水色を描きたい

白汐世奈

水色を描きたい




————茹だるような夏の炎天下に。

彼女は湿った重い風を肌で受け止めて、唇に散る潮の味を、しきりに舐め取っていた。




波の音が打ち寄せる。紛れて、鳥が鳴く。

背後を小さな足音と、幼い笑い声と、自転車の軽快なベルの音が通り過ぎていく。

砂浜を見下ろす道のガードレールから身を乗り出した僕は、今日も、この町は賑やかだなぁ、なんて考えている。都会とは程遠いけれど、人口は少しずつ増えていっている町。今年度の初めには、クラスに二人も転校生が来た。中学校の校舎は緩やかにパンパンになっていっているとか、お母さんは言っている。

風が強くなり出した。

知っている声が近づいてくる。クラスメイトの男子たちだ。

「でさぁ――」

「それやったら――」

賑やかな騒めきは僕のランドセルを行きがけに弾き飛ばし、何にも気づかなかったかのように遠ざかっていった。

話したこともない『友達』、同じ町の同じ年の同じ子供。その中に友達は一人もいない。彼らは内向的で喋らない僕に見向きもしないし、僕も彼らとは喋らない。そういう町で、そういう僕だ。

今日も僕は通学路で一人、日常の喧騒に外から耳を傾けている。今日もいつもと変わらない、強いて言えばちょっと海鳥が多いだけの日。

ガードレールから体を引き戻し、石を蹴飛ばして歩き始める。少し行くと最初の石はどこかへ行ってしまったが、すぐ先にさっき通った子たちが蹴っていたらしい石が残っていた。ちょうどいいのでまた蹴り始める。

「あ」

勢い余って強く蹴った石が飛びすぎて、道にいた海鳥がバサバサと翼を広げて飛び立った。下から見る飛翔姿は優雅だ。しかし、海のほうに行くかと思ったら、違う。その鳥は道沿いに飛び始めた。

――何や変な気分や、追いかけてみようかな。

そう口の中で言えば心は決まって、僕はその鳥を追いかけて走り出した。

海鳥は、目的地が決まっているかのように迷わず、滑るように空を飛んだ。僕のほうは、元々運動音痴なのに上をずっと見ているせいで何度も躓く。

そんな僕を、海の反射光が横から照らしている。

唐突に、矢を放つように海鳥が鳴いた。


「わっ、ちょっと! あっち行きな、美味しくないったら!」


声が聞こえた。

道の先に女の人がいた。白い海鳥の群れに囲まれている。時折、追い払おうとする腕が白の隙間から覗いた。それで彼女の周りの様子がちらりと見える。小さな椅子、小さな机、大きなカバン。ぶん、と振り回される腕の持ち主は麦わら帽子を守ろうと必死になっているが、現状あまり効果が出ていない。僕が追ってきた一羽が、新たに群れに加わった。

「あっ!」

何やら彼女が叫んだ。

僕は慌てて指を咥えて、大きく息を吸う。強く口笛を吹く。ピーッという甲高い音に、何羽か鳥が飛び去っていく。隠されていた彼女の姿が露わになる。

あ、と思った。彼女が、振り回すのと逆の腕で何か抱え込んでいる。

緩く、壊さないように大切に抱き締められたそれは、きっととても大切なものなのだろう。

「あぁ、もう!」

彼女が机の上の何かを掴み、右手を大きく振り上げた。その手には。

「絵の具は食い物じゃねー、この野郎!」

絵筆。

美しい青色が、一羽の白い翼を鮮やかに彩った。

その鳥が高らかに鳴く。それに共鳴するように他の鳥たちも声を上げた。にわかに翼の音が大きくなり、群れが一羽、また一羽と飛んでいく。そしてついに、白い結界の跡には女の人一人だけが残された。

彼女は、肩で息を整え、どさりと椅子に崩れ落ちた。

遮るものがいなくなったおかげでよく見える。彼女の足元のカバンには、絵の具がぎっしり詰まっている。椅子に座った彼女の肘くらいの高さにある小さな机には、丸いパレットが。彼女自身は、色とりどりに染まった茶色いエプロンを着けていた。

