【第2部】県道241号線 ―還ル森―【3話】
霧島沙耶の遺留品として警察が保管していたノート。
私は特例で閲覧許可を得て、その写しを持ち帰った。
ページの端には、薄く鉛筆で描かれた地図があった。
ぐにゃりと歪んだ等高線のようなもの。
そして、赤いペンでひと筋の線が引かれている。
「241」
地図の中央、山の稜線を斜めに横切るその赤い線は、途中で途切れ、再び少し離れた場所から始まっている。
まるで――
“道そのものが、ちぎれて動いている”ように。
ノートの端には、霧島らしからぬ乱れた筆跡。
「道が動く。
私が描くと、位置がずれる。
ちゃんと見てる。
……楓、来ないで。」
私はページを閉じた。
手の平が汗ばみ、ノートの紙が湿る。
斎藤編集長に地図を見せると、彼は額に手を当てるようにして小さく呻いた。
「……沙耶はな、失踪する直前、地図を何度も書き直してた。
何回描いても、朝になると“別の形”になっていると言っていた。」
「誰かが書き換えてたんじゃなくて?」
「いや、机は施錠されていた。
監視カメラにも誰も映っていなかった。」
斎藤は続ける。
「ある晩、沙耶は言ったんだ。
“あの道は、見てる。私たちが描く形を、嫌がってるように見える”って。」
まるで、道そのものに意思があるような発言だった。
「怪異……。何かに取り憑かれているんじゃ……?」
私は震えながら、ノートの“241”の文字を指でなぞった。
「これ……本当に、霧島さんの字ですよね?」
「間違いない。」
霧島沙耶は、生きていたのだ。
ただし、“まだ人間の霧島沙耶として生きているかは分からない”。
6月某日
私はついに県道284号線が“現れた”と推測される地点へ向かった。
南条(映像ディレクター)と助手の由良と三人。
GPS座標・霧島の映像の背景・古地図を照合した結果、
最も不自然な空白地帯に辿り着いた。
午後3時。
霧が低く垂れ込めている。
風が吹いているのに、木々が揺れない。
南条がカメラを回しながら呟く。
「……音が、しない。」
確かに、鳥の声も虫の声も、車の音も、
風が草を鳴らす音すら聞こえない。
世界が“ミュート”されているようだった。
そして、私の足元に……
一本の赤いガードレール片が落ちていた。
錆びているのに、なぜか触ると冷たくない。
むしろ、人の体温に近い。
“鼓動”すら感じる気がした。
その瞬間、由良が叫んだ。
「楓さん、見てください!」
彼女が指差した方向。
霧の向こうに、ほんの瞬間――
赤い線が横切った。
ガードレールだ。
だが、次の瞬間には消えていた。
南条がカメラを回す。
しかし映像には何も映らない。
「……霧島さんも、こんな感じだったんだろうか。」
私は無意識に呟いた。
そして。
足元の土に奇妙なものを見つけた。
足跡。
女物のブーツの跡。
霧島がよく履いていたタイプに酷似している。
だがその足跡は――
“前に進んでも戻っても、どちらの向きにも辿れない”。
足跡同士が、
すこしずつ
位置を
ずらしている。
まるで誰かが歩いた瞬間に、
足跡自体が「別の位置」に書き直されているかのようだった。
そのとき。
風もないのに、ガードレール片が「カンッ」と音を立てた。
偶然ではない。
二度、三度、規則的に。
まるで合図のように。
南条が言った。
「これ……さっきからだ。
楓さん、聞こえませんか?
誰かが……呼んでるような……」
私は聞こえていた。
ガードレールの音に混じって、
女性の声がかすかに。
「……楓……」
「……こっち……」
風ではない。
幻聴でもない。
“方向を持った声”だった。
それは明らかに――
霧島沙耶の声だ。
時計を確認した。
午後3時17分。
私は足跡をカメラで撮影し、
わずかに目を離した。
次に時計を見ると、
午後3時17分のまま針は動いていない。
だが、私たちの立ち位置は変わっていた。
南条も、由良も気づいていた。
「……あれ、私たち……さっきより木が近くないですか?」
由良の声は震えていた。
確かに木々の位置が変わっている。 私たちが移動したのではない。
周囲の森の方が、僅かにこちらへ寄っている。
足跡は……もうなかった。
南条が声を上げた。
「楓さん!あれ……!!」
霧の向こう――
“何かの影”が一瞬だけ浮かんだ。
女の後ろ姿だ。
白い服、長い髪。
霧島沙耶に酷似している。
私は叫んだ。
「霧島さんっ!!」
その瞬間――
霧が、風もないのに「ざわっ」と揺れた。
影がゆっくりとこちらを向く。
しかし、顔は見えない。
霧の中に沈んでいる。
そして影は、手を上げた。
手招きの動作。
不自然なほどゆっくりと。
次の瞬間、霧の向こうに赤いガードレールが太く浮かび上がった。
まるで“境界が開いた”ように。
楓の手記(当夜)
霧島さんを見た。
確かに見た。あれは霧島さんだった。
でも、なぜか “顔だけが思い出せない”。
姿も、声も、手招きの仕草も覚えているのに……
彼女は私を呼んでいた。
呼びながら、距離を詰めようとしていた。
あの境界の先に行けば、きっと会える。
だけど、南条と由良が言った。
「楓さん、あなた……誰に向かって喋ってるんですか?」
私は確かに霧島沙耶を見ていた。
彼らには見えていなかった。
なのに――
カメラには、その“手招きの影”が
はっきりと映っていた。
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