禊(みそぎ)
私は井上沙織。16歳。ごく普通の女子高です。
正確には、女子高生だった——。
どうやら私は死んでしまったらしいのです。
え?どうしてそんなことがわかるのかって?
それは、自分のお葬式を見たからです。
あまり思い出したくないので、その時の詳細は省かせてください。
あまりにも悲しかったから——。
生きることに強い執着心はなかったと思います。
それでも、お父さんとお母さんが号泣している姿を見た時——。
その胸が張り裂けそうになる光景を目の当たりにした瞬間に、私は初めて強く感じました。
もっと生きたいと。
大切な人たちを悲しませることが、こんなにも苦しいなんて……。
* * *
気がつけば、私は浮遊霊になっていたようです。
浮遊霊って、簡単に言うと肉体を持たず、意識だけが存在している状態です。
私はみんなのことを見たり聞いたりできるけど、みんなからは私の姿は見えない。簡単に言うと透明人間みたいな感じです。
成仏できていないこの状態がいつまで続くのかは全くわかりません。
どうして死んでしまったのか…。
それを説明しなきゃいけませんね。
あれは、いつものように自転車で登校していた時のこと。
車道から歩道に移る際に、少しの段差にタイヤが引っかかって、そのまま転倒。
呆気なく、そのまま後続車に轢かれてしまいました。
その瞬間、車の運転手と目が合ってしまったんです。
まだ若い女性でした。
彼女がどれだけ驚いたか、その時の表情が忘れられません。
交通刑務所に入れられるかもしれません。
彼女も間違いなく一生のトラウマになる事でしょう。
どう考えても、私はまだ死ぬわけにはいかないのです…。
そんな状況で思いつくのは、神頼みしかありませんでした。
毎年初詣に行っている、近くの烏住(からすみ)神社へ足を運びました。
すっかり夜も更け、社殿は静かに佇んでいます。
誰もいません。
私は普段、神様を信じるタチではなかったけれど、この時だけは心から祈りました。
「神様…。どうか…今日だけは私の願いを聞いてもらえないでしょうか…」
すると、どこからともなく、低く響く声が聞こえました。
「そなたは…残念ながら、すでに死んだのだ」
浮遊霊の自分は、この様な現象にもそれほど驚かなくなっていました。
ここまで来ると、何が起きてもおかしくない。
そんな心境になっていました。
「過去に戻りたいのか?」
「はい」
「10年後、そなたは“禊”を受けることになる。それでも良いのか?」
「はい、お受けいたします」
「よかろう…。そなたの願いは受け入れたぞ」
* * *
気がつくと、私の周りにはいつもの光景が広がっていました。
直感的にすぐにわかりました。事故が起こる日の朝の風景です。
朝の光がカーテン越しに差し込み、部屋の中を柔らかく照らしています。
リビングからは、母のまな板をトントンと軽やかに叩く音が聞こえてきます。朝ごはんの準備でしょう。
「午前中は晴れますが、午後にはところによりにわか雨…」
穏やかなNHKアナウンサーの声、新聞を読むお父さん、コーヒーの香り…。
この光景が何よりも愛おしかった…。
「沙織、おはよう」
優しいお母さんの声。
「お母さん、おはよう」
気がつくと頬には涙がつたっていました。
しかし、今日だけは絶対に家から出るわけにはいきません。
また事故にあうかもしれないからです。
「お母さん、おはよう……お腹が痛いよ…。今日学校休でいい?」
「沙織、お腹大丈夫?無理しないで、学校休んでいいのよ」
「うん、休むね。ありがとう、お母さん」
いつも真面目に登校しているので簡単に休むことができそうでした。
今日は絶対家から出ないつもりです。
この普通のやりとりさえも、胸にじんわりとした温かさが広がっていきます。
お母さんがいつものように優しく接してくれる。
それがどれほど尊いことか、今でははっきりとわかります。
父が新聞から顔を上げて、私を見ました。
「お腹痛いんだって?無理せず休めよ。そういう日も必要だから…」
厳しいところもありますが、愛情を込めてくれる、その一言一言が今はありがく心に染み渡ります。
家では録画しておいたドラマを見ながら過ごすことにしました。
何が起こるかとても不安でしたが、その日は結局何も起きなかったのです。
10年後
私は無事に日常を過ごし続け、あの日の記憶も次第に薄れていき、やがて完全に消え去っていきました。
高校を卒業し、大学へ進学。
そして、数年後、地元から数キロ離れた繊維メーカーの工場に就職しました。
そこまでは、毎日車で通勤していました。
この日の朝も、いつも通りの道を、車で走っていました。
ごく普通の片側一車線の県道。
気分は上々、ラジオから流れる軽快な音楽に耳を傾けながらの運転。
そんな中、視界にふと入ってきたのは、1人の女子高生。
私の通っていた高校の制服。
彼女は車道を自転車で走っていました。
女子高生も車の気配を感じ取ったようで、ゆっくりと歩道に移動しようとしているのが見えました。
しかし、その瞬間、予想外のことが起こったのです。
わずかな段差にタイヤを引っ掛けてしまい、女子高生が転んだのです。
しかも車道側に———。
私はとっさにに急ブレーキを踏みましたが、この距離では絶対に間に合いません。
その時、目が合ったのです——その女子高生と。
全てがスローモーションに進んでいきます。
その目が見つめ返してきた時、私は息を呑みました。
なんとその顔は、16歳の私自身だったのです。
その瞬間、走馬灯の様にあの日の出来事が頭の中に流れていきます。
あの日、神社で願ったこと。
過去に戻ったこと。
そして10年後に「必ず禊を受ける」と神様に告げられた言葉が…。
すべてが繋がり、恐怖と混乱が一気に襲いかかってきた。
キッーーーーーーーーーー!!!
急ブレーキは間に合いませんでした。
轢いてしまった。
そう思いました。
しかし、車が完全に止まった時、何の衝撃もなく、目の前に何もなかったのです。
呆然としながらハンドルを握りしめ、目を見開いたまま、信じられない思いで前方を見つめました。
「…さっきまで、いたはずなのに…」
狐につままれたような感覚。
恐る恐る車を降りて周囲を見渡してみましたが、やはり何もない。
転んでいたはずの女子高生——16歳の私の姿も、跡形もなく消えていました。
私は女子高生の頃、自らの不注意で危険な転び方をし、あの事故を引き起こてしまいました。
そして今日、私はまた不注意な行動を取ってしまったのです。
自転車としっかり間隔をあけていれば、あの事故は防げたのでしょう。
私は漫然と日々を過ごし、人に迷惑をかけることが多かったのです。
自分の行動に対する配慮が足りなかったのだと、痛感しました。
今日、私は「禊」を受けたのです。
* * *
その日の仕事が終わると、すぐにあの神社へ向かいました。10年前に願いをかけた、あの烏住神社。
薄暗い夕暮れの中、社殿に足を運び、心から感謝の祈りを捧げました。
「神様、私を生かしてくださってありがとうございました。今日、私は禊を受けました。
これからは、もっと周りに気を配り、感謝して生きていきます」
静かに手を合わせ、心の中で何度も繰り返し感謝の気持ちを伝えました。
すると、あの時と同じように、再びあの声がどこからともなく響いてきました。
「そなたは、生かされた選ばれし者。これからはしっかり生きなさい」
その声が、まるで私の心を優しく包み込むように響きました。
「はい!」
私は力強く答えました。
その瞬間、心地よい風が神社の境内を吹き抜け、私の頬をそっと撫でていきました。
まるで、神様が私を励ましてくれているかのような温かい風でした。
私は目を閉じ、深く息を吸い込みました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます