第7話

 宿屋の一室に戻り、軋む木の扉を背中で閉ざした瞬間、外の喧騒がまるで分厚い壁に遮られたかのように遠ざかり、世界から切り離されたような静寂が俺の聴覚を満たした。

 日中の様々な出来事がもたらした精神的な疲労が、どっと身体の芯に沈み込んでくるような感覚。俺は壁に手をつき、しばしその場で呼吸を整えた。部屋の中は、夕闇が流れ込み始めた窓から差し込む、弱々しい残光によって、ぼんやりとした濃淡の世界を形作っている。簡素な寝台、小さな木製の机と椅子。それだけが、この部屋にある全ての家具だ。俺がこの世界に来てから与えられた、最初の私的な空間。元の世界にあった、天井まで届く書架と雑多な資料で埋め尽くされた自室とは似ても似つかない殺風景な場所だが、それでも今は、この誰にも邪魔されない孤独が何よりもありがたかった。


 ゆっくりと机に向かい、硬い椅子に腰を下ろす。ポケットを探ると、ずしりと重い銀貨の感触が指先に伝わってきた。今日一日で手に入れた、俺の労働の対価。アリシアから初仕事の報酬として渡されたものだ。指で一枚をつまみ上げ、窓から射す最後の光にかざしてみる。鈍い銀色の輝き。刻印されているのは、見たこともない王家の紋章か、あるいは神の象徴か。その物質的な重みが、俺がこの『アースガルド』という世界の一員として、確かに存在しているという事実を、冷徹に突きつけてくるようだった。これは、夢でも幻でもない。俺の現実は、今やこの硬貨に象徴される、剣と魔法の世界にこそある。


 俺は銀貨を机の上に置くと、今度は懐から銅製のプレートを取り出した。

 冒険者としての俺の身分を証明する、唯一の札。

 そこには、『ケント』という、俺がこの世界で名乗ることにした名前が、無骨な書体で刻まれている。

 この一枚の金属板が、今の俺の社会的な存在の全てだ。身元不明で、記憶喪失を装う、得体の知れない男。それが、この街における俺の公的な評価に違いない。


 今日一日の出来事が、順序もなく頭の中を巡り始める。思考の断片が、まとまりのない映像となって次々に浮かび上がっては消えていく。


 まずは、夜の森での月光草の探索。アリシアが掲げるランタンの頼りない灯りだけを頼りに、闇の中を進んだあの時の、肌を撫でる冷たい空気の感触。セルフィが精霊の声を聴こうと、神経を研ぎ澄ませていたあの張り詰めた雰囲気。彼女の持つ、自然と調和した繊細な感知能力をもってしても、広大な森の中から特定の魔力溜まりを探し出すのは困難を極めていた。だが、俺は違った。地面にそっと手のひらを置くだけで、その下に広がる巨大な生命のネットワークと、エネルギーの流れを、まるで精密な地図のように読み取ることができた。視覚や聴覚とは全く異なる、直接的な情報の奔流。大地を流れる魔素の分布が、温度差のある色の濃淡として、俺の意識の中に描き出されていく。あの時、俺の脳内に浮かび上がったのは、単なる勘や推測ではない。それは、この世界の法則そのものを俯瞰するような、絶対的なデータだった。結果として、俺たちは依頼を驚くべき速さで達成することができた。アリシアは手放しで喜び、俺の能力を『便利な勘』として好意的に解釈してくれた。だが、セルフィは違った。彼女は、俺が成し遂げたことの本質を、その鋭い感受性で見抜いていたはずだ。彼女が魔法という手段を用いて、必死に探ろうとしていた自然の理。その答えを、俺が全く異なる、そして彼女には全く理解できない方法で、いとも簡単に導き出してしまった。あの時の彼女の、驚愕と、そして魔法使いとしてのプライドを揺さぶられたかのような、複雑な表情。その翠の瞳に灯った強い探求の色を、俺は忘れることができない。


 次に思い起こされるのは、ギルドの換金所での一件だ。あの時は、完全に余計なことをしてしまったと、今でも後悔の念が胸をざわつかせる。前の冒険者が持ち込んだ、二種類の鉱石。俺は、純粋な知的好奇心から、その鉱石に指先で触れた。ただそれだけで、片やほとんど価値のない低品位の鉄鉱石、片や魔術的な武具の素材として重宝される高純度の銅鉱石であるという、両者の本質的な価値の差を、一瞬にして理解してしまった。価値あるものが、その価値を認められずに打ち捨てられる。その状況が、俺の持つ探求者としての性分に、どうしても我慢ならなかったのだ。物事をあるべき形にしたいという、一種の知的潔癖さが、俺に口を開かせた。結果、大柄な冒険者は大金を手にして俺に感謝し、ギルドの鑑定士や周囲の者たちは、俺を『謎の目利きを持つ新人』として強く認識することになった。アリシアは「うちの新人、大したもんだろ!」と得意満面だったが、俺の背筋には冷たい汗が流れるのを感じていた。目立ちたくない。騒ぎは起こしたくない。その俺のささやかな目標が、自らの行動によって、あっさりと崩れ去ってしまった瞬間だった。


 そして、もう一つ。誰にも話していない、俺だけが知っている事実がある。ギルドでの一件が片付いた後、アリシアが俺の功績を称えて、祝いの酒でもおごってやると快活に笑いながら、俺の肩を強く叩いた時だ。その時、彼女の勢いに押された俺の手が、偶然にも、彼女が腰に提げている長剣の柄に触れてしまったのだ。


 ほんの一瞬の接触。


 だが、それだけで、俺の能力『吸収』は無慈悲に発動した。脳内に流れ込んできたのは、その剣に関する、膨大で、そしてあまりにも詳細な情報だった。素材は鋼鉄、ドワーフの名工による作。ここまでは良い。問題は、その後に続いた情報だ。刀身の内部に蓄積された、目には見えない無数の微細な亀裂。ゴブリンとの戦闘で、硬い骨を断ち切った際に生じた金属疲労。そして、数週間前のオーガとの戦闘で、敵の棍棒を受け止めた際に柄の内部に生じた、ごく僅かな歪み。このまま使い続ければ、次の大きな戦闘の際に、致命的な破損を引き起こす可能性が高い。そんな、絶望的な診断結果が、俺の意思とは無関係に、頭の中に叩き込まれてしまった。見た目は、まだ十分に使える頑丈な剣だ。アリシア自身も、自分の相棒とも言えるこの剣の異常には、全く気づいていないだろう。俺は、彼女にこの事実を告げるべきか、一瞬、迷った。


 だが、どう説明すればいい?


 『なんとなく、そんな気がした』とでも言うのか。鉱石鑑定の後では、そんな曖昧な言葉が通用するはずもない。

 俺の能力の異常性を、さらに深く彼女に疑わせるだけだ。

 結局、俺は何も言えず、ただ曖昧に笑ってその場をやり過ごすことしかできなかった。だが、俺の胸の内には、時限爆弾を抱えているような、重苦しい感覚が今も残り続けている。


 これら全ての出来事が、一つの動かしがたい結論を俺に突きつけてくる。俺が手に入れたこの『吸収』と『融合』という力は、単に『便利』だとか『強力』だとか、そういう生易しい次元のものではない。これは、この世界の物理法則や因果律といった、根源的な『理』そのものを無視し、あるいは書き換えるに等しい、規格外の権能なのだ。


 アリシアやセルフィは、今のところ俺の力を好意的に、あるいは興味深く受け止めてくれている。アリシアは、その竹を割ったような性格から、俺の力の危険性よりも、パーティにとっての有用性を重視してくれているのだろう。セルフィは、魔法使いとしての純粋な探求心から、俺という未知の魔法体系を解き明かしたいと考えているのかもしれない。彼女たちのその態度に、俺がどれだけ救われているか分からない。もし、最初に出会ったのが彼女たちではなかったら、俺は今頃、この力に怯えながら、森の奥で誰にも見つからないように息を潜めて生きていたかもしれない。


 だが、この世界の全ての人間が、彼女たちのように寛容であるはずがない。


 俺の脳裏に、この世界で最も大きな権力を持つという組織、『中央教会』の存在が浮かび上がる。彼らは、『聖光神ルーメン』が定めたとされる絶対的な『理』こそが世界の秩序であり、それを維持することを使命としているという。もし、そんな厳格な秩序を重んじる彼らの目に、俺のこの力が触れたらどうなるだろうか。考えるまでもない。それは問答無用で『異端』として断罪されるだろう。神が定めた理を歪め、世界の法則を乱す、危険極まりない存在として。俺の能力は、既存のいかなる魔法体系にも属さない。術式も、詠唱も、精霊への呼びかけも必要としない。ただ、俺が認識し、意図するだけで、現象が書き換わる。それは、彼らの価値観からすれば、神の領域を侵す、最も許されざる『禁忌』に違いない。


 捕縛、尋問、そして、おそらくはその先にあるであろう、過酷な運命。俺は、かつて日本にいた頃に読み漁った、数多の古文書や神話伝承の一節を思い出していた。世界中の神話には、しばしば『理を歪める者』が登場する。神々の秩序に挑み、禁じられた知識に手を伸ばし、世界の法則を書き換えようとした者たち。彼らの末路は、例外なく悲劇的だ。神の怒りに触れて天から追放された者、永遠の苦しみを背負わされた者、そして、その存在そのものを歴史から抹消された者。それらは、俺にとって、もはや空想の物語ではなかった。それは、俺自身に起こりうる、極めて現実的な未来の可能性として、冷たい実感を伴って迫ってくる。


