第8話 Way of Difference

 そして実際に直子は鶴田との付き合いを解消した。


 鶴田は泣いて謝ったそうだが、直子は許さなかった。そのうちに「俺があいつを振ったんだ」と吹聴するようになった。直子はそれを周囲に否定するでもなく、本当に無視を徹底していた。


 公式に二人が別れたとしても、僕と直子は学校では大っぴらな付き合いはしなかった。客観的には短期間で男をとっかえひっかえしてるようにしか見えなかったからだ。


 それから熊本の人とも同時期に別れた。


「何が一番大切か考えたの。私はやっぱりこの場所、誠がいるこの部屋が一番落ち着く。安らぎの場所なの。熊本の人はなんか他にも女の匂いがするし、いいの、もう誠さえいてくれればいいの私は」


 世界と隔絶されたような僕の四畳半の下宿で、抱き合いながら直子が言った。


 振り返ればそれから卒業までの四カ月間は、僕と直子にとって一番平穏な期間になった。クリスマスイブは一緒に僕の下宿で過ごし、プレゼントを交換し、朝まで抱き合った。


 僕の誕生日にも泊まりに来てくれた。バレンタインデーには直子から手作りのチョコレートをもらい、ホワイトデーには僕からキャンディを贈った。


 一度、僕の実家にも来てくれた。


 早朝の不知火海を渡るフェリーに乗って、潮風と朝日を受ける直子を見て、その儚い美しさが最初で最後のような気がして僕はとても悲しくなったのを覚えている。美しいって悲しいを孕んでいるとそのときに知った。


 そして、僕が大阪、直子が福岡と、別離する最後の日、直子の強い希望で僕が書いていた日記を直子に預けた。


「この日記は私にとってお守りみたいなものなの。寂しいときに読みたいから貸しておいてね。そしていつか一緒にこの続きを書こうね」


 このときの直子の僕を見つめる眼差しも、今でもはっきりと覚えている。直子はその未来を望んでいたし、信じてもいた。確かにそのときまでは。


                  *

  

 一九九三年四月、大阪へは水俣駅から夜行列車で行った。寝ていたら大阪まで着くのだから楽なものだ。新大阪駅まで僕が勤務する安達工業の社長が車で迎えに来てくれた。安達の母の夫の弟になる。とても気さくな人だった。


「よ! これからよろしく頼んまっせ!」と言って社長はにかっと笑った。奥歯の銀歯も光った。


 僕は緊張していたが、これから始まる新生活にもわくわくもしていた。なにしろ大阪は都会なのだ。直子とは離れてしまったが、これから頑張って働いて、いつか直子を迎える気持ちだった。


 職場は門真市だった。まずは会社の寮に荷物が届いているからそこに行くことになった。三十分ほどでその寮に着いた。


 築五十年は経ってそうな平屋の長屋だった。あれ? きれいな新築マンションって聞いていたけれど、ここは倉庫かなにか? と思っていたらこの建物が寮だった。


「おう! お疲れ! ちょうどさっき荷物のきたっばい」


 と、安達がその建物から咥えタバコでぬっと出てきて言った。安達は高校を卒業して一足先に大阪に来ていた。つい先月まで清潔感のあった少年安達が、妙に男臭くなって見えた。僕は安達の祖父に騙されたと思ったが、口にする訳にはいかなかった。


 べニアが剥がれたぼろぼろのドアを開けると小さな玄関があり、その右手に小さな台所(キッチンという雰囲気ではない)があり、その横に小さな浴室、浴槽は膝を抱えて入るような狭さだった。部屋は六帖の続き間がふたつ。奥の突き当りに、洗面台とその反対側に便所(トイレと言えない)があった。しかも便所は汲み取り式。洗濯機はどこだ? と思っていたら洗面台と便所の間にある窓を開けた野外にあった。そして目の前は小学校のグラウンドがあった。


 反対の玄関前には、レンコン畑が広がっていた。真っ黒な土壌で、じっとりとした水気があって、モネの絵画のような美しさはなかった。


 いずれにしても僕はここで生活して働いて生きていくのだ。すぐに現実を受け入れた。保育園から一緒だった安達と、就職も寮も同じなのできっと楽しく生活できるはずだった。それと高校二年生のときに不登校になった友達も誘っていた。三人の男だけのワイルドな生活が大阪府門真市で始まるのだ。


