古井戸

遠藤 涼(17)は、幼い頃から自宅の裏庭にあるコンクリートの蓋で覆われた古井戸に興味を抱いていた。


祖父母も、両親も、口を揃えて「絶対に近づくな」と言うだけで、理由を語ろうとはしなかった。


だとすれば、興味を持つなという方が無理な話だろう。


その分厚い蓋は、これまでびくともしなかった。だが、野球部で鍛えた今の涼には、自信があった。


ある夕暮れ。ふとした衝動に駆られ、彼は井戸の前に立った。


両手でコンクリートの蓋に力を込めると、長年沈黙を保っていたその円盤が、ギギギ……と不気味な音を立てて、ゆっくりと動き出した。


やがて、開いた。


涼の目の前に、ぽっかりと黒い穴が姿を現す。


懐中電灯を取り出し、中を照らす。


しかし、光は吸い込まれるように拡散し、底は見えなかった。


その暗闇から、冷たい風がゆるりと這い上がってくる。


「この井戸……どこかに、通じてる……」


そんな気がした。



         * * *



夜が更け、家族が眠りについた頃、涼は静かに裏庭に向かった。


ロープを持ち、近くの木に結びつけると、懐中電灯を腰に井戸の縁に立った。


ためらいを振り払うように、ロープを掴んで井戸の中へと降り始めた。


足を壁につけながら少しずつ慎重に降りる。


井戸の空気も湿っているだけでなく、緊張で手に汗もかいている。


思っているより、だいぶ深い。


その時だった。


手が滑った!!!!!



         * * *



気がついたら、井戸の底に尻もちをついていた。


危なかった。


湿った土のにおいが鼻をつき、底知れぬ暗闇が彼を取り囲んでいる。


懐中電灯の光が井戸の底を照らすと、涼は驚いた。


井戸は思っていたよりも横に広がっている。


慎重に歩を進めた。


足元は湿っていて、時折小石が転がる音が響く。


約10メートルほど進むと、涼の前に古びた鉄の扉が現れた。


錆びついた鉄の表面には、年月の重みが刻まれているようだ。


扉の取っ手も無骨で、冷たく凍りつくような感触が伝わる。


涼は一瞬の躊躇の後、鉄の扉に手をかけ、力を込めて開けた。


重々しい音が地下に響き渡る。


そして、扉が完全に開いた瞬間、目の前に広がる光景に驚愕した。


そこには豪華な部屋が広がっていた。


壁には絵画が飾られ、シャンデリアが天井から吊るされている。


絨毯が床一面に敷かれ、空気には異様なまでの静けさが漂っていた。


部屋の中央には、長身のスーツ姿の紳士が立っていた。


年齢は不詳だが、整った顔立ちに微笑みを浮かべている。


その紳士は涼の方にゆっくりと歩み寄り、丁寧に一礼した。


「遠藤涼様、お待ちしていました」


紳士の声は低く落ち着いている。


涼は無言で立ち尽くし、目の前の状況に戸惑いを隠せない。


この人は誰で、なぜ自分の名前を知っているのだろう?


