走れメロス外伝 慈悲と厳格のディオニス王

霧島猫

もう一つの結末


余はディオニス。シラクスの王として、永きにわたりこの地を治めてきた。しかし、余の心は絶えず疑いに満ちていた。人間は裏切る。友情も、愛も、すべては脆く、信ずるに値しない。ゆえに、王として法と恐怖をもって国を統治してきた。余の心を閉ざしたのは、数々の裏切りと、そしてこの孤独だった。


そんなある日、一人の男が余の前に現れた。その名はメロス。純朴な男は、余の圧政を非難し、暗殺を企てた。捕らえられたメロスは、妹の結婚式に出るため三日の猶予を求めた。そして、友のセリヌンティウスを人質に差し出し、必ず戻ると約束した。


余は嘲笑した。三日後に戻るなど、ありえない。人間はみな己の命が一番だ。だが、もし戻らなかったら、その友を処刑するという約束を交わした。メロスの無謀な賭けは、王の疑心をさらに深めた。余は彼に猶予を与え、静かに待った。


三日目の夕暮れ、嵐が去り、夕陽が空を染める頃。刑場に集まった群衆は、みな諦めの色を浮かべていた。余もまた、そうだった。だが、その時、遠くから男の声が聞こえた。「待て、王よ!」


それはメロスだった。傷だらけになりながら、約束を果たすため、地獄のような道を走り抜いて戻ってきたのだ。余は信じられない思いで、その姿を見つめた。メロスはセリヌンティウスの前に崩れ落ち、二人の友は互いを抱きしめて涙した。


「約束通り、わたしは戻ってきた!」


メロスはそう叫び、余に言った。「さあ、好きに処すがいい!」彼の言葉は、命乞いではなかった。それは、自らの信義を守り抜いた男の、誇りに満ちた言葉だった。余は、何十年も忘れていた感情に、胸を揺さぶられるのを感じた。


メロスを前にして、余は迷った。余の側近たちは、皆、口々に私を止めた。「陛下、この男を処刑してはなりません!」「彼の信義は、民に希望を与えました!」「慈悲をもって許してこそ、真の王の器です!」


彼らは、メロスを許すことが、王の統治をより偉大なものにすると説いた。しかし、余には別の懸念があった。メロスは、一度は王を暗殺しようとした暴徒だ。もし彼を許せば、法の権威は失墜する。民は法が王の気まぐれで曲げられるものだと考え、秩序が乱れるだろう。第二、第三の暗殺者が出るかもしれぬ。


「法を軽んじれば、この国は瓦解する。この男を処刑せねばならぬ!」


余はそう叫んだが、我が心は、メロスとセリヌンティウスの友情に強く惹きつけられていた。閉ざされたはずの心が、微かに温まるのを感じる。余は、この感情の正体がわからなかった。それは、余がこれまで信じてきた「疑心」という信念とは、真逆の感情だったからだ。


余は民衆に問いかけることにした。この決断は、王一人のものではない。余の治めるこの国の行く末を決める、重要な選択だ。


「この男、メロスは、慈悲をもって許されるべきか。それとも厳格な法に基づき処されるべきか!」


民衆の声は、二つに割れた。地位や財産のある者たちは、声を揃えて「処刑せよ!」と叫んだ。彼らは、自らの安寧を法に委ねていた。法の秩序が乱れることを何よりも恐れたのだ。一方、貧しい者たちは、涙を流しながら「許してあげてください!」と懇願した。彼らは、メロスとセリヌンティウスの友情に、希望を見出していた。彼らにとって、メロスの帰還は、生きるための光だった。


民衆の声を聞き、余はさらに迷った。法を重んじる者たちの声も、慈悲を求める者たちの声も、どちらも王にとっては真実だった。余はこの二つの矛盾する声に、どのように応えればいいのかわからなかった。


王はある決意を固めた。


「処刑人よ、剣を余に渡せ。この男は、王自らの手で処刑する。」


処刑人は驚き、余に剣を手渡した。冷たい重みが手に伝わってくる。私は、何年も触れていなかった剣を、しっかりと握りしめた。メロスは、私の言葉に動じることなく、ただ静かに跪いた。その首は、高く掲げられ、私の剣が届く距離にあった。処刑人が動かぬよう彼の左腕を抑え、余は剣を振り上げた。


民衆は息をのんだ。セリヌンティウスは、顔を覆い、涙を流した。余は彼らの視線を感じながら、剣を振り下ろした。


ガシャリ、という音と共に剣先は地に触れた。いや、剣は落ちてはいない。剣はメロスの左腕を切り落とし、その血が地面を濡らした。


余は、息をのんだ民衆に向かって、高らかに宣言した。


「ふははは、久々に剣を振るったせいで、左腕しか切れなかったか。まあよい。王を刺そうとした腕は処刑した。これにてメロスの処刑は終了とする。」


民衆は、余の言葉に、一瞬呆然とした。しかし、やがてそのどよめきは歓声へと変わっていった。歓声は、処刑を望んだ者からも、慈悲を求めた者からも上がっていた。


「罪は罰するが、信義は讃える!」


私はそう叫んだ。王の声は、シラクスの空に響き渡った。


メロスの罪を犯した左腕は、法に従い処刑された。しかし、彼の命は救われた。それは、彼の信義が、法よりも価値あるものだと認めた余の裁きだった。王は恐怖で民を支配するだけでは、真の王国は築けないことを知った。信義と信頼こそが、真の力なのだと。


左腕をきつく縛ったメロスとセリヌンティウスは、再び抱き合った。彼らの友情は、余に、そしてこの国に、新たな希望の光をもたらした。王は閉ざしていた心を開き、民衆の歓声に応えるように、ゆっくりと微笑んだ。


余はディオニス。疑心に満ちた暴君から、慈悲と厳格を兼ね備えた新たな王として、この国を治めていくだろう。この日シラクスの夜空は、満天の星が輝いていた。


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走れメロス外伝 慈悲と厳格のディオニス王 霧島猫 @nakata_san

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