第19話 虹をみたかい

 桜の親権変更調停も進んでいた。たびたび大阪家庭裁判所まで出向いた。僕は弁護士を雇っていた。カヤは自力で調停員と交渉をしていた。通常、子どもの親権は母親が圧倒的に強い。子どもが小さいうちは、父親が親権を取れることはまずない。余程の母親からの虐待やネグレクトがない限りは、母親の親権の方が強いのだ。


 それでもカヤの奇行とエキセントリックで短気な性格が、調停員の度肝を抜いた。交代で調停員と話すのだが、カヤのあとは調停員が疲れ切っていた。「常識が通じない」とぼやきが出たくらいだった。僕の常識とカヤの常識は、やっぱり別次元のものだったと、他者を通じて知ることができた。カヤの自爆もあって、桜の親権は僕に変更されることとなった。


 自宅の明け渡し請求も勝利した。これにはカヤも弁護士を立てていたが、この弁護人がアホだった。少しカヤがかわいそうになるくらい、アホだった。計算間違い、誤字脱字ばかりで、それをこちらの弁護士に毎回指摘されていて、本当に哀れだった。


 調停や裁判のあとは、近くの大阪城に毎回寄った。大阪城の敷地内を探索するのが好きだった。多くの中国人がいた。みんな声が大きく、元気だった。


 一人でうろうろしているのは僕くらいだった。少し寂しさを感じた。


 桜の親権と自宅を取り戻したので、それまで住んでいたURのマンションから引っ越しをした。またこの家で住むことが感慨深かった。


 そして、猫を一匹譲り受けた。


 桜は中学校を卒業して、春から通信制の高校に在学していた。家庭のいざこざもあり、メンタルを病んでいたので、ペットセラピーとなると思い、以前同じ職場にいた、猫を多頭飼いしていた女性に頼んで仔猫を譲ってもらった。


 もっと早くに猫を飼いたかったのだが、賃貸マンションでは飼うことができなかったのだ。もっとも、内緒でペットを飼っている住人はたくさんいて、マンション敷地内のスーパーにペット用品が豊富に陳列されているくらいだった。


 仔猫が自宅にやってくる日、「姉と一緒に行ってもいいですか?」と訊かれた。


 確か彼女は双子だったよな、と思い出した。双子といえば村上春樹の『1973年のピンボール』に出てくる、208と209の番号が書いてあるトレーナーを着た双子だ。そのシチュエーションに少しだけわくわくしながら、彼女達を迎えた。


 生後半年くらいの雌の三毛猫だった。初日から僕と桜にもすぐに慣れてくれた。


「かわいいでしょう?」元同僚が言った。


「とても大人しいんですよ」双子の姉が言った。


「「かわいがってあげてくださいね」」二人が同時に言った。


「流石双子だね。感動する」僕が言った。


「「そんなことないですよ」」


 桜がその猫にナナと名付けた。桜が好きな超歌手大森靖子のマスコットキャラから拝借した。桜の日常のお世話に加えて、猫のナナのお世話も増えた。


                  *


 直子にフェイスブックのDMを送ってから、一年が経過した。


 僕はそれまで何度も自分が送ったDMを読み返していた。もう少し文章を吟味してから送るべきだったとか、俵万智の短歌の答え合わせも聞きたかったとか、あとからあとから気持ちが溢れてきた。でも、再び掘り返すのは粋ではないと思っていた。


 しかし、ある日僕はそのDMの違和感に気が付いた。既読になっていなかったのだ。理由はわからないが、直子にこのDMは届いていなかったことに気が付いた。

それで気持ちが再燃した。また、直子の情報を探した。そして直子もインスタグラムをやっていることを発見した。


 温泉をメインにしたアカウントだった。たまに温泉について直子が話していたことはあったけれど、これほどまでにマニアックな温泉好きだとは知らなかった。直子の地元の温泉から、全国の有名処の温泉まで網羅していた。成分表まで記載があって、かなり本格的なポストだった。読んでいると温泉に入りたくなる文章だった。


 しばらくはそのポストを読んでいるだけで幸せだった。だって直子が書いた文章と、直子が撮った写真だもの。僕にとっては聖書だった。


 直子の娘の後ろ姿の写真もあった。まだ小学生だろうか。だとすると出産は三十歳くらいだったのだろうか。直子の人生に想いを巡らすことは楽しかった。僕の知らない直子の空白の時間が少しずつ埋まっていった。


