2
日も高くなり、広場に近くなるほど人が増えてくる。すれ違う観光客たちは楽しげで、いろんな言語が飛び交っている。人混みはもう見慣れたのか、エミリオは顔色変えずにさっさと歩いていく。
ようやくサンマルコ広場に出ると、一層賑やかな情景が広がっていた。朝の穏やかな路地とは異なる、ヴェネツィアの顔であり愛される場所。歴史的な建造物に囲まれ、荘厳さと陽気さが交わる唯一無二の場所だ。
ただ、いつもこの街を見守る我らがサンマルコ鐘楼は、今日もその姿を隠したままである。観光客の代わりに、抗議活動に参加する人々が小さな人だかりを作っていた。
「ヴェネツィアの象徴を守るため、よろしくお願いします!」
どうやら署名活動も行っているようで、近くを通る観光客に声をかけている様子が見えた。流暢な英語を使っているあたり、この問題を広く伝えたいという本気度が伝わってくる。最年少は十五歳だと聞いていたけれど、参加者は若い世代も多く見えた。夏休み期間だから、学生も参加しているのだろう。想像よりもレベルの高さを感じ、さっそく弱気になる。
「……ぼく英語得意じゃないんだよね」
「ゴンドラの手伝いで観光客と話してるんじゃないのか?」
「そりゃゴンドラのときはみんなご機嫌だし、ノリでなんとかなるレベルだから。あと、叔父さんがだいたい通訳してくれる」
「今回もその調子で行けばいいだろ」
「いやいや、ちゃんとどういう署名か説明しなきゃだろ……!」
急に慌てだしたぼくを、エミリオは呆れた顔で見つめる。だいたいどんな性格か分かってきたから今更驚きはしないけれど、彼は遠慮なくぼくの背中をぐいぐい押しだした。心の準備もさせてくれないらしい。
「俺たちも参加していいですか?」
よく通る声で、エミリオが声を掛ける。すぐにこちらに気づいた人々が気さくに手招きした。
「おお、よく来たね! そういえば昨日も若い子がひとり来たって聞いたけど、きみらのことかな?」
「あ、えっと……はい。たぶんぼくかな?」
「やっぱり! 大歓迎だよ! えっと……」
「レオナルドです。こっちはエミリオ」
「よろしくお願いします」
ひとり、という言葉から、やはりエミリオの記憶は消えているのは間違いないだろう。短い自己紹介を終え、活動家の一人が手にした署名を手渡す。
「今は署名活動をやっていてね。簡単に言えば鐘楼の工事予算増額と、工事延長について。地元の子なら知ってるだろうけど、どこも修繕費が間に合ってない現実があってさ。とはいえヴェネツィアの象徴すら簡易工事だなんて、この街の消滅に拍車がかかる。そんなわけで観光客にもこの現実を知ってもらうってのと、署名をお願いしてるってわけ」
受け取った署名用紙には、『ウニカ・チッタを、鐘楼を守ろう! Save San Marco Campanile!』と分かりやすいスローガンが書いてあった。ウニカ・チッタ……唯一無二の都市というフレーズはここではよく耳にするが、自分から発信したことはないので少し気恥ずかしさがある。
とはいえ簡潔に工事費のことや修繕期間の問題もイラスト付きでも載っていて、これなら見せただけである程度外国人にも伝わるだろう。しかし、こちらから踏み込まなければ署名は増えない。
「すみません、いいですか?」
ぼくが躊躇している間に、エミリオは簡単な英語で観光客に声をかけていた。もとから見た目は大人びているけど、同い年とは思えない理由はそれだけではない。また自分が情けなくなってくる。
工事用の養生シートに包まれた鐘楼を、ぼくは見上げた。彼を突き動かすのは、思い出せない約束なのかもしれない。とはいえ、この風景がなくなってほしくない想いもあるはずだ。だからこそ彼はこの街が好きだと即答するし、約束も未来も諦めていない。
ぼくもまた、きっかけはエミリオの祈りを——鐘楼の完成を避けることだった。ただ、百年前のエミリオが好きだというこの街のことを、本当の意味で愛しく思える気がする。閉ざされた教会の扉の前で歌うのは、もうやめたのだ。
こちらの様子を見ていた、外国人の家族連れと目があった。一瞬躊躇したが、勇気を出して一歩踏み出す。
「Please sign……! For Venice……!」
ゴンドラの上では、たとえ歌の調子が悪くたってなんともないのに。拙すぎる英語に顔が熱くなる。声をかけられた観光客は目を瞬いてお互いの顔を見合わせた。
ああ、何をやっているんだろう! 楽しい夏休みだっていうのに! 本当にそう思う。同時に、エミリオの悲しげな瞳が思い出された。無意識に息をのむ。
――そうか、本気なんだ。
いつものノリでなんとかならないと思うのは、本気で取り組もうとしているからなのだ。ぼくはもう一度、前に踏み出す。すると観光客たちは自らぼくが持っていた紙に目を落とし、こちらを見て笑顔で頷いた。
まずは父親が、そして母親がサインする。母親の手を引いていた小さな女の子も笑顔でこちらに手を伸ばしてくれた。さすがにサインはできなかったけれど、そんな女の子を両親たちは嬉しそうに褒めているようだった。
ぼくは慌てて感謝の言葉を伝える。感動して言葉を失っていたのだ。家族たちは最後に何か言葉をかけてくれた。聞き取れなかったけれど、その優しい響きは胸を熱くさせる。
ぼくは大きく息を吸い込み、ほかの外国人に声をかけに広場を歩いた。もちろん、不発に終わることも多かったけれど、気づけばひとつまたひとつと署名は増えていく。ぼくの意志と、それに答えてくれた意志の結晶だ。
