3

 あれほど探し回ったことが嘘のように、あの路地にエミリオはいた。橋の手すりに背中を預け、ぼんやり空中を眺めている。色白の肌のせいか、目の下の赤みがくっきり見えた。先程は気づかなかったが、寝不足なのだろうか。


「なぁ、ほんとに何なんだよ」


 どう声をかけたものか分からず、とりあえず先程の文句でも伝えようと強気に切り出す。エミリオはそこでぼくに気づいたのか、はっとしたようにこちらを見る。少し表情が揺らいだような、不思議な感じだったけれど、彼はまた不敵な笑みを浮かべた。


「よぉ、遅かったな」

「あんたのせいだ」

「はは、楽しかったか?」

「まぁ、興味深い体験ではあったけど」


 何を素直に答えているんだと自分に呆れたが、エミリオの馴れ馴れしい態度のせいか、こちらも遠慮する必要はないような、そんな気になる。


「それで? どうしてここに呼んだの」

「うーん……どう伝えるべきか考えているところ。なぁ、さっきの活動家の中で俺を覚えているやつはいたか?」

「え? いや……」


 いきなり核心を突かれたような言葉に、ぼくはどきりとする。やはり広場で感じた違和感は本物だったのだろうか。返事に困っていると、彼はまたにやっと笑った。


「覚えてなかっただろ? あれが普通なんだ」

「い、いや、覚えてないのが普通じゃないでしょ。現にあのひとたちは、きみのことが見えていたし話もしていたじゃないか」

「その時だけはな。でも、俺は誰の記憶にも残らない存在なんだ。いや、そういう存在だと思っていたと言うべきか……」

「ええ? なんだか曖昧な話だなぁ」

「とにかく。俺はこの時代の人間じゃなくて、本当はここに存在してないってこと。ゆえに誰の記憶にも残らない」

「へぇ……今度はSFか」

「信じられないのは分かる。実際、俺もこの事象のすべてを理解してるわけじゃないから。ただ、数ヶ月前――気づけばこの時代にいて、誰かと関わりを持っても俺がそこを去った瞬間相手から俺の記憶はなくなる。その繰り返しの日々だ」

「ぼくは覚えているんですけど」

「そう。だから驚いてる。この数カ月の間、はじめてのことだ。だからここに呼んだ」

「なるほど……?」


 実際には何がなんだか理解できない。しかし、ここで初めて出会ったときに忽然と姿を消したことも、広場にいた人々がエミリオなんて最初からいなかったかのような態度だったことも、この話の裏付けに思えた。


「ん? 待ってよ、てことは……きみは誰の記憶にも残らないから、昨日ぼくにいたずらしたってわけ?」

「まぁ、そんなとこ」

「なんてやつだ」

「誰にも覚えてもらえない可哀想な子どもがやったことだろ。大目に見ろよ」

「それ自分で言う?」


 水路に落ちたことも、抗議活動に参加させられたことも、非難に値することなのに、なぜか怒りが湧かない。いたずらに変わりはないが、そこに悪意を感じないのだから、拍子抜けしてしまうのだ。


「とりあえずさ、自己紹介でもする?」


 ぼくの提案に、エミリオは目を瞬く。もちろん自己紹介以外に聞きたいことは山ほどある。ただ、目の前の少年は特に正体を隠す気はないようだし、ぼくもできれば落ち着いて話がしたい。


「エミリオだよ。昨日名乗っただろ。そしてお前はレオ」

「そうだけど。ぼくについては、おばさんが呼んだだけで名乗ったわけじゃない」

「律儀なやつ」

「というより、自己紹介したほうが仲良くなれそうだろ?」

「そう? まぁいいけど。俺はエミリオ。エミリオ・ゾルツィ」

「よろしくエミリオ。ぼくはレオナルド・マルチェッロ。ヴェネツィア生まれヴェネツィア育ちの十五歳。好きな食べものは叔父さんのペスカトーレで、嫌いなものは唐辛子。辛いものって悪だよね?」

