5

 夜の集会は無事終わり、和やかな空気が広場を満たしている。カフェのテラス席からは相変わらずアコーディオンの演奏が響き、陽気な歌声が流れてきた。叔父さんはゴンドリエーレ仲間に誘われ飲みに行ってくるとのことだったので、友人たちと別れぼくはエミリオと一緒に街を歩いていた。

 観光地と違い、路地に街頭は少なく、薄暗い道を月明かりが照らしている。自然とエミリオが先を歩き、段差のあるところでふとぼくに手を差し伸べた。


「どうしたの?」

「段差があるから危ないと思って」

「大丈夫だよ、小さな子どもじゃないんだし」


 急に紳士のように振る舞う彼がおかしく、ぼくは笑う。エミリオは少し目を瞬き、たしかにそうだなと呟いて手を引っ込める。


「提案したほうが不思議がってどうするんだよ」

「なんか……癖で」

「エスコートが? 紳士じゃん」

「今更気づいた?」


 戸惑っていたのは一瞬だけで、エミリオは笑った。


「それにしても、ほんとうに良い時間だったな」

「あれね。エミリオが歌うかって言ったときは何考えてるんだって思ったけど」

「でも、そのほうが楽しかったのは俺の言う通りだっただろう」

「そうだね」


 ぼくらは顔を見合わせて笑いあった。少し広い路地に出ると、夜空がよく見えた。


「あの歌詞はお前が考えたのか?」

「そうだよ。たまに即興で歌うことはあるんだけど、さっきのは特に良かった気がする」

「ああ、いい歌詞だった」


 まっすぐに称賛してくれることが嬉しい。どちらが言い出したわけでもなく、ぼくらはいつもの路地へ向かっていた。遠くからはかすかに、陽気な声が響いてくる。建物の明かりがぽつぽつと行く手に輝き、道標のようだった。

 今日がもうすぐ終わろうとしている。そして、鐘楼の工事も、計画ではもうすぐ終わるという。エミリオへの親しみが深まるほどに、彼との別れも一層意識してしまう。悲しみを追い払うように、ぼくは空を見上げた。夜空下の帰路はあっという間で、いつもの橋の上にやってきていた。


「今日も楽しかったよ、レオ」


 月明かりの下で微笑むエミリオは役者のようだった。


「誰かの記憶から俺が消えるのは寂しいけど、過ごした時間が消えるわけじゃないのは……幸福なことだ」


 無理やり出した言葉ではなく、ありのままの気持ちだと分かる。ぼくも同じ気持ちだった。リフティング勝負も、サンマルコ広場の歌声も、彼の存在が必要だった。この世界の誰もが彼を忘れても、一度刻まれた時間はなくならない。


「じゃあな、レオ。アッディーオ」


 いつもの別れの言葉を言って、エミリオは笑う。彼が毎日向き合うさよならに、ぼくも向き合いたいと思った。


「アッディーオ、エミリオ。きみのことは忘れない」


 親しみを込めた言葉のはずなのに、言葉にすると悲しみが勝る。それを悟られたくなくて、ぼくは思わず下を向いて右手を差し出す。エミリオは自然にその手を取って握手をした。きっと彼は笑っていることだろう。これがもし最後の別れだったら情けないと思い、ぼくは顔を上げた。


「エミリオ——」


 せめて強がりでも言ってやろうとしたその瞬間、手を強く引かれ、抱きしめられていた。最初は驚いたけれど、エミリオの両手がぼくの背中に必死にすがりつくのを感じて、ぼくは彼の背中を擦った。


「……俺も絶対に忘れない」


 少しだけ彼の声が震えていて、喉の奥が苦しくなった。ただ、驚いたことに、そこにあるのは悲しみだけではなかった。この世界に、悲しみではない別れなんてあるんだろうか? そんなことを思いながら、ぼくらはしばらくそのままでいた。ふと、脳裏に、朝日に照らされる母さんと、風にはためくシーツの情景が浮かぶ。エミリオの黒髪は、干したてのシーツみたいなにおいがした。


「エミリオって、太陽みたいなにおいがするね」


 冗談っぽくそう言って、ぼくは笑う。彼もつられるように笑ったけれど、急に静かになる。どうしたのだろうと気になったけれど、彼はゆっくりぼくから離れる。向き合った彼の表情は、これまで見たどの表情とも異なっていた。月明かりに反射して、瞳が輝いたかと思うと、そこから雫がこぼれ落ちる。


「……アンドレア?」


 エミリオは片手でぼくの頬に触れた。両目からは星屑みたいに涙がこぼれていたけれど、彼はそれを拭おうともしない。


「アンドレア、帰ってたのか?」

「……エミリオ? どうしたんだよ」


 あまりにもその涙が悲痛だったので、思わず彼の代わりに涙を拭う。そこでようやくエミリオは我に返ったように目を見開き、慌てて涙を拭う。


「悪い……」

「全然いいけど……大丈夫?」

「……ああ」


 そう返事はしたものの、彼は苦しそうだった。拭っても涙が溢れるようで、ぼくから顔を背けたまま黙り込んでしまう。先程発したアンドレアという名前は初めて聞くものだった。そこから察するに、彼は過去の大事な何かを思い出したのではないだろうか。そう、約束に関する記憶だ。とはいえ、話を聞けるような状況ではないし、ここに置いていくこともできない。


「とりあえず、ぼくの家にこない? ここから近いし」

「……分かった」


 少しだけ鼻をすすって、エミリオは頷く。赤くなった目元が痛々しい。

 そういえば、サンマルコ広場で再会したあの日、橋の上で待ち合わせしたときもこんな目をしていた。




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