彼女が左腕を緩めて、抱き締めていたそれを目の前にかざしたので、僕はまた「あ」と思った。

それはスケッチブックだった。そして絵の具で彩られている。かつて白かったはずの紙面は鮮やかな色で飾られ、一枚の美しい絵を描き出していた。

僕は思わず駆け出していた。近づく足音に彼女が顔を上げる。つばの端が毛羽立った麦わら帽子が、彼女の鼻先まで黒い影を落とした。ポニーテールがさらりと風になびく。

綺麗な人だった。

「……助けてくれてありがとう」

彼女のほうが先に口を開いた。さっきの口笛が「助け」になっていたことに、顔が熱くなる。僕は固くなって、バッタが跳ねるみたいなお辞儀をした。

緊張している。何も言えない。ちらりと目を見ると、彼女も何を言ったらいいか困っている様子だった。これは、僕が何か言わないといけない、のだけど。

絞り出せ、何か。

「……綺麗な絵、ですね」

そう言うと、彼女は目をぱちくりさせてスケッチブックを見た。そのまましばらく動かなかった。自分で描いた絵なのに、自分でその中の価値を探っているかのようだった。

ややあって、彼女は僕を見た。ドキン、と心臓が跳ねる。

「……ありがとう」

彼女は、さっぱりとした風の笑顔で、でもはにかむように頬を染めていた。

その顔に、僕はすっかり目を奪われた。ぽうっとすること数秒。ハッと意識を取り戻し、勢いで口を開く。

「お、お姉さん、お名前は! あ、僕は山辺奏多いいます!」

自分史上一番大きな声だったかもしれない。彼女はぱちぱちと瞬きした後、クスッと吹き出して答えてくれた。

「ナナミ。七つの海で七海です。自分から名乗れて偉いけど、知らない人に名前を教えちゃ駄目だよ、奏多くん」

とても真っ当な指摘をされてしまい、顔がカッと熱くなる。

俯いた僕を、彼女——七海さんは軽快に笑い飛ばし、小さな椅子に座り直した。その一動作さえ綺麗だ。スケッチブックの新たなページを開いた彼女は海をまっすぐに見つめて、さっきの筆を本来の用途に取り直した。

