第5話
月光草の群生地に満ちる、静謐で青白い光は、まるでこの世のものではないかのような幻想的な雰囲気を醸し出していた。俺たちはしばし、その言葉を失うほどの光景に見入っていたが、いつまでも感傷に浸っているわけにはいかない。アリシアが、はっと我に返ったように、手にしたランタンの灯りを絞った。
「…いかんいかん、見とれてる場合じゃなかったな。手早く採取を済ませちまうぞ。依頼主の錬金術師からは、根を傷つけないように、できるだけ丁寧に摘んでほしいと頼まれてる」
彼女はそう言うと、腰のポーチから丈夫そうな革の手袋を取り出してはめ、小さな園芸用のこてのような道具を手に取った。セルフィも無言で頷き、採取の準備を始める。俺もそれに倣い、先日道具屋で購入したポーチから、予備の手袋と、採取した植物を入れるための布袋を取り出した。
俺はしゃがみ込み、目の前で淡い光を放っている一株の月光草を注意深く観察した。地面から伸びる細い茎の先に、三日月にも似た、緩やかな曲線を描く葉が数枚ついている。その葉脈そのものが、青白い光の源となっているようだった。俺は、誰にも気づかれないように、その葉の一枚にそっと指先で触れてみた。
『吸収』。
脳内に、月光草に関するあらゆる情報が流れ込んでくる。『月光草』。ナス科に属する夜光性植物。葉に含まれる『ルナ・フォスフェン』という特殊な有機化合物が、夜間に大気中の魔素と化学反応を起こすことで発光する。根には微弱な麻痺毒を含むが、葉と茎には高い治癒効果があり、特に魔力によって受けた傷の治癒を促進する…。最適な採取時期、土壌からの栄養吸収のメカニズム、そして、この植物が持つ、ささやかな生命の歴史。それら全てが、一瞬にして俺の知識となった。
特に重要だったのは、この植物の魔力伝導性に関する情報だった。月光草は、根を通じて大地から魔素を吸収し、それを葉の『ルナ・フォスフェン』に蓄積させる。つまり、最も薬効成分が凝縮されているのは、茎と葉の付け根の部分だ。アリシアは根を傷つけないようにと言っていたが、より正確には、根から茎へと繋がる、魔力の通り道を断たないことが重要なのだ。
俺は、得た知識を元に、ごく自然な振る舞いを装ってアリシアに助言した。
「アリシア。こいつは、根そのものよりも、茎の根元に近い部分が重要らしい。そこから少し上を、刃物で断ち切るのが一番いいようだ」
「ん? なんだいケント、あんた、薬草にも詳しいのか?」
彼女は意外そうな顔でこちらを見たが、俺が月光草の群生地を発見したという実績が、俺の言葉に説得力を持たせたようだった。彼女は「なるほどな」と頷くと、俺の助言通りに、持っていた短剣で月光草の茎を丁寧に切り取り始めた。セルフィもまた、俺の言葉を聞いていたのか、同じようにして採取作業を進めていく。彼女の視線が、一瞬だけ俺に向けられた。その翠の瞳には、またしても『なぜ、そんなことまで知っているのか』という、静かだが鋭い問いかけの色が浮かんでいた。俺は、その視線に気づかないふりをして、黙々と自分の作業に集中した。
依頼で指定された量を採取し終えるのに、それほどの時間はかからなかった。俺たちは、青白い光を放つ月光草で満たされた布袋を、慎重に革の背負い袋にしまう。その光は布越しにも漏れ出し、俺たちの背中をぼんやりと照らしていた。
帰り道は、行きとは比べ物にならないほど、精神的に楽なものだった。目的を達成したという安堵感もあるが、何より、俺が示した最短ルートを戻るだけなので、道に迷う心配がない。アリシアも上機嫌で、鼻歌交じりにランタンを揺らしながら先頭を歩いている。
「いやー、助かったぜ、ケント! あんたがいなけりゃ、今頃まだ森の中をうろついてたかもしれねえ。まさか、こんなに早く依頼が片付くとは思わなかったな!」
「…運が良かっただけだ」
俺がそう答えると、アリシアは「謙遜するなよ!」と快活に笑った。その屈託のなさが、俺の警戒心を少しだけ和らげてくれる。彼女は、俺の能力の異質さには気づいていながらも、その根源を深く探ろうとはしない。ただ、便利な能力を持つ仲間が加わった、という事実を、純粋に喜んでくれているようだった。その単純さが、今の俺にはありがたかった。
一方、俺の後ろを歩くセルフィは、帰り道もほとんど口を開かなかった。だが、彼女の放つ雰囲気は、行きのそれとは明らかに異なっていた。行きが『監視』と『警戒』であったとすれば、今は純粋な『観察』と、そしてそれを通り越した『探求』のそれに近い。彼女は、俺という存在そのものを、解き明かすべき未知の魔法体系か、あるいは古代の謎めいた遺物のように捉えているのかもしれない。その静かな知的好奇心は、俺にとって、アリシアのあからさまな好意よりも、ある意味ではるかに厄介なものに感じられた。