「そろそろ休憩しようか」
声をかけられ、すでに二時間近く経過していたことに気づく。集まった署名を見返し、改めて胸が熱くなった。この気持ちをなぜかエミリオに伝えなくてはいけない気がして、彼の姿を探す。彼はちょうど集めた署名を回収してもらったあとで、こちらに歩み寄ってきていた。思わず駆け出す。
「見てた?」
勢いそのまま口走って、あまりにも子供っぽくて、少し恥ずかしくなる。けれど、エミリオはからかわなかった。目を細めて頷く。
「見てたよ。すごかった」
「あ、はは……エミリオに負けてられないからね」
素直に褒められたことが嬉しいのに、表に出す方法が分からず、ぼくは言葉を探すので精一杯だ。
「ふたりともありがとう。あ、そうそう、今度夜の広場で集会をやるんだけど、興味あったら寄ってみてよ」
一緒に署名活動をしていたひとりの男性がぼくらにチラシを手渡してきた。ちょうど来月にやる予定のようだ。夜のサンマルコ広場は一層幻想的だし、観光客も昼の予定を終えて足を止めてくれる人も増えるだろう。
「いいね。エミリオも一緒に行こうよ」
その言葉に、エミリオは少し顔を伏せた。ただそれは一瞬だけで、彼はすぐに笑って頷いた。少し気になったけど、訊ねる言葉が思いつかない。
「そういえば、エミリオの方はどうだったの。何か約束について思い出したことあった?」
「残念ながら。ただ、やっぱり鐘楼に関係するものだと思う。あれを見つめると、ほっとするような、それでいて少し苦しい」
「苦しい……」
鐘楼が完全に倒壊した百年前。当時奇跡的にも犠牲者はいなかったらしい。もちろん記録が全てではない。倒壊によってエミリオの大切な人が亡くなったとすれば、これが完成してほしくないと祈るのは筋が通る。……が、その祈りは約束を果たすためだと彼は言っていた。祈りの方ではなく、約束の方が重要なのだ。
「きっと思い出せるよ」
ぼくのその言葉は、エミリオよりも自分を励ますように聞こえた。とにかく、この工事が延長されれば、エミリオの時間も増える。もちろん工事期間にしか存在できないと決まったわけではないが、今はやれることをやるだけだ。
正午過ぎの時間帯であり、一旦家に戻ろうかと考えていたとき、視線の先に見覚えのある姿を見つけた。
「あれ、あそこにいるのって昨日のあいつだよね」
「ああ、ヴァレンティノくん……だっけ」
「そうそう」
ヴァレンティノの周りにはちょっとした人だかりができており、興味が湧いて近くまで寄ってみた。彼はスケッチブックを手に持ち、風景画を書いているようだった。
「え、うま」
思わず声が漏れ、それに気づいたヴァレンティノが振り返る。彼はぼくを見た途端顔をしかめた。
「お前、やっぱり昨日のやつか……さっきそこで署名活動してただろ」
「そう。なんだ、気づいてたなら声かけてくれてもいいだろ。そっちは絵書いてるだけ?」
「ふん、これも活動の一環なんだよ。こうやってパフォーマンスがあったほうが人も集まるから」
「確かに。めちゃくちゃ上手いな」
褒められることに慣れてないのか、ヴァレンティノは表情を変えないまま目を泳がせる。器用なのか不器用なのか分からない。そこでふとエミリオに気づいたのか、彼はまた警戒心全開で顔をしかめてくる。
「なんだよ、今日はひとりじゃなかったのか」
「いや、昨日もいたよ」
「はぁ? 絶対いなかった。人の顔を覚えるの得意なんだよこっちは」
改めてエミリオの記憶が消える事実を目の当たりにする。ぼくはエミリオを横目で見た。いつも通り涼しい顔をした彼に、少しだけほっとした。
「なぁ、ヴァルくんも来月の集会行くの?」
「は? 行くけどなに。ていうか、ヴァルって呼ぶな」
「ぼくらも行く予定だからさ。またよろしく。ぼくはレオナルドで、こっちはエミリオ」
「ええ……勝手にすれば」
昨日の威勢はどうしたというのだろう。ぼくはエミリオと顔を見合わせ、もう一度ヴァレンティノを見る。彼はまだ眉根を寄せたままだったけど、昨日のような敵意は感じなかった。
「ちゃんと本気だったんだな。悪かったよ、昨日あんなこと言って」
「え? いや、いいよ」
「……ふん」
それ以上ヴァレンティノは何も言わず、また絵を書き始めた。敵意はないが、話は終わりらしい。ただ、自分の行動を認められたことが嬉しく、それだけで十分だった。彼の描いているものがサンマルコ広場の景色だとそこで気づく。優しいタッチで描かれたそれには、不器用な彼に不釣り合いなほど優しさに満ちていた。
「やったな?」
エミリオが優しく声をかけてくる。ぼくの世界は、この不思議な少年によって少しずつ変わっていくようだった。嬉しいことなのに、どう伝えればいいか分からず、ぼくはただ頷いた。
「一旦家に戻ろうと思うんだけど、エミリオもおいでよ」
「ん……そうしたいけど、少し疲れたから今日はやめておく」
「大丈夫?」
「問題ないよ。今日は本当に楽しかった。ありがとう、レオナルド」
「いや、ぼくは何も……」
エミリオの微笑みがどこか悲しげで、ぼくは何も言えなかった。
「じゃあな、アッディーオ」
また、いつものように別れの言葉を囁いて、彼は去っていく。もう少しいてもいんじゃない? なんて言ってみたくなったけど、その理由はよく分からない。
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