「絵ぇ好きなんですか」

僕は尋ねた。集中を阻害して機嫌を損ねるかと思ったが、七海さんは気を悪くせず答えてくれた。パレットの上で新たな色が生まれる。

「好きだよ、それ以前に仕事だし」

「……描きに来たん? ここに」

彼女は海を遥かに眺めて、目を細めた。

「んー、いや、まぁ、そう」

水平線がキラリと光る。打ち寄せる波の音。今日も海はいつも通りだ。

一陣の風が吹く。「わっ!」と七海さんが声を上げ、目を瞑った。僕は唇を舐め、変わらぬ塩気に頷いた。

七海さんが目を開ける。

「……ここの海は綺麗だよね」

麦わら帽子を押さえて、七海さんは輝く笑顔で振り返った。

初めて来るから物珍しいだけですよ、とか、言うこともできた。けれどそうする考えすら浮かばなかったのは。

「あたし、ここ気に入っちゃった」

僕の胸の高鳴りが、もうどうしても誤魔化せないほどはっきりと響いていたから。


それからも、下校の道を少し逸れたところに、七海さんは毎日絵を描きに来ていた。

大掛かりに荷物を広げているからそれなりに目立つだろうと思うのに、不思議と彼女の噂をしている人は誰もいなかった。僕の耳に入ってこないだけだろうか。

僕は毎日の下校をサボって、夕方のチャイムが鳴り出すまで七海さんが絵を描くのを眺めていた。


ある日、七海さんがぽつりと呟いた。

「海の色って、どこから来るんだろうね」

「……んー」

僕は生返事をする。そんなこと考えたこともなかった。

水、魚、貝殻。いくつか海の中にあるものを想像してみても、どれも海の色とは違う。

「水は透明なはずなのに、海には深い色がある。不思議だな。どこからその色が出てるんだろう。何で、そんな色が出せてるんだろう……」

溜息をつくように呟いた七海さんの声が、やけに耳に残った。

翌日、七海さんの隣に座り込んだ僕は、今までになく緊張していた。

七海さんのとめどない言葉にぎこちなく相槌を打つ。どうやら七海さんも僕の不審さに気づいたようで、手を止めてじっと僕を見る。

僕は逸る心臓の音が耳の裏に大きく響くのを聞きながら、いつもよりずっと大きく口を開けた。

「海が青く見えるんは、海底とか海藻とかで反射した光のうち、水が青色の光を吸収しきれへんからなんですって」

叫ぶくらいの勢いで始めた言葉は最後まで続かずに、すごく、尻すぼみになった。

熱くなった頬が潮風に吹かれた。昨日七海さんが言ったことを、帰ってから調べてみたのだ。そして知ったことを伝えたくて、それで。

沈黙。

――あかん。脈絡ないこと言ってもうた。絶対伝わらんかった。

さっきとは別の意味で心臓がバクバクしている。七海さんの顔が見られない。そもそも、こんな話をしてどうなるというんだろう。だから何、で終わりだ。僕にとっては大きな話題でも、彼女にとっては、

「……昨日、あたしが言ったこと? 調べてきてくれたの?」

七海さんがそんなことを言ったので、僕は思わず顔を上げた。

彼女はぽかん、とした表情で、僕を見つめていた。

「……え、はい。何ですか」

ぱち、ぱち、と長い睫毛が瞬く。

七海さんはゆっくりと自分の手元に視線を移し、また沈黙した。

口元がもにょもにょ動いている。笑ったと思えばへの字になる、かと思えば、みたいな顔を繰り返した後、静かな声が噛み締めるように呟いた。

「そっか。じゃ、あの深さがあるから、あの色が出せるんだ」

僕は頷いた。苦笑する七海さん。

「……ずるいな、それは」

その声は本当にかすかだったので、聞き取れた幸運に感謝するべきだったかもしれない。

けれど僕にはその言葉の意味が分からなくて、その日はそのまま夕方がやって来た。


いつもの道に七海さんがいなかった。

離席中というわけでもない。椅子も机もカバンもない。

七海さんに会いたくて少し走ってきた僕は、一度ランドセルを下ろして首を捻った。これまで彼女がいない日はなかったはずだ。体調不良か、何かあったのか。何にせよ少し心配ではある。

何分か迷った。

その末に、僕はランドセルを背負い直し、海とは逆方向に走り出した。

海から少し離れた高台に、少し寂れて建っているアパート。漆喰の細かな棘には黒ずみがこびりついていて、鉄骨の廊下は一つの足音にも大げさにガンガン鳴る。

いつか、七海さんをこっそり追いかけたときに知った、彼女の家。

「鏑木」の表札がかかる、一階、一番奥の部屋。


ピンポーン


生唾を飲み込んで、インターホンのボタンを押し込む。

顔の横をすり抜けていくかすれたチャイムの音。心臓が震えて血を揺らす音。そののち、耳の奥で反響する、セミの声に包まれた静寂。


ガチャ


唐突にドアが開いた。

「……何だ、君か。よくあたしんち知ってたね」

低い声。彼女が一つ、二つ咳き込む。

「あ、はい、こんにちは……」

ボサボサの長髪をかき上げて、七海さんは大きく伸びをした。

いつものエプロンは着けていない。麻色のTシャツと絵の具で汚れたジーンズ姿。

彼女の指が電気のスイッチを押し込んで、暗かった家の中が黄色っぽい光に埋まる。

「……上がってきなよ」

「お、お邪魔します」

緩慢な動きで背中を向ける七海さんの後ろで、僕はこわごわと玄関に足を踏み入れた。背後で扉が大きな音を立てて閉まる。背筋が縮み上がった。

急かされるように靴を脱ぎ、廊下に上がる。

「うわ」

爪先が何かに躓いた。驚いて突き出した腕が、前を行く七海さんの背中に当たる。立ち止まった七海さんは僕を背中で受け止めて、ぼそりと言った。

「汚い家だけど、何か飲んでく?」

「ええんですか」

「外暑いでしょ」

七海さんの足は何も蹴飛ばさなかった。僕は、リビングのちゃぶ台に辿り着くまでにもう何度か床の上の物を蹴飛ばした。キッチンに消える彼女の背中を追って振り返ると、足元に裸の彫刻刀が落ちていたので、少し背中がぞわっとした。

