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 広場の近くにある店で昼食を軽く済ませ、サンマルコ地区へと向かう。観光客に混ざって店を巡り、エミリオと一緒に食べ歩きする。これが意外と面白くて、この夏にヴェネツィア一帯を散策して回ってもいいなと思えた。

 運河を眺めながら他愛のない話をして時間を過ごし、日がだんだんと沈むのを眺める。


「エミリオはいつか自分の時代に帰るんだよな」

「帰れるかは分からないけど、そうなるのが理想かな。どうしたんだいきなり」

「いや、寂しくなるなぁって思ってさ」


 夕陽を眺めると、なぜか感傷的になる。遠く離れて会えなくなるのと、もう二度と会えないというのは、全く異なる別れだ。エミリオの場合、後者の別れになるのは必然である。


「なんだかんだ、きみと過ごす時間が気に入ってたから」

「ふぅん?」


 エミリオはにやりと笑った。彼を調子付かせるのは嫌だったけれど、話したい気持ちが勝る。


「ぼくの母さんはもういないんだけどさ。病気になって別れが明確になって。そうなると、幸せな時間も悲しく思えるようになったんだよね」


 赤い夕日が運河に反射してきらきら輝く。ゴンドラが行き交い、楽しそうに響く声が、どこか別世界のようだ。


「楽しい思い出も、その相手がいなくなると、悲しい思い出になる。そんな感じ、分かる?」

「うん、分かるよ」


 エミリオの声は優しかった。それは気遣いでもなく、同情でもない。彼もまた、記憶が消えるという点において、毎日が別れの連続なのだから。


「エミリオがいなくなったら……初めて会った路地も、サンマルコ広場も、サッカーしたことも、ここで夕陽を見たことも。全部悲しくなるのかな?」


 答えを望んだ問いではなかった。ぼくの気持ちを知ってか知らずか、エミリオは返事をしない。その沈黙は、なぜか心地よかった。


「でも、どれも忘れられない大事な思い出なんだ。本当なら、前に進むための力になるはずなのに」


 母さんのことを想う。一緒に笑い合ったことすら悲しくて、記憶から目を背ける日々だった。だけど、エミリオと出会い、自分だけが彼の記憶を持ち続けていることで、少しずつ気持ちの変化を感じている。彼との日々はぼくらだけの特別なもので、彼がいなくなった後も、きっとぼくの背中を押してくれるだろう。思い出というのはそうあるべきだ。


「エミリオとの思い出が悲しいだけにならないように、強くなりたい」


 声に出すつもりはなかったのに、気づいたら呟いていた。気恥ずかしくなって誤魔化そうと言葉を探したけど、エミリオは笑わなかった。微笑んだまま夕陽を眺めている。ぼくもそれ以上は何も言わず、今日の景色を忘れないように眺め続けた。


「そろそろ行くか」


 夕陽も沈み、辺りが薄暗くなった頃、エミリオが立ち上がる。差し伸べられた手を取って、ぼくも立ち上がった。彼の手は温かかった。


 サンマルコ広場での集会は、すでに多くの人々が集まっていた。ライトアップされた建物は昼とは違うロマンチックな雰囲気を醸し出している。それだけでも十分見応えはあるが、今日は海水の逆流はなく水溜まりがなかったのが残念だった。


「ほんとに来たのか」


 先に来ていたヴァレンティノを見つけると、彼は相変わらずそっけない挨拶をしてくる。お馴染みとなったエミリオの紹介も終え、プラカードを手にして集団に加わった。観光客たちも昼間の慌ただしい観光がひと段落したのか、立ち止まる人が多かった。幻想的な夜の雰囲気も相まって活気付いてきたころ、人々の中に見慣れた姿があることに気づく。


「叔父さん?」


 ぼくの声に気づき、叔父さんはこちらを向いた。今朝のことを思い出して少し気まずくなったけれど、ここにいたことの驚きのほうが勝った。


「どうしてここに?」

「ああ、今日の朝話をしただろ。それで、俺も真面目に考えようと思ったのさ。夜の集会は聞いていたから、お前もいるだろうと思ってね」

「そうなんだ……」


 叔父さんとヴェネツィアのことについて話したのはあれが初めてだった。だからこそこの行動が、ぼくを気遣ってのものだという思いが先に出てきてしまう。申し訳なさで言葉が出ていかなかったとき、叔父さんがエミリオの存在に気づいた。