 安達工業は水道プラントの施工会社だった。主に自治体からの請負が殆どで、門真、香里園、寝屋川の浄水場の新設、整備が主な仕事だ。確かに安達の祖父が言うように、プラモデルのように図面を見てプラントを建設するのだけど、決して楽な仕事ではなかった。現場でヘルメットを着用しての、単純に肉体労働だった。体力が必要なのでよく食べるようになり、五十二キロだった体重がすぐに六十キロを突破した。


 社長の他は専務のおじいさんと、社長の弟で三十歳の陽介さん、社長の遠い親戚の四十歳の関さんと、事務の恵比須さんという女性だけだった。たまに安達の祖父も加わったり、助っ人の職人さんも出入りしていた。


 あと、給料は月に三十万円ではなく、手取りで十六万円だった。ボーナスも夏は一ヶ月分で、冬に一・五カ月分。四十万円ではなかった。これじゃ直子から離れて大阪にきた意味がないと思ったが、あとの祭りだった。

 

「という訳で聞いていた話と全然違った」


 僕は直子に寮の近くの電話ボックスから電話した。


「そうなの……」


「うん、でもとにかくここで頑張ってみる。できるだけ会いにいけるようにするし。そっちはどう?」


「うん、友達もたくさんできたし、この前のオリエンテーションも楽しかったよ。髪にも少しパーマを当てたの。写真送るからね」


「それは楽しみだな。かわいいだろうなー」


「……それで、いつごろこっちにこれそう?」


「ゴールデンウイークと言いたいところだけど、初任給は確か基本給より少なめなんだ。だから六月中くらいかな。どのみち直子もゴールデンウイークは芦北に帰るでしょ?」


「そうね。最初のゴールデンウイークくらいは私も実家に帰らなきゃね。六月かぁ。長いなぁ。つい先月までしょっちゅう会ってたからさみしいよ」


「俺もさみしい」


 直子とは直線距離で五百キロも離れていた。その距離を埋めるべく、僕はせっせと直子に電話した。


 寮の玄関にピンク色の共同電話が設置された。直子から電話があると、僕はいつも近くの電話ボックスまで走って行って掛けなおした。なにせ五百キロの長距離電話だ。百円玉を風呂上りのビールのようにごくごくと電話機が飲み込んでいく。切実に個人の電話が欲しくなった。


 直子は短大生活を楽しんでいるようだった。新歓コンパへの参加が僕の心を痛めたが、どうすることもできない。直子はテニスサークルに入ったと言っていた。いろんな大学との合同サークルなので当然男もいる。また、モテまくるんだろうなと心配だった。


 華やかな直子の学生生活の対極で、僕は毎日重たい五メートルのステンレスのアングル何本も運んで加工して、研磨機の火花に打たれ、溶接の閃光に目を焼かれ、汗を流して働いていた。それでも直子のために働いている気がして、それはそれで充実感があった。日曜日には門真市内を自転車で探索して、本屋とCDショップを探したりして徐々に土地勘が備わってきた。


 会社近くの社長の自宅で、奥さんに夕食をよく御馳走してもらった。そしてそこで初めて関西風の出汁の効いた薄味の美味しさに目覚めた。テーブルに出たものは全部美味しかったのをよく覚えている。あと、551の蓬莱の豚まんも食べさせてもらった。腰を抜かすほど美味しかった。今まではコンビニで売っている井村屋の冷凍肉まんでも充分に美味しかったけれど、その美味しさの遥か上のステージに豚まんはあった。「ひとりで六個は食べたいな」と思った。


 食事が終わると社長に麻雀を教えてもらった。


「チュンポンッ!」


 社長の「中」のポンは本当に勢いがあった。「白」や「發」ではこんな勢いはなかった。「中」のみだ。この「チュンポンッ!」は僕の記憶メモリーにぴたりと今でも張り付いている。


 一ヵ月ほど遅れて、引きこもりの同級生もやって来た。きつい天然パーマ、寝不足のクマがしみ込んだたるんだ目元、でっぷりと肥えた腹、日光に当たってないので無駄に真っ白な肌の人物だ。性格にも少し難ありだったけれど、そこは男同士で多少ぶつかってもなんとかやっていけると思っていた。それにそいつも不登校になる前は美術部に在籍していたので、安達も含めて三人とも絵が好きという共通点もあった。


