偽りの恋人協定 ~親友たちの両片思い、観察します~

タツキ屋

第1話

 桐生蒼士は人間観察を趣味にしていたわけではない。ただ、彼の視界に入る情報が、彼の意思とは無関係に分析され、カテゴライズされ、保存されていくだけの話だ。それは長年の習慣のようなものであり、もはや彼の思考プロセスそのものだった。


 五月の陽光が、教室の窓ガラスを透過して微細な埃をきらきらと乱舞させている。昼休みの喧騒は、様々な音の集合体として蒼士の鼓膜を揺らしていた。女子生徒たちの甲高い笑い声。男子生徒のくだらない冗談。弁当のおかずを交換する音。椅子を引きずる鈍い摩擦音。それら全てが渾然一体となり、教室という閉鎖空間の熱量を上げていた。


 蒼士は購買で買ったクリームパンの袋を無心で引き裂きながら、その視線を教室の一点に固定していた。彼の席は窓際の一番後ろ。教室全体を俯瞰するには最適なポジションだった。そして彼の視線の先、斜め前方四つ目の席に、すべての問題の根源が存在した。


 親友、相川樹。


 彼は今、ストップモーションのように動きを止めていた。手には昼食のパン。しかしその意識はパンにはなく、さらにその前方、教室の中央で友人たちと談笑する女子生徒の一団に向けられている。正確には、その中心で太陽のように笑う少女、早乙女琴音に。


 樹の視線は、獲物を狙う肉食獣のそれによく似ていた。だが決定的に違うのは、その眼差しに狩人としての気迫や獰猛さが一切含まれていないことだった。むしろそれは、ガラスケースの向こう側にある高級なケーキを、なけなしの小遣いを握りしめて見つめる子供の眼差しに近かった。渇望と、諦念と、ほんの少しの希望が混濁した、ひどく効率の悪い視線。


 蒼士はパンを一口かじり、咀嚼しながら観察を続ける。樹が動いた。ゆっくりと、まるで重力に逆らうかのように椅子から腰を浮かせ、一歩、踏み出す。目標は明確。早乙女琴音のいるグループだ。彼が普段、他のどんなグループに対しても行うように、気さくに話しかけ、輪に加わり、場を盛り上げる。タスクとしては単純明快なはずだった。


 だが、樹の足は二歩目で縫い止められたように止まった。琴音の隣にいた女子生徒が、不意に樹の存在に気づき、笑顔で手を振る。


「相川くん、次の体育、チーム一緒だよね。よろしくねー」


「お、おう。よろしくな」


 樹は途端に、いつもの彼に戻った。人好きのする快活な笑顔を浮かべ、ひらりと手を振り返す。その応答は完璧だ。非の打ち所がない。クラスの中心人物である相川樹の、パブリックイメージそのものだった。


 しかし、その完璧な応答こそが、今回のミッションにおいては致命的な失敗だった。その短いやり取りの間に、琴音は別の友人に話しかけられ、向きを変えてしまった。樹がアプローチすべき最適のタイミングは、完全に失われた。


 蒼士の視界の端で、樹がまるで空気が抜けた風船のように萎み、すごすごと自席に戻っていくのが見えた。その背中は、敗残兵のそれだった。彼は椅子に深く沈み込み、手の中のパンに、まるでそれが長年の仇であるかのような視線を落とした。


 蒼士は小さく、誰にも聞こえないため息を吐いた。


 非効率。あまりにも非効率が過ぎる。


 アプローチのタイミング、事前シミュレーションの欠如、そして何より、予期せぬ第三者の介入に対するリスクヘッジの甘さ。彼がもし、この一連の行動を何らかのプロジェクトとして評価する立場にあるならば、間違いなく最低評価を下していただろう。


 問題は、これがここ数週間の間、ほとんど毎日繰り返されているルーティンだということだ。樹は琴音に話しかけようとし、何らかの外的要因、あるいは彼自身の内的な要因によって失敗し、そして落ち込む。この負のスパイラルは、一体いつまで続くのだろうか。


 そもそも、蒼士には理解し難かった。相川樹という人間は、コミュニケーション能力の塊のような男だ。初対面の相手とも三十秒で打ち解け、老若男女を問わず誰からも好かれる。その彼が、なぜ早乙女琴音という特定の個人を前にした時だけ、これほどまでにポンコツと化してしまうのか。