スーツ姿の紳士は涼に微笑みかけながら、一歩近づいた。威厳を漂わせているが、不思議と威圧感は感じられなかった。


彼は丁寧に涼に向かって話し始めた。


「私は遠藤涼様専用の執事、前田でございます。何かご要望があれば、お申し付けください」


その声は低く穏やかで、まるで高級ホテルのコンシェルジュのような礼儀正しさを持っていた。


この地下の奥深くで、なぜこの様な執事が自分を待っていたのか――不安と疑問が渦巻く。


涼は口を開こうとしたが、喉が詰まり、言葉にならなかった。


前田は微笑を崩さず、じっと涼の返答を待っている。


「ご要望があれば…」という言葉が涼の心に強く残る。


涼の今の1番の願い――それは、野球でピッチャーとしてプロに行き大活躍することだった。


これまで懸命に練習を重ね、プロのマウンドで投げる姿を何度も夢見てきた。


しかし、こんな異様な場所でその願いを口にすることになるとは思いもしなかった。


涼は決心し、少し緊張しながらも言葉を紡いだ。


「俺の願いは…ピッチャーとしてプロに行くことです」


涼の声には揺るぎない決意が込められていた。前田はその言葉を聞き、微笑んだ。


「それは素晴らしい目標ですね、遠藤様」


前田の目にはどこか不気味な光が宿っていたが、その声色は相変わらず穏やかだった。


涼に一礼すると、部屋の奥にある扉を開けた。


中はなんと野球の室内練習場が広がっていた。


前田は再び涼に向き直り、静かに言った。


「私は遠藤涼様専用の執事です。全力で、あなたがプロのピッチャーになるためにサポートいたします」


その言葉を聞いた涼は驚き、目の前の状況に戸惑いながらも、心の奥にある期待が大きく膨らんでいく。


そして、執事はどこからともなくキャッチャーミットを取り出し、それを手にはめた。


「さあ、まずは肩慣らしをしましょう。投げてみてください」


前田はしゃがみ込み、マスクをしミットを涼に向かって構えた。


その姿は驚くほど完璧で、まるでプロのキャッチャーのようだった。


涼は一瞬戸惑ったが、執事の真剣な眼差しに促されるようにボールを持ち、ピッチングの構えに入った。


「本当にいいのか…?」


涼の心には不安が残っていたが、その場の不気味さに飲まれないようにと気持ちを奮い立たせた。


そして、腕を振り、ストレートを投げ込んだ。


「投げやすい!」


ボールは鋭い音を立ててミットに収まり、部屋中に重たい音が響き渡った。


前田はその衝撃に、満足げに微笑む。


「素晴らしいフォームですね。これからは、より高度なトレーニングを用意いたします」


涼はその言葉に不気味さを感じつつも、プロへの道を掴むために、この奇妙な執事の指導を受ける決意を固め始めていた。


地上へ戻る際、前田にこの様に言われた。


「遠藤涼様、この井戸の中の事は絶対口外せぬよう、宜しくお願い致します」


「わかりました」


涼も誰にも言うつもりはなかった。色々疑問はあったが今、最も大事な事は野球だ。



         * * *



その日から、涼は学校の野球部の練習が終わると、必ず井戸の中へと向かうようになった。


闇が支配する古井戸の奥にある秘密の部屋――そこには、涼専用の執事、前田が待っていた。


前田は変わらず丁寧な態度で涼を迎えた。


彼の指導は的確かつ厳格で、まるでプロのコーチのようだった。


涼は、前田の指導に対して最初は半信半疑だったが、次第にその指導の精密さに圧倒されていった。


前田はキャッチャーミットを構えながら、低く響く声で涼に声をかける。


「遠藤涼様、今日はコントロールの練習です。より正確に、より鋭く」


涼はその言葉に従い、ひたすらにボールを投げ続けた。


異様な雰囲気だが、涼は気にせず、全力でボールをミットに投げ込む。


前田はどんなボールでも確実にキャッチし、時折微笑むように涼を見つめた。


「さすがは遠藤涼様です。この調子で行けば、プロも夢ではありません」


前田の言葉には、どこか得体の知れない確信があった。涼はその言葉に背中を押され、ますます前田の指導に熱中していく。


学校の監督、コーチとは比べ物にならないほどの技術と知識を持ち、涼の投球フォームを細かく修正し、投球の精度と球速を飛躍的に向上させた。


前田は、体重移動や腕の振り方、リリースポイントに至るまで、細かく指導を続けた。


前田は相変わらずプライベートな事は一切喋らず、井戸から出ることもなかった。涼もそのクールな関係が気に入っていた。



         * * *



涼はその指導を受けるたびに、驚くべき速度で成長していった。メキメキと頭角を現し、高校の試合でも圧倒的なピッチングを見せるようになった。


ある試合で、160キロのストレートを計測した時、チームメイトや観客は驚愕した。


「すごいぞ、遠藤!お前は本物の怪物だ!」