七海さんの部屋は、思っていたよりも不格好だった。僕がそう感じただけだから、合っているかは分からない。まるで僕の部屋みたいだった。

リビングは散らかっている。半分だけ閉められたカーテン。床に広がった筆、チューブ、鉛筆。積み重なった紙やキャンバス。ゴミ箱の脇で口を開けているパンパンのゴミ袋。

ちゃぶ台の正面の襖が開きっぱなしだった。わずかに覗く畳からその向こうが和室だと分かったが、ぱっと見でそういう印象を受けるかといえば違う。そこは、きっと僕がそう理解するよりも明確に、「絵を描く部屋」だ。

——イーゼルだけが立っている。

床から壁までを覆うブルーシートと、こびりついた南国風の絵の具汚れ。

壁際に整然と並んだ小さな棚。

窓から白い光が差す。

棚の上、ちびた色鉛筆で満ちた瓶が、その光を集めて僕の目を射ている。

静かやな、と思った。

静かなその部屋が、僕に何かを問いかけているようだった。

うるさい夏の町の中で、七海さんの部屋は静かだ。


コトン


目の前にグラスが置かれた音で、僕は我に返った。

七海さんはもう一つのグラスを僕の対面に置き、開いた襖の前を遮るように座った。透明な器の中で透明な水が揺れる。くわ、と小さくあくびをした彼女は、あちら側のグラスを手に取ってぼそりと声を発した。

「飲み物何もなかった、ごめんね」

「やっ、全然、ありがとうございます」

七海さんに倣って、そっとグラスに口をつける。氷も入っていないのにひやりと冷たい。

「美味しいです」

七海さんは「水なのに」と言って薄く笑った。

和室からの逆光が彼女の輪郭を背後から白く照らす。僕が後ろについた手が、カピカピの絵の具チューブに当たった。

思い出して顔を上げる。首を傾げた七海さんに、一言尋ねる。

「な、何で今日おらへんかったんですか」

七海さんの顔が固まった。

視線が僕の目から逸れる。唇がはく、と開き、閉じる。喉元まで出てきた言葉を飲み下したかのようだった。

「……あ、言わへんくても」

「いや、うん。うん」

白い手がグラスを持ち上げ、軽く揺らした。ちゃぷん、と水が音を立てる。七海さんは目を細めて、そこに遠く何かを見出すように水面辺りを見つめた。

「透明なのにね」

「え?」

「グラスの水は透明なのにね」

刹那の瞬きが終われば僕を見ている瞳。

「海には色がある。複雑でむつかしい色。……こんな小さな器じゃなくて、深くて大きい海って器だから……」

それは多分、僕が教えたことだった。七海さんが呪文のように唱える様は、まるで小さな子供が、雷様のお話を反芻するみたいだった。

そのせいか。もしかして、彼女が今日いつもの場所に来なかったのは。

僕の視線が何か語っていたのか、七海さんは微笑して首を横に振った。

「違うよ、君のせいじゃない。君が教えてくれたのは、何ていうかむしろ嬉しかったんだ。あたしなんかの言葉、ちゃんと受け取ってくれる人なんてそうそういなかったから」

「……なんか、って」

ぎゅっと眉間に皺が寄った。たまに七海さんがこういう発言をすることがある。自分を卑下するような、周りの人を疑うような。これは少し、やめてほしいと思っている。

不意に額をトン、と押されて、僕は驚いてのけぞった。七海さんが人差し指で僕の眉間の皺を伸ばして、いたずらっぽく笑う。

「やめなよ、幸せが逃げるぞ」

その一言で僕は何も言えなくなってしまって、不貞腐れるようにぷいとそっぽを向いた。視線の先では、山積みになったスケッチブックが雪崩を起こしていた。

「……これまであそこで描いた絵も、ここにあるんですか?」

「うん」

「画用紙とか、水彩とか専門なんや思ってました。油絵とかも描くんですね」

「ん、まぁ描かないこともない——あぁ、そうか」

視線を戻すと、七海さんは心得たとばかりに、親指で背後の和室を——そこに鎮座するイーゼルを指し示した。

「あれ、気になる?」

何と言っていいか分からなかったので、一つこくんと頷いた。七海さんが立ち上がり、伸びをする。彼女は何秒か僕を見つめ、自分を納得させるように頷いた。

「ちょっと待って、今持ってくる」

彼女は猫のような足取りで和室に踏み入り、押入れを開けて探り始めた。しばらくして、何かを取り出す。丁重にそれを手に取った七海さんは、イーゼルの前に立った。コトリ、と何かが置かれる音。