 僕は我慢できずに直子のインスタグラムのポストにいいねを押した。


 それにしても一年前のフェイスブックのDMが読まれていないことがショックだった。もともと受信できない設定だったのかもしれないと思った。それで今度はインスタグラムからDMを送った。


「ご無沙汰しております。宮本誠です。覚えていますか?」 


 また短めで送った。でもまたなんの返事もなかった。


 直子の真意がわからなかった。無視されるような間柄ではなかったはずだった。


 僕は大いに傷ついた。長い年月、探し求めていた直子にやっと接触できたのに、なんのリアクションももらえなかったのだ。


 それどころか、客観的且つ一般的に考えると、完全に僕はストーカーだった。それが悲しかった。今どきは一途とかピュアとかプラトニックという表現は死に絶えていたからだ。現実は厳しい。自分の境遇から逃げたいあまりに、直子に幻想を抱いていただけだったのかもしれない。


 実際に直子の夢はよく見るようになった。


 いつもの学校で、いつもの廊下で直子とすれ違う。すれ違う瞬間、僕はわざとよそ見して直子に気づかないふりをする。直子から声をかけてほしかった。ちょんちょんと肩を叩いてほしかった。でも、夢の中の直子も、友達と一緒に楽しそうに笑いながら僕のほうを見ずにすれ違った。


 毎回同じ夢だった。あまり同じ夢ばかり見るので、今度こそ直子に話しかけるんだと、夢から覚めるたびに思うのだが、愚かな僕は過ちを繰り返した。


 偶然街で直子と出会うような奇跡を僕は待っていた。それでも現実は、京都太秦で偶然にお客さんに会ったり、梅田の動く歩道で知り合いの司法書士に会ったり、自宅近くのコンビニで中学の同級生に会ったりしただけで、相手が直子ではなかったことが悔しかった。


 しかし、奇跡的なことがおきた。


 二〇一九年七月二十二日、午前十時、職場から営業車に乗るために駐車場に向かって歩いていた。職場から駐車場まで約一六〇メートル。駅も近いのでいつも何人もの人とすれ違う。


 そのときもいつものように前方だけを見て、午前の予定を反芻しながら歩いていた。前方から仏陀のような男が歩いてきた。袈裟を着ていたわけではない。


 その男は黒いスキニージーンズ、白いスニーカー、白い薄手のぴったりしたパーカーを着ていた。そしてその目が半眼で悟りを開いたような穏やかな顔つきだった。


 普段僕は他人の姿をじろじろ見ない。道でお客さんや知人とすれ違っても気づかないことが多いのだ。でも、後光の射す、その男をじっと見つめざるを得なかった。


 直子のお兄さんだった。間違いなく直子のお兄さんと豊中市曽根東町ですれ違った。


 すれ違ったあと振り返ってその後ろ姿まで目に焼き付けた。お兄さんはほっそりとした女性と一緒だった。お兄さんのフェイスブックで見たことがある。確かお兄さんのいとこで仕事仲間でもある人だった。


 彼女の方がヒーリングセラピーの師匠のような存在だったはずだ。彼女はサングラスをかけていてミステリアスで、背筋をぴっと伸ばしていて姿勢がよく、正しいことしかしないようなオーラがあった。


 駐車場の営業車に乗り、しばらくは呆然としていた。十時三十分までに庄内の銀行に行かなければならなかったが、余韻に浸りたかった。


 直子のお兄さんだった。間違いない。流石、直子のお兄さんだ、実物も男前だった。インスタやフェイスブックから察するに、多分独身だけど、なんでだろう? 普通にモテそう。しかし、俺もよく一発でわかったな。あの自然食品のお店に入っていきはったな。結構高いのにな。食へのこだわりがあるんだな。それにしても、これは間違いなくサインだ。まだ俺と直子は繋がっているんだ。それを信じてもいいし、信じなくてはならないんだ。


そして再び直子のインスタグラムにDMした。


「今日偶然にもお兄さんをお見かけしました。面識はもちろんありませんでしたが、一目でわかりました。僕の勤務先近くの自然食品のお店に入って行かれました。それだけです。インスタの更新、いつも楽しみにしています。いつかまた語り合える日を夢見ています」