 蒼士は残りのクリームパンを口に押し込み、思考を巡らせる。彼の思考は、常に物事の構造を分析し、原因を特定し、解決策を導き出すようにプログラムされている。恋愛という、彼自身が最も不得手とする非論理的な分野であっても、そのプロセスは変わらない。


 原因は何か。樹の琴音に対する過剰な意識。失敗への恐怖。自己評価の著しい低下。それらが複雑に絡み合い、彼の普段のパフォーマンスを阻害している。それは分かる。だが、その根本にあるものは何だ。


 昼休み終了のチャイムが鳴り響き、蒼士の分析は強制的に中断された。気だるい午後の授業が始まり、そして終わる。その間も、蒼士の頭の片隅では、親友が抱える問題に関する思考がバックグラウンドで処理され続けていた。


 放課後。弓道部の部活へ向かうため、蒼士が教室で着替えの準備をしていると、目的の人物が力なく近づいてきた。


「蒼士、今日この後、暇か」


 樹だった。その表情からは、昼休みの快活さは完全に消え失せ、代わりに湿っぽい悩みの色が滲み出ている。


「部活だ」


「だよな。終わってからでいい。ちょっと付き合ってくれ」


 その声には、断られることを想定していない、親友だからこその甘えと切実さが同居していた。蒼士は特に異を唱えることもなく、短く頷いた。どうせ、話の内容は分かりきっている。


 弓道場に響く、弦音。的に中る乾いた音。蒼士は雑念を払い、一射一射に集中した。彼の精神は、弓を引き絞るこの瞬間だけ、完全な静寂と秩序を取り戻す。ここでは全てが論理的だ。正しい姿勢、正しい呼吸、正しい精神。それらが揃えば、矢は自ずと的に吸い込まれていく。実にシンプルで、美しい世界だった。


 それに比べて、樹が持ち込もうとしている世界は、どれほど複雑で厄介なことか。


 部活が終わり、道着から制服へと着替える。夕暮れの光が差し込む部室で、蒼士は黙々と帰り支度を整えた。隣では、樹が何か言いたげに口を開いたり閉じたりしている。


「で、話とは何だ」


 蒼士が先に口火を切ると、樹は待ってましたとばかりに食いついてきた。


「なあ、蒼士。どうしたらいいと思う」


 主語も目的語もない、漠然とした問い。だが、蒼士にはその問いが何を指しているか、正確に理解できていた。


「状況による。何についてだ」


 分かっていながら、蒼士はあえて問い返す。問題解決の第一歩は、当事者による現状の正確な言語化だ。


「決まってんだろ。早乙女さんのことだよ」


 樹は観念したように、部室の長椅子にどかりと腰を下ろした。


「今日も話しかけようとしたんだ。でも、ダメだった。あいつを目の前にすると、なんか、頭が真っ白になんだよ。何を話せばいいのか、全然分からなくなる」


「普段のお前は、話すことなど考えずとも口が動いているように見えるが」


「うるせえ。それができねえから困ってんだよ」


 樹は頭を抱え、深くため息をついた。その姿は、いつもの明るい彼からは想像もつかないほど、弱々しく見えた。


「俺、あいつに嫌われてんのかな」


「その仮説を裏付けるデータはない。むしろ、お前が他の女子と話している時、彼女がお前を見ている頻度は統計的に見ても高い。その際の表情も、敵意や嫌悪を示すものではない」


「ほんとかよ」


「俺の目が捉えた事実だ」


 樹の表情が、わずかに明るくなる。しかしそれも束の間、再び深い曇りに覆われた。


「でも、だとしても、だよ。早乙女さん、きっと俺みたいなタイプ、好きじゃないんだよ」


「なぜそう結論付ける」


「だって、あいつ、すげえちゃんとしてるじゃん。真面目で、優しくて、誰にでも気配りができてさ。俺みたいなお調子者で、うるさいだけの奴、眼中にもねえって」


 致命的な自己評価の誤りだ。蒼士は内心で断定する。樹の長所である明るさやコミュニケーション能力を、彼は琴音の前では短所として認識してしまっている。これでは、うまくいくものもいかなくなるだろう。