「レオの友達か? はじめましてだな。レオの叔父のイヴァンだ」

「エミリオです」


 今日の朝に話をしたと言っていたから、エミリオにとって二回目の自己紹介なのだろう。叔父さんは嬉しそうに笑ってエミリオの肩を叩く。


「そうか、きっときみのことだな。最近よく遊んでくれてるんだろう? レオと仲良くしてくれてありがとうな」

「いいえ、俺の方こそ」


 普段外でにこにこ笑ったりしない叔父さんが、本当に嬉しそうにしている。その瞳が母さんの瞳とよく似ていて、少しだけ胸が温かくなった。


「きみのお陰でレオは早起きを習得してな」

「そうなんですか」

「ああ。俺のゴンドラを手伝う日以外は昼まで寝てるくらいだったからなぁ、信じられんよ。よっぽどきみに会うのが待ち遠しいんだろう」

「叔父さん!」


 朝の気まずさも、先程の温かさも吹き飛び、無意識に叫んでいた。さっと血の気が引いて、エミリオが朝と同じニヤケ顔をしていて、すべてを察する。


「それ朝も言ったんじゃないよね……?!」

「朝?」


 もちろん、叔父さんはエミリオの記憶が消えているから心当たりはないだろう。とはいえ、朝の会話でもこれと同じことをエミリオに言ったのは間違いない。ニヤケ顔がこっちを向いていて、顔が熱くなる。


「なんだよ照れるなって。俺も朝が待ち遠しいよ」

「うるさいな、待ち遠しいとかないから。叔父さんも変なこと言わないでよ」

「はは、悪かった」

 

 楽しそうに笑っている2人を見ていると、これくらいの羞恥はどうでもよくなってくる。エミリオと出会って少しずつ心が良い方向に向かっている自覚はあったし、叔父さんもそれを感じ取っている。だからこんなに嬉しそうなのだ。それはぼくへの同情心なんかではない。

 頭では理解しているのだ。叔父さんはぼくを心底大事に思ってくれている。そこから一歩遠ざかっているのはぼくの方だ。


「よぉ、レオ!」


 陽気な声にはっとすると、そこにはアントンとニコロがいた。意外な二人の登場に、目を丸くする。


「二人ともどうしたんだよ」

「ほら、お前が今日ここで抗議活動に参加するとか言ってたから。おれたちも行ってみようかなって。な?」

「そうそう。なんか楽しそうだったし」


 自分の行動が誰かに影響を与えることを目の当たりにして、少し感動していた。理由はなんであれ彼らの参加は心強いことには変わりない。


「それに、今日広場で色んな人とサッカーしたのが楽しくてさぁ。知らないやつ大勢となんかやるのもアリだなって」


 ニコロがそう言い、アントンも大きく頷く。そこでようやく二人はエミリオに気づいたようだった。ふらっと逃げ出そうとするヴァレンティノも見つけたので彼の手も引っ張る。


「あれ、今夜は別のやつも一緒だったのか」

「そう、エミリオだよ。こっちはヴァレンティノ。エミリオもリフティングうまいよな」

「そうなんだ? 今度ザノポロでやろうぜ」


 あれだけエミリオのスキルを褒めちぎっていたのに、すっかり忘れてしまっている。ぼくらは顔を見合わせて少し笑った。そこに切なさはなかった。まるで秘密を共有しているようだ。

 会話をしているうちにサンマルコ広場にはどんどん人が集まっていた。近くのカフェのテラス席からは、陽気なアコーディオンの生演奏が流れている。

 いつもは避けて通るこの観光名所が、この瞬間はぼくたちのためだけにあるように思えた。この街がいかに美しくて、かけがえのないものなのか。今ならそれもよく理解できる。


 ここは『ウニカ・チッタ』。唯一無二の都市なのだ。


 そして未来にこの景色を残すために、多くの声がこの広場を満たしていく―—。


「いい加減にしろ!」


 ふと、近くで大きな声がした。見ると、地元民と思わしき複数人の人々が、抗議活動のメンバーと睨み合っている。どちらも前のめりになっていて、ただならぬ雰囲気が漂っていた。




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