彼女が横に退いたとき、そこにあったのは一枚のキャンバス画だった。

知らない町の風景が鮮やかに描き出されている。細かく描き込まれ、注意深く色を重ねられたそれは、まるで写真のようだ。

けれど。

「……未完成、ですか?」

その絵の半分は、他の完成度と比べれば不自然なほどに真っ白だった。

半分——海の部分だ。その町には広い海があった。

七海さんは緩く頷き、空白部分を指でそっとなぞった。

「描けないの」

「何で」

「分かんないから」

へら、と笑う彼女に、胸のどこかがズキンと痛む。

七海さんはイーゼルからキャンバスを持ち上げ、愛おしそうに眺めた後、優しく抱き締めた。

「……この、町の色はね、ずっと昔に塗ったんだ」

ぽつり、目を閉じた彼女が言う。僕は、ズボンをぎゅっと握り締めて、一回頷いた。

彼女は歌うように続けた。

「美大出る前……実家を出る前にさ。こんなところ早く出てやるって、理想の町を見つけてそこで画廊でもやるんだって、そう思ってた。これはその理想の町。ここには……海があるんだ」

港町育ちの心がどきりとした。

「あたしの実家には海はなかった。それにあたしは七海だからさ、いつかは七つの海を股にかけてやろうって思ってた。だからあたしの理想の町には海があるはずなんだ。そう思って描いた。……でも、塗れなかった」

七海さんはキャンバスを目の前に持ち上げ、悲しげに眉を寄せて目を伏せた。

「分かんなかったから」

目が合う。

「町の色は、町を見て塗れた。でもあたしは、海の色がずっと分からなかった。どうしてそこにあるのか、どういう色なのか。磨り潰して絵の具にもできやしない、あの海の色はどんな色なのか」

耳の奥に響く波の音。僕は、ずっと海のある町で育ってきた。海の立てる音を聞いて生きてきた。だけど海の色になんて目を凝らしたことがなかったな、と思い至った。

僕が見ない海の色を、七海さんはずっと真摯に見つめているのだ。

「深い、深い海。ほんとはないけど、見える色。実際に眺めてみたら描けるのかと思ってた。……でも」

彼女の顔が、諦念の滲んだ苦笑に歪む。

「結局、分かんなかった。今もあたしに、憧れの海は描けない。……器の足りないあたしには」

思わず立ち上がった。ちゃぶ台がガタンと揺れた音が聞こえた。僕は大きく首を横に振って、七海さんの目を睨むくらい力強く見た。

「そないなことないです。描けてたやないですか。海辺で描いてた絵、全部ほんまに綺麗で」

「うん、だからあれは全部嘘。嘘の絵。あたしの薄っぺらな嘘」

にべもなく返された言葉は、むしろ僕の腹にくすぶる炎を一気に燃え上がらせた。

「嘘って何やねん! 七海さんが作るものに、七海さんの嘘も何もないわ! 見たもんとちゃうくて悪いこと一個もないやん! 何でそないなこと言うん⁉」

七海さんが目を見開いた。

一瞬遅れて我に返る。そして自分でも驚いた。こんなに人に対して語気を強めたことは、多分人生で一度もない。人に対してこんなに苛立ったこともない。

――あ、やばい。七海さん傷つけてもうたかも。

後悔しても遅い。へにゃりとしゃがみ込んだ七海さんに、僕は慌てて駆け寄った。畳の縁を飛び越え、その背中を慎重にさする。謝ろうと口を開いたそのとき、引き寄せられて腕に閉じ込められた。その腕は細かった。

僕は動けなかった。というより、動かなかった。ただそのまま、いずれ離れてしまう彼女の体温を、先んじて惜しんでいた。


翌日から放課後のおしゃべりに、今までなかった七海さんの昔話が加わるようになった。

「内陸の田舎町で生まれたんだよ。古臭いところ。女は絵なんて描くな、みたいなさ」

彼女のことを知ることができるのは嬉しかった。僕と同い年くらいの頃の話もたまに聞けたので、学校に七海さんがいる想像をしてみたりもした。でもそうしたらきっと話せることもないので、いなくてよかったと思ってもみた。

「叔父さんがあたしの絵描きを応援してくれてるんだ。美大の金出してくれたり、今も、色々買ってくれたりね。っていうのは、あたしのために買ってくれたりもするし、あたしから買ってくれたりもする、ってことね」