 大阪はあまり僕には合わなかった。大阪人の冗談が本気なのか全くわからなかった。


「お! 兄ちゃんその時計ええやんか! くれや!」と職場で助っ人のおっちゃんが僕の安物の腕時計を見て言った。


「だめですよ、あげませんよ」と答えると、


「じょーだんやがな! 本気にすんなや」と言われるのだ。


 後日、同じことを言われたので、


「いいですよ。どうぞ」と腕時計を外して渡してみると、


「おーきに! 欲しかってん!」と言って腕にはめるのだ。


「冗談だから返してください」と言うと、


「人舐めとったらアカンで!」と怒るのだ。当然腕時計は返してもらった。


 他にも関西ローカルのテレビで落語家が言った、「大阪はフグの本場ですからね」という発言にもひっかかった。いや、フグの本場は下関でしょう、大阪湾でフグの養殖をしているわけでもあるまいし、と疑問にも思った。


 あと、テレビや新聞が阪神一色なのも気味が悪かった。応援という印象よりもあやかりたいという欲望が裏にあるような、というか表に出過ぎていたように感じた。商売のために応援しているような印象だった。そんなことが大阪に来て早々に感じたので、ずっと大阪でやっていけるのか不安になったし、ストレスにもなった。


 一番ショックだったのは缶コーヒーのジョージアのテイスティとザ・ブレンドが売ってないことだった。あとリョーユーパンの販売範囲外だったので、マンハッタンが食べられなくなったのもつらかった。


 六月に直子に会いに博多まで行った。その年は後に「平成の米騒動」と言われるほど、雨が多く、米不足になった年だった。新幹線に乗って博多まで行ってきますと社長に報告した。それを聞いた陽介さんが「そるやったらおるが新大阪駅まで連れいたっくるっで」と言って、新大阪まで道案内をしてくれることになった。陽介さんはいつもちょっとぼーっとしていて、島の方言がまったく抜けていなかった。


 土曜日の仕事が終わると急いで寮に帰って風呂に入って、着替えて、寮の隣の部屋に住む陽介さんを外で待った。ドアが開き、真っ白でぱつぱつのスーツを着た陽介さんが出てきた。頭は白髪交じりのパンチパーマだったので、結婚式に出席するヤクザみたいな服装だった。


「品のよかろが!」と言って陽介さんはその真っ白なスーツを自慢した。よく見ると股間にシミがついていた。ここから新幹線に乗るまで僕はなにも考えないようにした。


「ほれ、見てみ、こん機械にジェンば入れろ。そっで上の板にいくらか書いてあっでか、そっば見ればいくらかかっとじゃいわかっでか。釣り銭はほれ、ここから出てくっで。忘るんなぞ。駅の上ににゃ、あっちゃん行けば門真、こっちゃん行けば寝屋川て書いてあっでが、そっば見ればよか。淀屋橋に着けば人のいっぴゃ行く方さん行けばよか。だっでん御堂筋に乗り換えっでか。新大阪でも一緒。人について行けばよか」


 古川橋駅の改札前で、結構大きな声で方言を話すので、とても恥ずかしかった。やっとの思いで新大阪のホームに着き、新幹線を待っていると、「もうここでよかにゃ。おらもう戻っで」と陽介さんが言った。


「うん、ありがと。じゃあね」僕はほっとしてお礼を言ったが、陽介さんはそれを聞くこともなく、「すんまっしぇん、この辺にトルコはなかですか?」と通りすがりのご婦人に声をかけた。


「この辺にはありまへんで。梅田まで行きーな」とそのご婦人も冷静に答えたのでやっぱり大阪はすごいところやでと感心した。


 博多駅に着いて直子と二カ月半振りに再会した。直子は黒のジャケットを着て、ひらひらした白いミニスカートを履いていた。前よりも大人っぽくみえた。肩まで伸びた髪を、写真のとおりに少しウェーブにしていた。薄く化粧もしていた。僕はTシャツを着てジーンズを履いて、スニーカーでなんか自分が子どもっぽく思えた。


