Swan Lake
1962年、ニューヨーク郊外。デイヴィッド(20)は黒人という理由だけで、夢見ていた大学には進めず、街の小さな病院で清掃の仕事に就いていた。
真夜中の廊下にモップの音だけが響く。
消毒液の匂いと、白く光る蛍光灯。
その下で彼は、息をひそめるように働いていた。
「…ふぅ…」
扉の向こうから小さなため息が聞こえた。白衣のポケットに手を突っ込んだまま、若い看護師見習いの白人女性が廊下に立ち尽くしている。ジェニファー(20)は研修で来たばかりの新米で、慣れない夜勤に疲れきっていた。
彼女はデイヴィッドに気づくと、微笑みながら話しかけた。
「……あなた、いつも頑張っているわね。おかげ様でこの病院はいつも綺麗ね!」
デイヴィッドは驚いて立ち止まった。
白人の看護師に、こんなふうに気さくに声をかけられたことは一度もなかったからだ。
「そう言っていただけたると嬉しいです。更にやる気が湧いてきます」
嬉しそうにそう答える声は、どこか慎重だった。
ジェニファーはそんな彼の態度に気づいたのか、小さく肩をすくめた。
黒人男性と白人女性が、仲良く話す事すらはばかれる時代だったからだ。
「頑張ってね!」
ジェニファーの優しい笑顔にデイヴィッドは心が温かくなった。
「うん」
それはジェニファーも同じだった。
* * *
それから2人は、夜勤の合間に少しずつ言葉を交わすようになり、デイヴィットが休憩所として使っている古い倉庫にジェニファーが空き時間にやってくる様になった。
「人に見られたら大変だよ」
デイヴィッドは何度もそう言った。
誰かに知られたら2人は何もかもを失う恐れがあった。だがジェニファーは、真っ直ぐに彼を見つめて小さく笑った。
「うん…ごめんね…仕事が辛くて…でもデイヴィッドといると元気が出るのよ」
「…僕もだよ…」
倉庫の隅に並んだ古びた箱の上で、2人は紙コップのコーヒーを分け合った。
いつしか、2人の間には愛が芽生えていた。
しかし、触れることも、抱きしめることもできない。
だから合図のようにそっと手を掲げ、2人でハートの形を作った。
それが「愛してる」のサインだった。
* * *
夜勤が終わったあと、2人はセントラルパークで何度かデートをした。
もちろん誰かに見られないように、薄暗い時間の人がいないところで…。
2人は出会うと手を掲げてハートマークを作った。
しかし、幸せな時間は長くは続かなかった。
早朝にセントラルパークをランニングしていた院長に見つかり、デイヴィッドは解雇されたのだ。
ジェニファーも親に報告され、2人はこっ酷く叱られた。
命の危険さえ感じたデイヴィッドは、さすがにもう会う事はできないと悟った。
彼女の父親に、こめかみにピストルを突きつけられたからだ。
* * *
デイヴィッドはデトロイトで、住み込みの仕事が決まったので、ニューヨークを離れる事になった。
大きな荷物を抱えて長距離バスに乗り込む時に、偶然にもジェニファーに会った。
2人は奇跡の再会を喜びあった。
「デイヴィッド…もう会えないかもしれないけど…元気でね…」
「…ジェニファーも…」
目に涙を浮かべたデーヴィッドはそう答えるのが精一杯だった。
ジェニファーは右手を出すとと、デイヴィッドもそれに合わせて最後のハートマークを作った。
「デイヴィッド…次生まれ変わったら…絶対に一緒になれるよね?…愛してる…」
「うん、ジェニファー、生まれ変わったら絶対に一緒になろう…僕も愛してるよ…」
小声でそう言い終わるとデイヴィッドは、すぐにバスに乗り込んだ。
これ以上の会話は危険だと思ったからだ。
バスが発車するとジェニファーは泣きながら、両手を振り続けた。
バスが見えなくなってもずっと……。
* * *
日本の東北の山あいにある静かな湖で、不思議な光景が人々の目を引くようになった。
1羽の白鳥が、仲間と共に渡らずに湖へ残ったのだ。
本来ならば、冬が終われば北のシベリアへ帰るはずだった。
理由はあきらかだった。
パートナーがいたのだ。
白鳥は1度つがいになると生涯を共にするのだが、その相手はなんと黒鳥だった。
黒鳥とはオーストラリアとニュージーランドに生息するハクチョウ属の水鳥だ。大きさも白鳥と同じくらいで、赤いクチバシをもつのが特徴だ。ただし、白鳥と違い、留鳥で海を渡る習性はない。
動物園などでの飼育個体の逸出か、国内での繁殖個体を誰かが連れてきたのか…。そのあたりの事は定かではなかった。
白と黒。対照的な羽を持つ2羽は、湖面で首を重ねると、美しいハートの形を幾度も描いた。
その姿を見た人々は、誰もが同じ想像をした。
——きっと、この2羽の前世は、かつて時代によって関係を引き裂かれた恋人同士なのだろう。
そして、生まれ変わり、一緒になる約束を果たしたのだろうと。
真実を知る者はいない。
だが、湖面に浮かぶ白と黒のハートは、確かに「実際にあったであろう物語の続き」を描いているように見えた。
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