 それでも直子からの返事はなかった。


 なぜなにも返事をしてくれないのかわからなかった。ただ、直子は既婚者なので、僕を無視する立場も気持ちもわかった。そしてそう納得するしかなかった。不完全燃焼ではあったけれど、それは仕方がなかった。でも、ただ一言、返事が欲しかった。


 二〇二〇年二月二十六日夜十時五分、iPhoneの画面に、「seto.ringo45があなたをフォローしました」という表示が出た。


 直子のインスタのアカウントだった。僕はすぐインスタを開けてフォロワーを確認したが、直子からのフォローは外されていた。ミスタッチだったのだろう。ただ、直子は僕を認識していた。それだけでも僕にとっては大きな収穫だった。


 その夜、また夢を見た。いつもの学校の廊下だ。


 今回は周りの友達に白くて濃い靄がかかっている。もうすぐ直子とすれ違う。僕はいつもここで顔を直子から逸らしていたが、今回はじっと直子を見つめた。夢の映像がスローモーションに切り替わった。靄の中から直子が現れて、すれ違いざまにちらりと僕を見た。目が合った。直子はさっと視線をそらして靄の中に消えていった。


 気づいていない振りをしていたのが、気づかれてしまったという表情だった。


 三月二十六日、直子の四十五歳の誕生日だ。日付が変わってすぐに直子のインスタにDMした。


「お誕生日おめでとうございます。

 元気に過ごされているでしょうか。不穏なニュースばかりの世の中ですが、より多くの幸せがあなたに訪れるように、陰ながらお祈りしております。


 それから、読んでいただけるか(過去のDMも)わからないけれど、こんな世の中なので後悔は少なくしたいので、少し書きますね。


 我々が関係を絶ってから今年で二十年も経過しました。僕はあの日からずーっと本当に一日も欠かさず、あなたを忘れたことはありません。心のど真ん中に今も存在しています。ネットでもずっと探していたので、フェイスブックで見つけたときは震えました。


 あのときは僕を庇ってくれて、本当にありがとうございました。そして痴話騒動に巻き込んでしまって、不快な思いをさせてしまって、申し訳ありませんでした。僕はどうしてもこの、感謝と謝罪の気持ちをあなたに伝えたかったのです。


 二十年は過ぎてしまえばあっという間で、また気が付けば六十五歳になっているかもしれません。だから、さっきも書きましたが、後悔はしたくないので、勇気を出して書きます。


 僕はもう一度、連絡を取り合いたい。人としてもう一度、語り合いたい。


 会ったりしなくても、近況や今までのことや、悩みなどを分かち合いたい。僕にはあなたほど語り合えた人がいまだにいないのです。僕にはあなたが必要なのです。


 誕生日にこんなことをDMして申し訳ありません。ただ、伝えるなら勇気ときっかけが必要でした。時間があるときにお返事いただけたら幸いです」


 朝起きて、インスタのDMをチェックすると既読になっていた。それだけで僕はきちんと、直子にありがとうと、ごめんなさいを伝えることができたので、満足感があった。ただ、やっぱりなにか言葉が欲しかった。日中はなにも返事がなかったけれど、直子はインスタに度々ログインしているようだった。ログイン中のグリーンの丸いマークを愛おしく感じた。


 そして二十三時過ぎ、直子のインスタのグリーンマークの横に、「入力中」という表示がでた。


 直子が文章を入力している。僕への返事を書いてくれている。


 二十年待った。あの日、カヤにばっさりと断たれた直子と僕の繋がりが再び繋がったのだ。


「お久しぶりです。お元気ですか?


あの日以来ですね。あのあとなんの連絡もないので、彼女さんと向き合って生きていくんだなと思っていました。そのことの近況くらい教えてくれてもいいのにと、私はかなり嫌な気持ちになりましたよ。人としてどうかと思いました。


それにまだ、私のことが気になるみたいですが、執着しすぎです。もう遠い過去のことです。今までのあなたからのDMを無視したことで、気持ちを察してほしかったです。確かに私も数年はあなたのことを思い出しました。夢でも見ましたよ。夢の中でもなんか冷たくて態度が悪かったですよ。でももうどうでもいいことです。


私は夫を三年前に亡くしました。子ども達ためにも自立しなければなりません。私はいままでずっと誰かに頼って生きてきたので、これからの人生の目標は自立することです。だから、あなたのことは、確かに懐かしいとは思うけれど、もう、語り合いたいとは思っていません。たとえ一人きりの人生でも、誰かと語り合わなくても、自分を大切にして生きていくことはできると思います。あなたも、もう私のことなんか忘れて、自分と自分の家族を大切にして生きてください。


