祈り
俺の脳は焼かれている。
幼い頃から、実家は新興宗教にハマっていた。事あるごとに、会合や布教に連れ出されていた。両親もそこで知り合って結婚したらしく、親戚中がどっぷりだった。おかげで、俺の身の回りはそれで埋め尽くされていた。部屋には教祖の写真が飾られ、よくわからないデカい祭壇と教典があるのが普通だった。信心があることを言えば、親は俺を褒めてくれたので、過ごしやすくするには信じることが優先された。幼い頃から自然と洗脳されていったのだ。疑うこともできなかった。
大人になり、自分の環境が普通の家庭と違うことに気づいた。世間と自分の温度差に気づいた時には、もう抜き差しならなくなっていた。自分に信じないという選択肢がなかったのかと思う頃には、そのコミュニティの中でしか生きられなくなっている。生きやすくするには、信者を増やして仲間を作るほうが手っ取り早かった。先輩にもなれるし、年齢も立場も上がってきていたからだ。その新興がカルトであることに気づいていたが、どうにもならなかった。教祖の愛人問題やその跡継ぎの権力争い、指導者たちの間の立場の奪い合い。そこに神様がいるわけないと、洗脳された俺でさえ気づいた。
そして、俺は25歳になった10年前、なんとかそこを抜け出す決心をした。宗教にまつわる家族、親戚、友人と縁を切るため、黙って一人暮らしを決断した。教団は家族ぐるみで活動をさせたかったらしく、一族が近場に集まることを強要していた。中での立場が深くなるほどそれは強烈になり、学校や職場、付き合う女性にまで団体の指示が飛んできた。周りは、抜け出そうとするやつを必死に説得し始める。逃げ切るには、黙って実行するしかなかった。
俺はなんとか逃げ切ることに成功した。何箇所か引っ越しを繰り返し、親や親族、友人からどうにか逃げ切れた。
俺は今、そこから遠く離れたC県K市のマンションに住んでいる。マンションと言っても築年数も古く、団地だと思ってもらって差し支えない。中庭はあるが管理はずさんで草が生い茂っているし、廊下と階段の電気はいつも切れかけていて暗い。普通なら、こんなところに住みたいとは思わないはずだ。しかし、宗教にどっぷりだった俺はそこのことしかわからず、まともな仕事もできなかった。信者以外は罪人と言われてきたのだ。今さら周りの人間を信用することも難しい。誰とも関わらなくていいように、今はラブホテルの清掃員の仕事をしている。大体は一人でできるし、自分の履歴書を見ても人材不足だったので、すぐに雇ってもらえた。そして、そんな俺の給料でも住めるのが、今のところだった。
俺が住む前、その部屋のトイレで自殺者が出たとかで、相場の4分の1で住めるのだから、という理由で住むことに決めた。おかげで今の給料でもそこそこ余裕のある生活ができている。
仕事の帰りにマンションの中庭を覗いていると何人か人が集まっているような気がした。よく見てみるとそこで白い服を着て円陣を組んでいる。“ニーオーンヤーマゥ゙ベイールゥ”、漏れ聞こえて来た声は俺がよく聞いていた教典の祈りだった。それを聞いた俺は思わず階段を駆け上がった2階に上がり、自分の部屋の鍵を開けた。俺の部屋は204号室とだけは書いてあったが苗字も名前も書いてないので、もし、勧誘に来ても居留守を使えばやり過ごせるはずだ。ギィギィする建て付けの悪い玄関を開けてすぐに鍵をかけた。俺は扉にもたれかかり、息を切らしている。今は電気も付けられない。奴らの布教の仕方は独特で集団で祈りを捧げながら歩き布教をする。住人の勧誘をしている時は住人と話してる者以外はずっと祈りを捧げているのだ。当時は不思議ではなかったが今考えると不気味でしかない。祈りの声は徐々に近づいてくる。俺の心臓はバクバクと早鐘のように鳴っている。“ニーオーンヤーマゥ゙ベイールゥ”遠くから祈りの繰り返す聞こえてきた。この祈りの言葉は教祖が神から教わった教祖にしかわからない言語らしい。意味は、もう忘れた。どうせ家内安全か商売繁盛とかの類で大した意味はない。そして、その声はとうとう俺の部屋の前まで来たようだ。俺は居留守を使うため声をひそめた。真っ暗な部屋の中で玄関の扉にもたれているが今動くわけには行かない。心の中で必死に行ってくれと願った。皮肉なことにそれを神様に願いたい気持ちだった。しかし、何分かは玄関の前にいたようだったが、その集団は俺の部屋をノックもせずに移動していく足音が聞こえた。徐々に声も遠ざかるだろうと思ってドアに耳を当てて聞いていた。
そして、俺は今気づいた。祈りはこの部屋から聞こえている。
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、その他のコミュニティとは一切関係なく、暴力や自殺を推奨するものではありません。
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