涼の投球は超本格派右腕としての評価を得て、瞬く間にプロのスカウトたちの注目を集めることとなった。


涼の速球はキレがあり、バッターたちを圧倒していく。


前田は涼の成長を見守りながら、満足げに微笑んでいた。


「遠藤涼様、貴方は必ずプロに行けます。この道を突き進んでください」


涼は前田の言葉に力強くうなずき、さらにプロの舞台を目指して一層の努力を誓った。



         * * *



涼の所属する栄進学園高校は、ついに甲子園への出場を果たした。涼のピッチングは圧倒的で、観客の視線を集めた。


涼の160キロのストレートはキレを増し、バッターたちはそのスピードとコントロールに翻弄された。甲子園でも快進撃を続けたその存在感は圧巻だった。


涼は危なげないピッチングで甲子園優勝を果たし、その名を全国に轟かせた。



         * * *



そして秋のドラフト会議。テレビ中継が全国に放送される中、涼は緊張と期待の中で名前が呼ばれるのを待っていた。


そしてついに――


「東鉄フェニックス、第一巡選択希望選手…遠藤 涼、栄進学園高校、投手」


その瞬間、栄進学園高校は歓喜に包まれた。念願のプロ入りが決定し、夢のスタートラインに立ったのだ。彼の顔には笑みが浮かび、チームメイトや家族がその場で祝福する。



         * * *



井戸の中で前田の言葉が響く。


「遠藤様、これでプロへの道は開かれましたね。全てはあなたの努力の賜物です」


涼はうなずきながらも、どこか胸の奥に不安の影を感じていた。


あまりにも上手く行きすぎている。


でも、今はただ、プロという新たな舞台での活躍を夢見て、前へと歩み続けるだけだ。



         * * *



東鉄フェニックスに入団した涼は、キャンプから1軍、オープン戦から期待以上のパフォーマンスを見せた。


高卒新人ながらも開幕投手に抜擢され、プロの強打者たちを相手に堂々としたピッチングを披露。160キロ超のストレートはプロの舞台でも健在で、次々とバッターを三振を奪っていく。


「まるで一流のメジャーリーガーのようなピッチングだ…」


チームメイトやコーチ陣も、涼の圧倒的な投球力に驚きを隠せなかった。


涼はデビュー戦で完封勝利を飾り、瞬く間にファンの心を掴んだ。プロの舞台でも、涼の成長は止まらなかった。


しかし、プロの寮生活が始まったことで、涼は以前のように井戸の中に通うことができなくなった。前田からの指導は減ったが、それでも涼の中には前田の教えが深く根付いていた。


フォームの微調整や精神的な安定感、勝負どころでの冷静さ――すべてが前田から学んだものだった。


「遠藤、すごいな。どうやってこんなに成長したんだ?」


チームメートの問いに、涼は少し微笑むだけだった。彼の中には、井戸の中での夜な夜な繰り返された特訓の記憶が鮮明に残っていた。


しかし、その奇妙な出会いについて絶対に語ることはなかった。


前田の教えが、いかに涼の投手人生にとって絶大なものであったか――涼はその力を日々の試合で実感し続けた。


そして、彼はさらなる高みを目指して、プロの世界での活躍を続けていった。


プロ1年目にして涼は驚異的な成績を残した。


160キロ超のストレートと多彩な変化球を駆使し、圧倒的なピッチングを続け、シーズン17勝を挙げたのだ。


そして、その活躍により、東鉄フェニックスはリーグ優勝を果たし、日本シリーズへと駒を進めた。



        * * *



ついに迎えた日本シリーズ第7戦の最終回。


スコアは1-0。


先発の遠藤 涼は、1点リードのまま9回のマウンドに立っていた。


観客席からの歓声と緊張感が球場全体を包み込む中、涼は最後のバッターに向かっていく。


「これで決める…」


9回裏、2アウト。カウントは3-2。


涼は息を整え、渾身のストレートを投じた。


160キロの浮き上がる様なインハイ直球、バットは空を切った。


「ストライク!バッターアウト!」


涼は拳を突き上げ、涙が頬を伝う。


割れんばかりの大歓声の中、チームメイトたちが駆け寄り、涼に抱きつく。


目の前に広がるのは、勝利の歓喜に満ちた光景だった。


球場の大歓声に包まれ、胴上げ投手となった涼の身体は空高く舞い上がっる。


1回! 2回! 3回!



だが次の瞬間、球場の照明が全て消えた。


あたりは漆黒の闇に包まれる。


下で胴上げされた涼を受け止める選手達はどこにもいなかった。


涼の身体は落下していく。


井戸の底へと———




家族が寝静まり、井戸に降りようとした初日の夜。


ロープから手を滑らせた涼。


その僅かな時間に見た、“最期の”長い長い夢。


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