七海さんは家族の話をするとき、努めて明るく振る舞う。その声には陰りが垣間見えた。実家が苦手なのかもしれない。

「……でも、帰ってこいとは言われてる。だから、いつかは帰らなきゃ。でも長居する気はないし、あたしは、あたしの理想の町を探したいから」

七海さんの話の中で、将来の話だけはどうも苦手だった。今より先のことは、あまり考えたくない。今だけでいいと、彼女にもそう思ってほしい自分がいる。

なのに季節は先に進んで、夏の盛りはもうそろそろ過ぎ去っていた。



深い暗闇から糸で引き上げられるように、目が覚めた。

自室の布団の中で、のそりと起き上がる。窓の外はまだ暗い。寝てから多分数時間も経っていない、十分な夜だ。正直、今すぐにでも眠りに落ちていきたい。

けれど。

立ち上がり、カーテンを開ける。窓の外、暗い町を呑み込むように口を開けている海。

虫の知らせというものか、強く強く呼ばれている気がした。


上着を一枚引っかけて、海辺に続く坂道を自転車で滑り降りる。だんだん暗さに目が慣れてきた。波の打つ響きが近づいてくる。重苦しくて無表情な音。けれど今日はいつにもなく耳に障る音だ。

細い道の果て、海沿いの道路に合流した。自転車を止める。

突き当たりに長く広がる堤防の向こうから、海の蠢きが伝わってくる。けれど今日はおかしかった。

何かが。

「おかしい」

口に出してみた言葉は、はっきりとした形を持って静寂の中に漂った。そうだ、静寂。この港町にはありえないくらいの静寂が、今確かにこの空間を満たしている。人の騒めきがない、船も出ていない。なぜ――海?

堤防に自転車を寄せ、手をかけてその上によじ登る。ザリ、とスニーカーが踏みしめたそこから見渡す海は黒々としていていた。何となくいつもと違う色にも感じられて、潮の匂いが濃くて、僕は視線を滑らせて、

砂浜に七海さんが座っていた。


「七海さん!?」


瞬間、サイレンの音が背後からけたたましく押し寄せた。

思わず膝をつく。轟音が背中を押したのだと思った。けれど違った。地面は確かに揺れていた。七海さんが向かうキャンバスがガタンと揺れたのがごく微かに聞こえた。

サイレンが止まらず鳴り響いている。切れ切れの短調、不協和音。堪らなくなって耳を塞いだ。地震のサイレンだ。向こうの電柱のところから鳴り響いている。

「七海さん! 地震!」

叫んだつもりだったが自分でもよく聞こえなかった。七海さんは振り向かない。大きなキャンバスに向かって一心不乱に筆を動かしている。重い風が吹いた、彼女の髪が大きく靡いた。七海さんは顔を上げ海を臨んだが、またすぐに視線を下げた。

「七海さん! 地震やって! そこ危ない! 七海さん! 逃げな!」

七海さんが振り返らない。

堤防を飛び降り、砂浜へ続く道に走った。石の階段を駆け降りる。右足が砂に沈んだ。サイレンがぴたりと止まった。

その瞬間、搔き消されていた音が、ゴウ、と耳に流れ込んできた。

僕はその場に倒れ込んだ。地面がまた揺れたのだと思うが、よく分からない。体を揺らしたその衝撃はもっと違うものだ。

海の音。

海が。初めて聞く声を上げていた。

おどろおどろしい呻き。腹の底で何かがとぐろを巻いているのが、厚い水の層を隔てても分かる。今にも海が根底からひっくり返って動き出しそうな、そんな恐怖。

――これはあかん。これはあかん、あかんあかんあかん!