「なんか引き締まったみたい」


 Tシャツの上から僕の胸とお腹を擦りながら直子が言った。


「毎日肉体労働だからね、よく食べるし体重も増えたから夜はジョギングもしてるって言ってたでしょ。引き締まって見えるのならよかった。直子も大人っぽくなってさらに美人度が上がった」


「そーお?」と直子が満足そうに微笑んだ。


「俺は心配だよ」


「なら早く迎えにきてね」と言って直は腕を組んできた。


 それから直子に夜の博多の街を案内してもらった。屋台が多い場所や、親不孝通りを散策し、適当な居酒屋に入って食事した。直子と二人で初めての夜の外食だったので、僕は緊張して口数も少なく、料理の味もまったくわからなかった。


「なんか上の空っぽいから早めにホテルに行こうか?」と直子が言ったので居酒屋を出てホテルを探した。


 部屋に入った途端に僕たちは激しく求めあった。


「本当は街の探索や食事もどうでもよかった」と僕は言った。


「私も。もたもたしてないで早くホテルに入りたかった」


 会えなかった時間の不足分を貪るようにお互いを求めあった。早く直子と一緒に生活がしたかった。


 翌日はこの四月にできたばかりの福岡ドームまで行った。周辺のベンチで休憩しているとNHKの取材に声をかけられた。


「完成したばかりの福岡ドームについてどう思いますか?」と、取材班の男性が直子にマイクを向けた。カメラは直子を映している。


「そうですね、せっかく立派な本拠地ができたのでダイエーにもがんばってもらいたいですね」と直子は答えた。


 実際のこのシーンはNHKで放送された。直子は美しく映っていて、僕は右腕しか映っていなかった。


 百道浜とシーサイドプレイスにも行った。博多は都会なのに海も近くて良いところだと思った。


 大阪に着いてからの終電もあるので、十九時くらいの新幹線に乗って帰る必要があった。駅のホームはさみしさと切なさが入り混じっている。残されるほうがいつも切ない。


「もう一本遅くできないの?」


 僕のTシャツの裾を引っ張りながら直子が言った。


「ごめんね、大阪での終電もあるから」


「はぁー、本当にさみしい。これから何度こんな想いを私にさせるつもりなの? ひどいよ、本当に」


「俺も直子がさみしいと思うくらいさみしいよ。そう思わせている辛さもある。とにかく俺は仕事をがんばってできるだけ会いにくるよ」


「ねぇ、本当に早く迎えに来てね」


「大丈夫。必ず迎えにいくよ」


 結婚というキーワードは使わなかったが、我々はいつか一緒に生活するという目標があった。直子はまだ学生だし、僕も社会人一年目だし、そんな状態で無責任な結婚というキーワードは使いたくなかった。


 博多駅は新幹線の始発駅なので、乗車予定の新幹線に乗り込んでも出発まで少し時間があった。直子は僕の席の隣に座り、こっそりと服をめくって胸を見せてきた。


「これで大阪でも私を思い出してね」


「忘れるわけがないから早くそれを閉まってほしい」


「胸にキスして」


 僕は直子の乳首にキスをした。最後にお別れのキスをして僕は博多をあとにした。


 直子に会いに福岡に行くために、僕は本当にいつも節約していた。たまに安達たちとパチンコやカラオケに行くことはあったが、食費をいつも削っていた。昼飯はいつも百円のパンだけで我慢した。仕事終わりのビールやジュースも我慢した。夕食は袋ラーメンばかり食べていた。やはり博多までの往復の旅費、宿泊代、二人分の食費や遊興費はかなりお金がかかった。博多から帰ると、次の給料日までの残り二週間を一日五百円以下で生活しなくてはならなかった。


 それから七月と八月にも僕は直子に会いに博多まで行った。その度に親密な時間を過ごしたのだが、僕は少しお互いの気持ちの温度差を感じていた。直子は直子で日常が忙しく、貴重な日曜日を割いて僕に会っていた。電話での会話もサークルの話しが多くなり、トヨタ・ソアラに乗っている先輩からデートに誘われたとか、親不孝通りで非番の自衛隊員にナンパされたとか、僕が嫉妬するような話が増えた。焼餅を焼かせようという意図はなかったと思う。直子は単に楽しい学生生活の感想を言っているだけだった。でも僕は嫉妬した。そんな話は聞きたくなかった。僕のそっけなさやジェラシーに直子もだんだん面倒に感じているのがわかった。

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