あなたのインスタも拝見しました。なかなか大変な人生だったみたいですね。


知ってる? 人にはバースビジョンという生まれる前に自ら決めた、人生の目標があるのです。それを探してみてください。生まれたときに忘れてしまうらしいのですが、思い出してみてください。あなたならきっとできると私は信じています」


 二十年はやっぱり長かった。


 二十年前の僕に、「次に直子と繋がるのは二〇二〇年だよ」と伝えると絶望しただろう。


 でもいつか必ずと、信じていてよかった。本当にこの日をずっと、じっと待っていた。


 一体他に誰が、ひとりの女性を二十年も待てるだろう。それに、僕は直子だからこそ、信じて待つことができた。失われた二十年が報われて、嬉しくて何度も泣いた。


 今まで本当に苦しかった。もがいてよかった。誰にも告白できなかった苦悩が報われてよかった。直子、返事をくれて本当にありがとう。どれだけ俺が嬉しいのか知ってほしい。


 それにしても驚愕だったのは直子の夫が亡くなっていたことだった。それで関西のどこかに引っ越したのかもしれなかった。確か瀬戸さんの実家は和歌山だったから、その辺りかもしれないと思った。


 僕は瀬戸さんが亡くなったことを悲しんだ。できれば信じたくなかった。同じ人を愛し、勝手に瀬戸さんに直子を託し、直子のインスタを見る限りでは、いろんな場所に温泉旅行に行けるほどの甲斐性があり、直子を幸せにしていたからだ。


 瀬戸さんの無念を想うと僕は悲しさと悔しさを同期した。僕は決して、自分にチャンスが来たとは思えなかった。育ち盛りの子どもを抱え、母子家庭として育てていくことの直子の不安さ、それを心配する瀬戸さん、その構図を想うと本当に悲しくなった。


 僕は四歳のときに最初の父を亡くした。


 弟のシンジが生まれてすぐ、父は胃がんで亡くなった。幼い三人の子どもを残して、三十六歳の若さだった。


 母は当時住んでいた山口県から、熊本の実家に戻り、実家の納屋を改装してそこで母子四人で住んだ。貧しかった。お菓子が買えなかったので、じゃがいもでポテトチップスをよく作った。


 そして、僕はよく覚えている。母は夜になると泣いていた。家のすぐ前にある、浜辺で泣いていた。潮騒に紛れて母の泣き声が聞こえた。深夜にからからと玄関の戸が開いて、母が家の前の浜辺に泣きに行くことを僕と姉は知っていた。


 母はしゃがみこんでタオルで顔を覆って泣いていた。そのまま母が真っ暗な海に引きずり込まれてしまって、死んじゃうんじゃないかと思って怖かった。僕にも不安と悲しさが伝染して泣きたかった。それを姉が手を繋いで慰めてくれていた。まだ、二人とも幼かったのに。母を想って泣くのを我慢していた。


 そのことを、母と同じ名前の直子の悲劇と重ねた。だから、瀬戸さんには生きていてほしかった。直子にも、直子の子どもたちにも、そんな悲しい想いはしてほしくなかった。そう、僕は直子にはとにかく幸せになってほしかった。


 僕は朝まで一睡もできずに直子からのDMを眺めて、直子の気持ちを想った。


 バースビジョン、生まれる前に自ら決めた人生の目標。僕にとってこれは直子のことしか考えられなかった。前世でも直子となんらかの関わりがあり、今世ではもっと直子を見守りたいという目標で生まれてきたんじゃないかと思った。


 でも、もう直子はそれを望んではいない。直子は自立を目標にして立派に生きている。



・一カ月後直子からのDM

・宇多田ヒカルのこと

・八年越しのゆびとまのメッセージが届いたこと

・自己肯定感の低さ

・宮本くん、直子さん

・「もう運命のような気がしてきた」

・フレーバーオブライフ 友だちでも恋人でもない中間地点

・送信者が送信を取り消したため、

・夫を悲しませたくない

・カヤへの憎しみと哀れさと同情

・裁判

・カヤの統合失調症

・桜の境界性パーソナリティー障害

・桜の入院

・自殺未遂

・最後のインスタDM

・小説を書くという約束を叶える↓冒頭


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