 俺は椅子から立ち上がり、部屋の中を意味もなく歩き始めた。固い床板が、俺の足音を小さく響かせる。この狭い部屋が、まるで檻のように感じられた。外の世界には、俺の理解を超えた法則と、俺を脅かすかもしれない巨大な組織が存在する。その中で、俺はこの規格外の力を抱えて、どう生きていけばいいというのか。


 目立ちたくない。騒ぎはごめんだ。ただ、静かに暮らしたい。


 この世界に転移してきた当初、俺が抱いた願い。それは、元の世界で、誰にも邪魔されずに自室にこもり、自分の知的好奇心を満たすことだけを喜びとしていた俺にとって、ごく自然な望みだった。未知の世界、未知の法則、そして未知の能力。それらを、誰にも邪魔されず、心ゆくまで探求し、解析する。それが、俺にとっての理想の生活のはずだった。


 だが、現実はどうだ。冒険者になり、パーティを組み、依頼をこなす。その過程で、俺は否応なく、この世界の人間と関わり、そして、自分の力を人前で使わざるを得ない状況に追い込まれている。使えば使うほど、俺の異常性は周囲に露見していく。それは、俺が望む静かな生活とは、正反対の方向へと進んでいるのではないか。


 では、どうすればいい? この力を完全に封印し、ただの無力な人間として生きていくか? それは、不可能だ。『吸収』は、俺の意思に関わらず、触れた対象の情報を読み解いてしまう。それに、アリシアの剣のように、仲間が危険に晒されていると知っていながら、それを見過ごすことができるのか。ゴブリンに襲われていた彼女たちを、見捨てることができたのか。俺は、善人ではない。だが、目の前の危機から目を背けられるほど、冷酷にもなりきれない。


 思考が、堂々巡りを始める。使えば危険。使わなければ後悔。その二律背反の狭間で、俺の心は振り子のように揺れ動いていた。


 その時、ふと、俺の脳裏に、数時間前の食堂の光景が蘇った。俺が作り出した香辛料で生まれ変わったスープ。それを口にした時の、アリシアの驚きと喜びに満ちた表情。いつもは感情を表に出さないセルフィの目が、珍しく大きく見開かれた、あの瞬間。彼女たちのあの顔を思い出した時、俺の胸の内に、温かいものが、じんわりと広がっていくのを感じた。


 そうだ。俺は、あの時、確かに感じたのだ。自分の力が、誰かを傷つけたり、圧倒したりするためだけのものではないということを。それは、誰かを純粋に喜ばせ、笑顔にすることができる力でもあるのだと。


 俺が本当に望むもの。それは、ただ一人で研究に没頭する、孤独な平穏ではないのかもしれない。アリシアの快活な笑い声。セルフィの静かだが、確かな存在感。気の置けない仲間と、温かい食事を囲み、他愛もないことで語り合う。そんな、ささやかで、何気ない日常の積み重ね。それこそが、俺がこの異世界で手に入れた、かけがえのない宝物なのではないか。


 ならば、俺が守るべきものは、それだ。そして、この力は、そのためにこそ使うべきなのだ。


 俺は、歩みを止め、一つの決意を固めた。


 この規格外の力は、隠し通す。だが、封印はしない。人々の注目を集めるためではなく、ましてや英雄になるためでも、世界を支配するためでもない。ただ、俺が心を許した、大切な仲間たちの穏やかな生活を守り、そして、その日常を少しだけ豊かにするためだけに、この力を使おう。危険な依頼で、彼女たちが傷つかないように。まずい食事ではなく、美味しいものを食べて、心から笑えるように。ボロボロの剣ではなく、最高の道具で、その身を守れるように。それは、世界を救うような、壮大な物語ではない。ただ、自分の手の届く範囲の、ささやかな幸せを守り抜くための、俺だけの静かな戦いだ。


 そう決めた瞬間、俺の心を重く覆っていた霧のような不安が、少しだけ晴れていくような気がした。進むべき道が、見えた。それは、いばらの道かもしれない。だが、もう迷いはない。


 俺は、部屋の唯一の窓へと近づき、木の窓枠を押し開けた。ひやりとした夜気が、火照った俺の頬を優しく撫でていく。見上げると、そこには、俺の知る月とは少しだけ模様の違う、異世界の月が、静かに浮かんでいた。その青白い光は、まるで俺のささやかな誓いを、天の上から静かに見届けているかのようだった。


 俺は、その月に向かって、誰に言うでもなく、小さく呟いた。


「…さて、と。明日も、早いんだったな」


 明日になれば、また新しい日常が始まる。それは、きっと、今日と同じように、騒がしくて、少しだけ厄介で、そして、かけがえのない一日になるのだろう。俺は、その一日を大切に生きるために、今はただ、休息をとることにした。

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