっていく。


彼女の柔らかな笑顔と、艶やかな瞳が私を魅了し、次第に酔いが理性を鈍らせていく。


そして、雅子さんもまた、私の視線に気づいているかのように優しく微笑んだ。


「もう一杯、どうぞ」


功さんが酒瓶を差し出し、俺と雅子さんの盃に注ぐ。


盃が触れ合う音が、妙に艶やかに響いた。


酔いは深く、現実の輪郭がぼやけていく。


雅子さんの目は静かに俺を見つめ、指先の仕草までもが妖しく映った。


気づけば、欲望に抗えず、彼女を抱き寄せていた。


——半年後には結婚を控えている。


自分の倫理観には自信があった。


それなのに、雅子さんの色香には抗うことができなかった。


彼女は少し驚いたように目を瞬かせたが、やがて静かに俺の胸に身を預けた。


その様子を見ても、功さんも光代さんも一切咎めることはなかった。


功さんはわずかに微笑み、低い声で呟いた。


「……どうぞ、ごゆっくり」


戸惑いの感情は、雅子さんの温もりと酒の酔いに溶かされていった。


彼女は俺の胸に顔を埋め、静かに目を閉じる。


その夜、二人は両親の計らいによって、同じ部屋で一夜を共にすることになった。


月明かりが障子を照らし、淡い影を落とす中、雅子さんは言葉ではなく、目で誘ってきた。


俺は完全に理性を失い——導かれるように、夜の闇に沈んでいった。



         * * *



日がうっすらと部屋を照らし始めた頃、俺は目を覚ました。


隣には、雅子さんが穏やかに横たわっている。


昨夜の出来事はまるで夢のようだったが、その記憶は生々しく、間違いなく現実に起こった事だと再認識した。


俺は、迷い込んだこの家での夢の様な一夜を思い出しながら、そろそろ帰らなければならないと自覚した。


「もう出発の時間だな…」


俺は静かに立ち上がり、荷物をまとめた。


すると、雅子さんが目を覚ましたが、その表情は昨夜の柔らかさとは違い、とても冷淡な印象を受けた。


「おはようございます」


「…あ、おはようございます…そろそろお帰りですか…」


その声は冷ややかで、他人行儀だった。


まるで昨夜のことなど最初からなかったかのように…。


俺は言葉を失い、そのまま玄関へ向かった。


戸を開けると、そこには功さんが待っていた。


彼はにこやかに立ち、明るい声で言った。


「おはようございます! よくお休みになられましたか?」


「本当にお世話になりました。助かりました」


「せっかくのご縁ですから、ぜひまたお越しください」


功さんの声はやけに弾んでいた。


俺は言われるままに、住所と電話番号を交換した。


「本当にありがとうございました。また改めてお礼いたします」


俺がそう言い終わると功さんは陽気に笑いながら、バス停へと案内した。


道中も、村の歴史や名物の蕎麦の話を語ってくれた。


この集落は平家の落人たちが逃げ延びて作った隠れ里だという。山深いこの地に身を潜め、新たな生活を始めたというのだ。


雪深いこの地での稲作は難しかったらしく、年貢の対象とならなかった蕎麦が大昔から隠れた名物なのだと言う。


バス停に着くと、功さんは名残惜しそうな顔をしながらこう言った。


「またいらしてくださいね。いつでも歓迎しますよ」


俺はその笑顔に安心し、次回来ることを約束するように手を振り返した。


そして、1日1往復するだけのバスに乗り込み、村を後にした。


東京に戻ると、いつもの忙しい日常が待っていた。

それでも、あの集落で過ごした夜を思い出すたびに、不思議な幸福感が胸を満たしてくれた。


     

