ヴェネツィアの亡霊

1

 目を奪われる、と言うのは、つまりこういうことなのか。


 この辺では珍しい、混ざり毛のない黒髪と黒い瞳。色白の肌に赤みのあるそばかすがよく映える。その容姿からして、十代くらいか。いずれにせよ、近い年齢だろう。

 観光客もまだ夢の中にる早朝の、穏やかな空気の中。叔父のゴンドラを動かしていたとき、狭い路地にかかる橋の上にいた彼に、文字通り目を奪われた。


「早いね」


 男の方もぼくを見ていたので、なんとなく声をかけてみる。彼は役者のように微笑んだ。


「お前こそ。観光客なんかまだ誰もいないぜ」

「ああ、これ練習してるだけ。ぼくゴンドリエーレじゃないんだ」


 落ち着いた雰囲気だったが、――人のことは言えないが――初対面に対しても馴れ馴れしいその態度が、彼をずいぶん幼く見せた。


「たまにゴンドリエーレの叔父さんの助手してるけどね。歌ったり、観光案内したり」

「へえ、じゃあ勝手に動かしてるのか」

「まあ、そういうこと」


 男は少し考えるように顎を撫で、ニヤリと笑った。


「乗ってもいい?」

「いいけど、運河には出ないからこの路地を行って戻るだけだよ」

「じゅうぶん」


 ふと、叔父であるイヴァンの怒り顔が見えたが気にしないことにした。ゴンドリエーレの資格はないからもちろん商売はしないし、誰かを乗せた方が雰囲気もあっていい。

 男は近くまでやってきて、ゆっくりゴンドラに乗り込んだ。想像したよりもずっと静かな揺れだった。ゆったりとしたシャツとパンツ姿から体型は読みづらいが、かなり軽いのかもしれない。

 座席に腰掛けるのを見届けて、岸から離れる。男の様子をじっと見つめていると、顔を上げた彼と目が会う。ぼくより先、彼は言った。


「ヴェネツィアには亡霊がいる」

「……なに?」


 容姿の良さからは想像がつかないオカルト発言――しまった、変人を乗せてしまったらしいと思うがもう遅かった。降ろしたくとも、岸を離れた今ではそうはいかない。


「亡霊だよ」

「いや、それは聞こえたけど。ここに亡霊がいるって?」

「最初からそう言ってる」


 馬鹿馬鹿しい話題を他人に振っておいて、男は半目になる。両眉をくいっと上げ、明らかに退屈だと言いたげな顔だ。


「ぼくは見たことないけど……まぁ、いたら面白いだろうね」


 これでも、ゴンドリエーレの助手で叔父さんから小遣いをもらっている身だ。多国籍な観光客を相手にしてきた経験は伊達じゃない。


「それよりもお兄さん。きみ、地元の人でしょ? なんでゴンドラに乗りたがるの?」


 さりげなく話を逸らしていく。我ながら、見事なトークスキル。愛嬌もあるし、観光客のウケもいい。持ち前の美声でサンタルチアを歌ってやれば、みんな大興奮。サンタルチアはナポリの歌だけど――客にとっては「っぽさ」があればなんでもいいのだから。


「驚かせようと思ってな」

「ぼくを?」

「ああ」


 何をするのかと身構えたが、そう言ったきり、男は黙り込む。穏やかに揺れる水面を眺めるその横顔が、ひどく悲しげに見えるのは気のせいだろうか。突然亡霊などと話しだした衝撃は、ヴェネツィアの透明な朝に消えていった。六月の、まだ温まる前の空気も、静かな水音も、どこか寂しい。


「何か歌える?」


 ふと顔を上げた男と目が合う。どきっとしたのは、彼の眼差しの方じゃなく、言葉の方だった。少し迷ったけれど、ぼくは笑って頷いた。

 喉の奥が苦しくなる感覚をやり過ごそうと咳払いをし――息を吸う。


「“ゴンドラに乗った愛しのブロンドさん。昨晩はぼくの腕の中”」


 ビオンディーナの歌を口ずさむ。金髪の女の子と甘い夜を過ごした、そんな歌詞。ぼくのゴンドラに乗るのは、黒髪のベッロ男前だけど。

 早朝だからいつもよりも声は控えめに。狭い路地にじっくり反響していくのが気持ちが良い。……が、すぐに胸が苦しくなってやめてしまう。

 短いフレーズしか歌えなかったけれど、男は意外そうに目を丸くしてぼくを見た。


「驚いた。うまいんだな」


 お世辞ではない驚きのこもった素直な感想に、少しだけ胸の痛みが引いた。歌を褒められるのは好きだ。


「レオ」


 ふと、頭上から声をかけられる。見上げると、建物の窓から見知った顔がにょっと現れた。住人のおばさんだった。


「いいねぇ、最高の寝覚めだよ」


 歌を聞かれたことに少しだけ胃が痛くなるのを感じたけど、すぐに微笑む。


「おはよう。いい朝だろ」

「偉いじゃないか、ひとりでゴンドラ漕ぎの練習かい?」

「そう。今日はベッロも乗せてるけど」

「はは、確かにあんたはかわいい子だよ」

「いや、ぼくじゃなくて……ええ?」


 思わず声が出た。

 目を離したのは一瞬だ。それなのに、目の前に座っていた男がいなくなっている。


「じゃあ頑張りなよ。観光客に、ベッロな見習いゴンドリエーレを教えとくからさ」

「あ、ありがとう。またね」


 おばさんは男の存在に気づいてなかったようだった。というより――元から存在しなかったのか?

 ぼくはゴンドラを岸に寄せ、座席の下や周囲を見渡す。黒髪のベッロと過ごした夢を見ていたのだろうか。まるで亡霊のように消えてしまった。


「こっちだ」

「うわ?!」


 突然真後ろで声がして、思わず短い悲鳴をあげる。反射的に振り向いたせいで、不安定なゴンドラがぐらりと傾いた。バランスを保とうとする努力も虚しく、突起物に足を取れ水路に頭から落ちた。

 水が思った以上に冷たく、良くも悪くも脳を覚醒させる。素早くゴンドラのヘリに手をかけ、上半身を引っ張り上げた。


「なかなか面白い反応だった」


 男はもといた席に座っていて、こちらを見ている。ふと、先程の会話が思い出された。


「きみが亡霊なの?」


 ぼくの中では、足がなくて透けてるイメージだったけれど、この不可解な事象から考えるに、彼は人間ではない。信じられないが、起きたことは事実である。


「そんなところかな。いい歌だったよ、ゴンドリエーレ」


 こちらに伸びてくる彼の手を取るべきか?

 まさか亡霊にされるのではないかと躊躇するが、水の冷たさから一刻も早く抜け出したい気持ちが勝り彼の手を取った。


「俺の名前はエミリオ。アッディーオさよなら、レオ」


 ぐっと引っ張られ、ゴンドラに這い上がることができた。思わず飲み込んでしまった水にえずいたものの、なんとか一息ついて顔を上げる。


 エミリオと名乗った男は、どこにもいなかった。




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