「おしゃべりなやつだなぁ……。おこさま舌ってイメージはそのまんまだけど、まさか同い年とは」


 余計な言葉に少しカチンとくるが、咳払いして主導権をこちらに戻す。


「特技は……一応、歌うこと。昨日も良かったでしょ?」

「ビオンディーナの歌か。今も流行ってるのか?」

「流行りっていうか民謡だよ。めちゃくちゃ古い曲だし」

「ああ、この時代からすると大昔になるのか。俺は一九〇〇年代に生きてたから」

「せっ、一九〇〇年?! 百年以上前じゃん!」

「そうだよ。いま工事してる鐘楼が全壊した時代」

「え? 待って、鐘楼が崩れたって……一九〇二年?!」

「そう。十歳くらいの時だったかな。それはよく覚えてる」


 ネットで情報はあっという間に出せたけど、だからといってエミリオの話が事実になるわけではない。ぼくはスマートフォンと彼を交互に見る。


「それみんな持ってるけど、すごい時代になったんだな」

「た、タイムトラベラーってこと?」

「ああ、時間旅行とかいう作り話? まさか。ただ、俺も理解できてない。鐘楼が崩れて、工事が始まって、それで……」


 ふと、彼の表情に影が差す。それは見覚えのある悲しみだった。誰かを失ったとき、人はみんなこんな悲しみを纏う。


「俺は、あの鐘楼が完成してはいけないと思ってて……工事が終わらないようにと強く祈ったんだ。理由は思い出せない。けど、なにか約束を果たすための祈りだった。たぶん、それを果たすことがここから解放される唯一の方法だと思う」

「きみが元の時代に戻る方法ってこと?」

「さぁ……。実際、元の時代で死んで亡霊になったのか、それとも超自然的な現象に巻き込まれたかは分からない。でも、なんというか……どうしても果たさなきゃいけない約束なんだと、魂がそう感じてる」

「ふぅん。魂か……意外と信心深いんだね」


 ぼくの脳裏に、白い無機質な部屋に跪く、誰かの背中が見えた気がした。胸の奥の痛みを誤魔化すように、大きく息を吸う。


「ぼくは神様が嫌いだから、祈りを捧げるほどの約束なんてあまり想像つかないけど……。つまりきみは、その約束を果たすためにこの時代を彷徨っていると」

「ははぁ、分かりやすい思春期ってやつ? 神に好き嫌いなんてつけるかよ。ま、熱心なカトリックの家系だったのは間違いない」

「実際、その熱心な信仰心がこうしてきみを別時代に閉じ込めたわけだろ」

「信仰心というか……その約束を果たしたいという想い、か。ま、呪みたいなものなのかもな」


 エミリオは微笑んで、橋の下を眺める。終始取り乱さない彼は、言動と違って大人びて見えた。

 彼の言うことが全て本当なのかどうか、確かめる術はない。けれど、もし自分が知らない時代にただ一人残され、失われた約束を探し続けるとするならば――きっと気が狂うに違いない。

 いや……意外と楽しめそうな気持ちもあるけれど。とはいえ、その孤独がいつまで続くか分からないのは、恐怖以外の何物でもないだろう。それだけは分かる。


「よかったら手伝おうか?」


 思わず言葉に出していた。同情心なのか、好奇心なのかは分からない。とにかく、この時代の彼を認識できるのは今のところぼくだけなのだ。不思議な友人が増えるのは大歓迎だし、今は長い長い夏休みが始まったばかりなのだから。


「きみがそれほどまで果たしたい約束ってのも、気になるし」

「……そうか」


 エミリオはそう呟いたきり、また視線を橋の下に向ける。つられて視線を追うが、何もなかった。視線を戻すと、打って変わってこちらに微笑むエミリオがそこにいた。


「頼りにしてるよ、レオナルド」

「ああ……うん。じゃあ、早速始める?」


 また軽口を言うのだろうと思っていたから、面食らう。しどろもどろになっていると、エミリオはひょいと橋の手すりの上に飛び乗る。相変わらず身軽だ。


「いや、明日からにしよう。またここで待ってるよ」

「そう?」

「ああ。アッディーオ、レオ」

「ちょっと……!」


 昨日と同じように別れの言葉をささやき、彼はぴょんと水路に向かって飛び出した。慌てて駆け寄り、手を伸ばす。掴むものはないし、エミリオの姿もそこにはなかった。


 それでも――ぼくは彼を覚えている。不思議な友人エミリオ。明日から始まる不可思議な冒険を想像し、ぼくは笑った。





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