「七海さん!」

腹の奥から振り絞るように叫んで、走り出した。

忙しなく動く彼女の手、黒い海原と手元を行き来する視線、ぎらついた目、どれ一つとしてこちらに注意を向けない。

振り向いてくれない。

最後の数歩は崩れ落ちるようにして、七海さんのもとに辿り着く。浜に足が沈むのに任せてその肩に縋りつくと、七海さんは手元が狂ったのか「あっ!」と悲痛な声を上げた。

「やめてよ、何すんの!」

「こっちのセリフですよ、何してんですか! 地震!」

「待ってるんだよ!」

「何を!」

「波を!」

僕は絶句した。彼女のキャンバスを見て、さらに何も言えなくなった。

黒々とした海だった。それだけだった。海の黒が広がるだけのキャンバスだった。

その画面の中から、今も聞こえる海の呻き声が重なって響いているような心地さえするほどの、海の黒だった。

「っ七海さん! ええですよこんなん、逃げへんと!」

「良くない、まだ全然足りない! まだ全然、分からない!」

海の色が。確かにそう聞こえた。

――嘘やん。この人、こんなときに海の色とか探してんの。

「ほら全然違う、今まで見てたのと全然違う! あたしはまだ知らなかった! ねぇ」

「地震なんですよ! 津波なんか来たら死にますよ、こんなとこ!」

七海さんの顔を睨みつけようとして、僕は息を呑んだ。

ほのかに青い、大粒の雫が、彼女の頬を濡らしていた。

「海の色が分かりそうなんだよ!」

「分かったから何なんですか!」

彼女は、泣いてはいなかった。風が潮を運んできたのだろう。けれどその雫はもはや、海の一部だなんて思えなかった。

「あたしの行きたいところが分かるの! 海さえあれば理想の町が完成するの! もう、あとちょっとなの!」

「そんなん見なくても描けますよ! 逃げるほうが先でしょ!」

「あたしは描けない、分からないものは描けない! 見るしかないんだってば、波を待ってるんだってば!」

「そしたら死ぬんですって!」

「じゃあそれでいいって言ってやってもいい!」

七海さんのひっくり返った声が泣いている。

肩を上下させる彼女が、せぐり上げるように吐き落とす。

「どこかに行きたいんだよ、どこでもいいからここじゃないどこか、あたしにしかできないことが見つかって、あたしだけの何かがあって、」

痛々しい叫びだった。

僕は呆然として、首を横に振った。ここじゃなければ、死後の世界だったっていいと、そう言うのかこの人は。ここでは彼女には何もなくて、死後の世界で初めて何かが手に入ると。

グッと奥歯を噛み締める。そうとしか思ってくれない七海さんが、そうとしか思わせられない自分が、腹立たしかった。

「もうあるやないですか」

「ないよ」

即答されたのにまた嫌になった。

「あります、僕は知ってます。だって僕と仲良うしてくれるの七海さんだけです。僕を家に上げてくれたのも七海さんだけです。優しい人です。絵だって、あない綺麗に描く人、他に知らんもん。七海さんには特別なとこ、たくさんあります」

冷静に、彼女に届くように言葉を選ぶ。それでも彼女は首を横に振る。

「嘘だよ、嘘つき! どうせ誰も、君だってあたしに興味なんかないんだ! こんなちっぽけなあたし、何もないあたし、何も作れないあたしになんて! 嘘つきは嫌いだよ、大っ嫌い!」


もう、我慢の限界だった。


僕は七海さんに組みついて、背中から砂浜に押し倒した。

見開かれた彼女の目元を両手で覆い、動けないように体の上を跨ぐ。

「ちょっ、何——」

「七海さん、聞いてください」

低い声で言うと、一瞬彼女が息を呑んだ。

「多分、七海さんは目が良すぎるから、何でも目で追ってまうんです。それで周りばっか見て、肝心の自分が分からんのや。……だから、今は何も見ないで」

僕は身を屈めて、泣きそうになる声を必死に保って、一言ずつ言葉を発する。七海さんに届くようにと、願いを込めて。

「聞いて。見たらあかん。聞くだけ……それとも、七海さんには聞こえへんのですか。僕の声も、何も」

七海さんが黙ってしまうと、その場には静寂が残った。

あれだけ大きく恐ろしかった海の音が、僕たちに届かない遠くで響いているのを、ぼんやり聞いた。――ほら、所詮そんなもんや。どれだけ広くて深くても、世界を支配できるくらいとちゃう。

僕たちは静寂の中で、お互いの身動ぐ音だけに耳を澄ませていた。掌から伝わる七海さんの体温。七海さんが頭を小さく振って、長い髪がさらさらと砂を奏でる。七海さんは口元を歪ませて、はくりと息を吐き出した。