        3か月後



「もしもし…角田功ですが」


受話器の向こうから聞こえてきたのは、あの集落の男性、功さんの声だ。


「芳雄さん、久しぶりだな…あなたに話さなければならないことがある」


かしこまった功さんの声に、俺は不穏な予感を覚えた。


「…どうしたんですか?」


功さんは一瞬の沈黙の後、『怒気を含んだ声で』こう続けた。


「娘が妊娠したんだよ。あなたの子だ」


その一言が俺を地獄へと突き落とした。


驚きと同時に、責任感に駆られた。


事態の重大さをすぐに理解した。


俺は大変な事をしてしまった。


「…それは本当ですか?すぐに向かいます!」


俺はそう言うと、功さんに詳しい状況を聞く間もなく、慌てて荷物をまとめ始めた。


集落に駆けつけ、事態をしっかりと確認する必要があると感じたからだ。


電車の中では、あの地獄の様なセリフが頭の中でこだまし続けていた。


「娘が妊娠したんだよ。あなたの子だ」

「娘が妊娠したんだよ。あなたの子だ」

「娘が妊娠したんだよ。あなたの子だ」

「娘が妊娠したんだよ。あなたの子だ」

「娘が妊娠したんだよ。あなたの子だ」


長時間の移動を経て、ようやく村にたどり着いた俺は、功さんの前で深々と頭を下げた。


「申し訳ありません!すべて私の責任です…!」


俺は地面に手をつき、土下座をして謝罪した。


その姿に功さんはしばらく無言で見下ろしていたが、やがて重い口を開いた。


「責任を取るというなら、ここに住んで雅子と結婚してくれ。それが、俺たちの望むことだ」


俺は、功さんの言葉に愕然とした。


責任を取るためには、東京での生活を捨て、この山深い集落に根を下ろさなければならないのだ。


「…それは、すぐには…」


俺は言葉に詰まりながら、絶望的な現実を突きつけられた。


東京には婚約者がいるし、仕事もある。


しかし、功さんの視線は厳しく、彼がどんな選択をするか見極めようとしていた。



       * * *



俺は東京に戻り、まず婚約者の幸子に事情を説明した。


もはや悩むまでもないだろう。


俺は全責任を取るのだ。


「子供を中絶させる」などと言う事が許される訳がない。


幸子は激怒し婚約破棄の慰謝料200万円と結婚式のキャンセル料80万の支払いを要求した。


双方の両親にもこっ酷く叱られた。


俺は8年間続けた仕事も辞める決断をした。


後悔と迷いが渦巻いていたが、同時に、雅子さんとその子供に対する責任感が俺を突き動かしていたからだ。


こうして俺は全ての責任を取り、雅子さんと結婚するに至った。


功さんのもとで林業や農業に従事することになり、日の出とともに起き、山での作業に励む日々が始まった。


これまでの都会の生活とはかけ離れていたが、山を愛する俺にはかなり性に合っていた。


それから、雅子さんは無事に女の子を産んだ。


赤ちゃんは2人の名前を取って「芳子」と名付けられた。


生まれたばかりの小さな命を抱きしめる瞬間、俺は責任を果たしたという安堵と、父親としての新たな喜びを感じた。


生活は決して楽ではなかった。


山奥の集落での暮らしは、あらゆる面で不便だった。


物資の不足、厳しい自然環境、そして外界からの孤立感――それらが俺を待ち受けていた。


しかし、集落の人たちは皆温かく、家族のように支えてくれた。そんな環境の中、次第に俺は集落の生活に溶け込んでいった。


林業や農業の仕事もやりがいがいを見つけ、自然に囲まれた生活は俺の心を満たしていた。


家族となった功さん、光代さん、雅子、芳子、俺は皆を愛していた。


特に、娘・芳子の可愛い笑顔を見ていると、どんな苦労も乗り越えられると思えた。



        25年後



時代は令和を迎え、俺は55歳になり、妻の雅子は45歳。芳子は25歳になった。


俺は、完全に村に溶け込んでおり、集落の人々からも絶大な信頼を寄せられている存在となっていた。


この集落は、かつてそれなりに賑わいがあった場所だったが、今でも子供は多い。これは限界集落が問題視されている昨今、奇跡的な事だ。


俺は、村の将来に希望を感じつつも、かつてような体力を失いつつある自分に気づかされることが増えてきた。


林業や農業の仕事は依然として重労働であり、若い頃のように無理がきかなくなっている現実があったのだ。


そこで、俺は後継者のことを真剣に考え始めていた。娘の芳子が成長する中で、村の存続のためには婿を迎え入れることが必要だと感じていた。


「次の世代に託さないと、この集落は続かない…」


俺はそう心の中で呟き、芳子にふさわしい相手を見つける決意を固めた。


俺は、集落で長老となっていた功さんに相談を持ちかけた。


長年の経験と知識を持つ功さんは、集落の人たちから尊敬され、集落の決定に関わる重要な役割を担っていた。


「功さん、ちょっと相談があるんです…」


「この集落の存続のために、娘に婿を迎えたいと考えています。しかし…」


俺は少し言葉を詰まらせた後、続けた。


「こんな辺鄙で不便な場所に、わざわざ来てくれる物好きな人なんて、いるでしょうか…?」


功さんはしばらく無言で考え込んだが、やがて重々しい声で答えた。


「それは厳しいな…。村の不便さを考えれば、若い者が来たがらないのも無理はない」


功さんは深呼吸をし、思い切ったように重い口開いた。


「…実は、この集落の近くのある場所には、強力な媚薬作用のある草が生えているだ。このことを知っているのは、集落でも一部の人間だけだ」


功さんの目が鋭く光り、俺をじっと見つめた。


「…芳雄君が初めてここへ来た時、雅子と芳雄君の濁り酒に媚薬の草を混ぜ飲ませたんだ。山の上の標識の向きを変え、ここにこさせたのも私だ。その際、私は近道して芳雄君を待ち構えていたのだ…。すまない、許してくれ」


功さんは深く頭を下げた。


俺はあまりの衝撃に頭に血が上ったが、直ぐに冷静になった。


雅子も芳子も、この集落の事も深く愛していたからだ。


「そうやって、この集落は先祖代々繋いできたのだ」


功さんはふり絞る様にそう答えた。


俺は集落の伝統に従う事にした。


それしか方法がないと思ったからだ。


この話はすぐに功さんから雅子にも伝えられた。


彼女もこ聞いた当初は愕然としていたが、芳雄と集落への想いは強く、割と早く立ち直る事ができた。


方法はいたってシンプルだった。


昼過ぎに山へ登り、良さげな青年を見つけたら、先回りして標識の向きを変える。


その後、地元の人しか知らない近道を通り、家へと戻る。


そして雅子と結託し、媚薬入りの濁り酒を芳子と青年に飲ませる。


2人の行く末を見守り、最後は連絡先を交換するだけだ。今の時代ならLINEだろう。


1人で山登りに来る人間は極めて誠実な人間である事が多い。


その上、この山深い集落との親和性も非常に高い事は間違いないだろう。


かつての俺がそうであった様に……。



         * * *



作戦は驚くほど簡単に終わった。


その後、芳子の妊娠が発覚した。


完璧だ。


相手の青年の名は加藤悠太。


一流企業に勤める28歳。


性格も申し分ない好青年だ。


俺はスマホを手に取った。


「加藤悠太さんですか?久しぶりだね」


「はい、その節は本当にお世話になりました」


「あなたに話さないといけない事がある」


「はい、何でしょうか?…」


俺は『あえて怒気を含む様な声』で言った。


「娘が妊娠したんだよ。あなたの子だ」



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