SMOKY THRILL

猫柳蝉丸

本編



 一つの人生が終わってしまった、と私はそう感じた。



    ●


 離れない。

 あの日以来、わたしの制服に沁みついたタバコの臭いが離れない。

 苦く、鈍く、暴力的なまでの臭い。

 あの日以来、何度も袖を通し洗濯までしたセーラー服だと言うのに、わたしの鼻腔から離れることがない臭いだ。

 あの日……、高校二年生の夏休みに入る直前の放課後、読書感想文用の本を図書室から借りて下校途中だったわたしは、唐突に篠崎さんに声を掛けられた。

 同じクラスの篠崎優香さん。正直苦手なタイプだったから、ろくに会話もしてすらいなかったしそれどころか一生話すことも無いはずと思っていた。

 だから、驚いた。篠崎さんがわたしに声を掛けてくるなんて。

 正直言ってわたしはクラスの中でも目立たない地味なタイプだ。眼鏡を掛けていて髪型も三つ編みにしているし、人と話すのはあんまり得意じゃない。変に目立ちたくもなかったから別にそれでよかった。

 篠崎さんがそんな地味なわたしに何の用もあるはずもなかった。髪をピンクに染めていてお化粧もばっちりで、スカート丈もわたしより二十センチは短かった。同じセーラー服に袖を通しているのにそんな別の世界の住人みたいな人だった。


「うららちゃんだよね? ちょっと頼み事があるんだけど」


 篠崎さんはわたしのあまり好きじゃない下の名前を知っていた。

 うららなんて名前、好きじゃない。自分が麗じゃないことを嫌でも自覚させられるから。

 そんな気持ちがこもっていたからだろうか。自分でも驚くくらい不機嫌な声が出てしまっていた。


「……何でしょうか?」


「まあそんな警戒しないでってば。同じクラスなんだし敬語もやめなよ」


 言うが早いか、篠崎さんはわたしの肩に腕を回して顔を近付けた。

 篠崎さんの濃い香水の香りの中に、タバコの臭いがあることをわたしは気付いた。


「うららちゃんさ、成績良かったよね?」


「……そこまででもないですよ」


「それでもウチよりずっと成績良いでしょ? 眼鏡だって掛けてるんだからさ」


 確か篠崎さんの視力も悪かったはずで何度か眼鏡姿を見たことはあるけれど、わたしはそれを指摘したりはしなかった。

 とにかく早く会話を切り上げたかった。


「夏休みの宿題……、手伝ってほしいんですか?」


「さっすがー! うららちゃんは話が早いッ!」


 結局はそういうことなのだ。それ以外で篠崎さんがわたしに用なんてあるはずがない。

 とりあえずほっとする気持ちだった。篠崎さんの宿題を手伝うのは正直面倒だけれど、もっと面倒なことを頼まれるよりずっといい。例えばメンバーが足りない合コンの数合わせに呼ばれたりなんてよりはずっと。


「それで宿題について相談があるんだけどね、今日は奢るからカラオケでも行かない? カラオケなら落ち着いて話せるでしょ?」


 まあ、それくらいなら、とわたしは安心して安請け合いした。

 これで貸しを作れば篠崎さんも少しは恩に思ってくれるかもしれない。それくらい簡単に考えていた。

 だから、言葉も出なかった。

 カラオケ屋に入って早々に篠崎さんに押し倒された時には。


「ごめんね、うららちゃん。これがウチの本当の宿題だったんだ、学校じゃなくてツレに出された宿題なんだけどさ」


 いつの間にかセーラー服を脱がされて胸まで触られてしまっていた。

 何か声に出すべきなのかもしれなかったけれど、何を言ったらいいのか分からなかった。頭の中が真っ白だった。


「だいじょうぶだいじょうぶ、痛いことはしないって。無理矢理はやっちゃうけどね。すぐよくしてあげるから安心してよ」


 犯されそうになっている、と今更になってわたしは気付いた。

 でも、どうして?

 わたしが篠崎さんにそんなことをされる必然性なんてあったのだろうか?


「どう……して……?」


 泣き出しそうな声でどうにかそれだけは言葉にできた。

 篠崎さんは何でもないことみたいに苦笑した。


「うららちゃんもさ、レズでしょ? そういうの分かるんだよね、ウチら。だからツレ同士でさ、本当にそうなのか確かめてあげようって話になったんだよね」


「わたし……そんな……」


 誓って言える。言い訳じゃない。わたしは自分が同性愛者である自覚なんてなかった。

 同年代の男子に興味は持てなかったけれど、あくまでそれくらいだ。それだけで同性愛者と決めつけられても困る。

 だけど……、本当にそうなのだろうか? わたしが高二になっても男子に興味を持てないのは、本当は同性愛者だったからなのだろうか?

 分からない……。分からなかった。こんな状態では何も考えられない。


「優しくしてあげるからさ、安心してくれていいよ。このカラオケ屋には監視カメラとかも無いからその辺も安心して。ウチらはうららちゃんを楽しませてあげたいだけなんだからさ」


 そうしてわたしはタバコの臭いがするキスをされ、タバコの臭いに包まれながら、篠崎さんに犯された。



     ●


 それが夏休み前のわたしに起こった全てだ。

 夏休みの間、篠崎さんから改めて連絡は来なかった。連絡先の交換もしていないのだから当たり前だった。

 夏休み中、わたしは篠崎さんのことばかり考えていた。夏休みが終わって、教室で篠崎さんと再会してしまったら自分がどうなってしまうのか怖かった。

 だけど……、始業式後の教室に篠崎さんは来なかった。

 正確にはわたしの知っている篠崎さんが、だ。

 夏休みを終えた篠崎さんは派手な化粧をやめていた。濃い香水もやめていて、髪の色も黒に染め直していた。

 逆二学期デビュー。そんな陳腐な言葉がわたしの脳裏に浮かんだ。

 ああそうか、と篠崎さんと話をしなくても分かった。

 篠崎さんは夏休みの間に大好きな彼氏でもできてしまったのだろう。それで派手なファッションをやめて、一人の女の子になったのだ。

 夏休みとは、人一人をすっかり変えてしまうには長過ぎるくらい長いのだ。

 こうしてわたしと篠崎さんのほんの一瞬の関係は終わったのだった。


 終わった、と感じた。

 一つの人生が終わってしまった、とわたしは。

 もちろん他の誰でもない、極普通に平凡に生きられていたはずのわたしの人生の話だ。

 篠崎さんとタバコの臭いに包まれて犯された時、正直言って感動的なほど刺激的だった。今までの人生で、あれほどの幸福を感じたことはなかった。最高に背徳的だったのだ。

 だから、わたしは夏休みの間期待を膨らませ続けていた。篠崎さんと再会した時、次はどんな扱いをされるのか夢想が止まらなかった。

 けれど夢想は夢想でしかなく、篠崎さんとの刺激的な時間はあれっきりで終わってしまっのだ。

 それが絶望的なほどに耐えられない。あの時間を二度と経験できないなんて、わたしの残りの人生、拷問でしかない。

 そんなのごめんだった。探してみせる、もっと刺激的で背徳的な時間を、相手を、派手な化粧の女の子を。

 まずはタバコを買おう。もちろん吸うわけじゃない。タバコの臭いに包まれる新しい人生を生きるためだ。

 こうして高校二年生の二学期最初の日、わたしの一つの人生は終わり、新しい人生が始まったのだった。

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