「……あたしの心臓が、動いてる」

僕の心臓が一際高鳴った。

そっと、七海さんの目を覆っていた手を離す。薄い涙に濡れて煌めく瞳が、ちろりと動く。

僕は彼女の頭を柔く抱いて、囁くようなかすかさで言った。

「そう。七海さんの全部、最初から七海さんの中にあるんですよ」

七海さんは、ごく小さく頷いた。


やがて僕たちは立ち上がって、体中についた砂を払い落とし、急いで浜から引き上げた。

不思議なくらいに人はいない。津波が来る可能性がある以上、こんな海辺にいるほうが不思議なのかもしれないけど、とにかく砂だらけの僕たちを見た人は一人もいないのではないかと思う。

七海さんは髪を手で梳いていた。まだ砂が残っているらしい。

「あ、ごめんなさいさっきはあんなことして……」

「ううん、いいの。シャワーも浴びたいし、あたし帰るね」

僕に背を向けた彼女が、いつもよりずいぶんさっぱりとした雰囲気を纏っていた。

「あの、」

思わず呼びかける。

「どこに、帰りますか」

七海さんが振り返り、目を細めて微笑む。

「家」

それは、どこの。

その問いかけを、臆病な心臓が喉を通るまでに引き止めた。

彼女は、畳んだイーゼルを脇に抱え、キャンバスを入れた大きな袋を背中に引っかけて、手を振る代わりに首を傾けた。

「じゃあね、奏多くん」


津波は僕たちのいた砂浜にたくさんの漂流物を打ち上げて、去っていった。

日が出るとその日は暑くて、目覚めるのが遅かった人たちは地震のことなんか忘れたように、溌溂とまた日常に励んでいた。


放課後、海辺に七海さんはいなかった。アパートにもいなかった。表札の剥がされた部屋に、僕の押したインターホンはさぞ虚しく響いただろう。

きっと、最後だからあんなに早くから海にいたんだと思う。

僕はあまりにもあっさりと唯一の話し相手を失って、何だか少し拍子抜けした。これまで知らなかった運命の薄情さを知って、びっくりした心地だ。けれどどこか納得している。彼女とはこういう別れになると、どこかで勘づいていたのだろうか。

どこにも彼女のいない町で、僕はまた、ただ一人。

七海さんのことを考えている。

確かにここにいたのに、跡形もない彼女。僕は確かにこの目で見たのに、もうどこにも見つからないあの姿。麦わら帽子、白くないTシャツ、絵の具で汚れた茶色いエプロン。確かにここにあったのに、もう見えない、存在すらしなかったのかもしれないと思ってしまうほど、きれいさっぱり消えてしまった。

掬い上げれば消えてしまう水の色。

僕は七海さんに手を触れてしまったのか。

目に焼きついて離れない彼女は、もう誰にも存在が分からなくなってしまった。

明るい色の長髪、日に焼けていない肌、長い睫毛、注意深く動く瞳。

彼女の声は、僕の心臓と同じくらいの深くから、今も体中に響いている気がする。


進学した中学校は人が多かった。高校は隣町まで通ったが、もっと人が多かった。友達は相変わらずあまりいない。部活は音楽系に入りたかったけど、どこも人が多すぎてやめた。絵の才能は元からない。家の近くの楽器店でアルバイトを始めた。ここはほどよく人が少なくて性に合う。

馬鹿らしい話だが、僕はまだ待っている。彼女がこの町に帰ってくるときを。再び潮が満ちて、七海さんの色が目の前に現れるそのときを。

何回か探しに行こうかと思ったりもしたけど、入れ違いになるのが怖くて、まだこの町からは出られていない。あの呆気ない別れの日のまま、臆病なままの僕だ。けれどそれでいいとも思う。勇気なんて出した瞬間に、僕の鼓動が七海さんの声を打ち消してしまうような気がするから。

七海さん。あの夏の思い出。僕の大切な秘密が、あなたにとっても秘密の逃げ場所だったらいい。

誰の目にも見えずとも、僕の初恋は鮮やかに色づいている。




————茹だるような夏の炎天下。

「平年並み」の意味を忘れていく歳月。

陽炎の立つ海辺の道に、一人の女性が目を細めて海の音を聴いている。

僕はうっかり鞄を取り落とした。

その手にしかと握られた、画面の全てに色が乗って完成された絵画。

僕を見たあなたは、全く色褪せず綺麗なままだった。



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水色を描きたい 白汐世奈 @kura_miru

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