 そして樹は、決定的な一言を口にした。


「早乙女さんにはさ、多分、蒼士みたいな奴がお似合いなんだよ」


「……俺?」


 予想外の角度から飛んできた名前に、蒼士は思わず眉をひそめた。


「そうだよ。クールで、落ち着いてて、何考えてるか分かんないとこ、ちょっとミステリでさ。それに弓道やってる姿、めちゃくちゃかっこいいし。女子が絶対好きなタイプだって」


 樹は、本気でそう思っているようだった。その瞳には、蒼士に対する尊敬と、自分にはないものを持つ者への羨望が混じっている。蒼士は、親友からの過剰な評価に、居心地の悪さを感じた。


「その分析は間違っている。俺はお前が言うような人間ではない」


「またまた。謙遜すんなよ。お前、モテるだろ、実際」


「自覚はない」


 それは事実だった。他人からの好意という、数値化も論理化もできない感情は、蒼士にとって常に観測範囲外のノイズでしかなかった。


 だが、重要なのはそこではない。問題は、樹が「早乙女琴音は桐生蒼士のような男がお似合いだ」という強固な思い込みに囚われていることだ。この幻想が、彼の行動を著しく制限し、自己評価を不当に貶めている。これが全ての元凶だった。


 このままでは、埒が明かない。自然な解決など、未来永劫訪れないだろう。


 ならば、外部からの、強力な介入が必要だ。


 蒼士の中で、カチリとスイッチが入る音がした。それは、解けない問題に直面した彼が、思考のフェーズを「分析」から「実行」へと切り替える合図だった。


 どうすればこの膠着状態を打破できるか。樹を直接励ましても効果は薄い。琴音の気持ちを探って伝えても、今の樹にはプレッシャーになるだけだろう。根本的な原因、つまり樹が抱く「幻想」そのものを、現実によって破壊する必要がある。


 彼がお似合いだという桐生蒼士が、手の届かない存在でなくなればいい。具体的には、特定の誰かのものになれば。その事実を樹の目の前に提示すれば、彼の幻想は拠り所を失い、崩壊するはずだ。


 そのためには、信頼できる協力者が不可欠だった。


「樹、お前の問題は分かった。少し、考えておく」


 蒼士はそれだけ言うと、帰り支度を終えたバッグを肩にかけた。樹は、蒼士の言葉の真意を測りかねて、何か言いたげな顔をしていたが、結局何も言えなかった。


 バイク置き場へ向かう夕暮れの道。蒼士は思考に没頭していた。作戦の成功確率を上げるには、どうすればいいか。協力者との連携は密にする必要がある。そのためには、まず相手にこちらの意図を正確に伝え、利害の一致を確認し、強固なパートナーシップを築かなければならない。


 作戦のパートナーとして最適な人物は誰か。琴音側の内部情報を持ち、彼女の恋を応援しているであろう人物。答えは一人しかいなかった。


 思考がそこまで至った時、彼の視界が、探し求めていた人物を捉えた。


 校門の近く。茶道部を終えたのだろうか、凛とした立ち姿で、誰かを待っているらしい女子生徒が一人。


 小野寺栞。


 早乙女琴音の、一番の親友。彼女こそが、この作戦に不可欠な最後のピースだった。


 これは、千載一遇の機会だ。


 蒼士の思考は、即座に行動へと繋がった。彼は隣を歩く樹に、一言だけ告げる。


「樹、先に帰ってろ。用事ができた」


「え、あ、おい、蒼士?」


 戸惑う親友の声を背中で聞きながら、蒼士は迷いのない足取りで、目標へと向かっていた。普段の彼であれば、特に用事もない女子生徒に自ら声をかけるなど、天地がひっくり返ってもあり得ない行動だった。だが今は、作戦遂行のためだ。個人的な感情や躊躇は、一切介在しない。


 数メートルの距離が、あっという間にゼロになる。


 蒼士の接近に気づいた小野寺栞が、少し驚いたように、大きな瞳をこちらに向けた。その表情の微細な変化を冷静に観察しながら、蒼士は立ち止まり、計画の第一歩となる言葉を、静かに、しかしはっきりと口にした。


「小野寺、少し時間いいか。お前の親友の件で話がある」


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