やがて、森の木々の隙間から、アークライトの街の城壁が姿を現した。東の空が、わずかに白み始めている。俺たちは、夜が完全に明ける前に、街へと帰還することができた。西門の衛兵は、俺たちの姿を認めると、眠そうな目をこすりながらも、軽く片手を上げて労いの言葉をかけてくれた。
◇
俺たちは、宿屋で仮眠をとることもせず、その足で冒険者ギルドへと直行した。早朝のギルドは、夜の喧騒が嘘のように静まり返っていた。まだ活動を開始している冒険者の数は少なく、広いホールは閑散としている。酒場のテーブルを拭き清める従業員の姿や、カウンターの奥で書類を整理している職員の姿が見えるだけだ。空気も、酒の匂いよりは、淹れたての珈琲に似た香ばしい匂いと、床に撒かれたおがくずの匂いの方が強く感じられた。
俺たちが向かったのは、カウンターの中でも『素材買取』と書かれた看板が掲げられている一角だった。そこには、すでに三、四人の冒険者が列を作っていた。彼らもまた、夜通しの依頼を終えて、その成果物を換金しに来たのだろう。その足元には、麻袋や木箱が置かれており、中には様々な種類の鉱石や、魔物のものらしき毛皮、あるいは巨大な牙のようなものが入っているのが見えた。
俺たちもその列の最後尾に並んだ。アリシアが大きなあくびを一つする。
「ふぁ……。さすがに徹夜はちっとばかし堪えるな。さっさと換金を済ませて、宿に戻って一杯ひっかけたいもんだぜ」
「…同感だ」
俺も、緊張の糸が切れたせいか、どっと疲労感が押し寄せてくるのを感じていた。早くこの依頼を終わらせて、部屋で少し休みたかった。
順番を待つ間、俺は手持ち無沙汰に、前の冒険者たちが持ち込んだ素材を何とはなしに眺めていた。それは、俺の知的好奇心を刺激するには十分な光景だった。鱗に虹色の光沢を持つ、巨大なトカゲの皮。内部に微弱な魔力を宿している、半透明のキノコ。そして、俺のすぐ前に並んでいた、熊のように体格のいい男が持ってきた、二種類の鉱石。
男は、二つの大きな麻袋を足元に置いていた。片方の袋からは、石炭のように黒く、鈍い光を放つ鉱石がいくつも覗いている。もう片方の袋には、それよりも一回り小さく、表面が赤みを帯びた鉱石が入っていた。どちらも、俺のいた世界では見たことのない種類の鉱物だ。
探求心とは、厄介なものだ。それは、理性で抑えようとしても、ふとした瞬間に頭をもたげてくる。俺は、周囲に悟られないよう、ごく自然な動きでカウンターに片腕を乗せた。そして、その指先が、まるで偶然であるかのように、前の男が置いていた黒い鉱石の一つに、ほんのわずかに触れた。
一瞬。それだけで十分だった。
『低品位鉄鉱石』。不純物含有率、七割以上。硫黄成分を多く含むため、精錬が困難。武具への加工には適さず、主に建材用の鉄釘などに使用される。市場価値、極めて低い。
冷徹な事実だけが、情報として脳内に記録される。やはり、見た目通りの、価値の低い石ころのようだ。次に俺は、もう一方の赤い鉱石にも、同じように指先を触れさせた。
『高純度銅鉱石』。通称『赤銅』。不純物が少なく、精錬が容易。特筆すべきは、その高い魔力伝導率。魔法を付与する武具や、魔術的な道具の素材として非常に重宝される。市場価値、高い。換金を推奨。
なるほど。こちらは、見かけによらず相当な価値を持つ鉱石らしい。同じように採掘してきたのだろうに、この二つの鉱石には、天と地ほどの価値の差がある。だが、その知識は、専門的な鑑定眼を持つ者でなければ持ち得ないものだろう。おそらく、この鉱石を持ち込んだ大柄な男も、その価値の違いを正確には理解していないはずだ。
やがて、その男の番が来た。彼は二つの麻袋をカウンターの上にどさりと乗せ、鑑定士らしき、眼鏡をかけた初老の職員にそれを突き出した。
「おう、頼む。こいつらの買い取りだ。昨夜、洞窟の奥で見つけたもんだ」
「はいはい、ご苦労様です。では、拝見しますね」
鑑定士は、まず黒い鉱石の袋に手を入れ、そのうちの一つを手に取ると、片眼鏡を目に当てて慎重に調べ始めた。そして、小さなハンマーで軽く叩き、その音を聞いている。しばらくの後、彼は頷いた。
「ふむ。こちらは、低品質の鉄鉱石ですね。残念ながら、あまり良い値はつきません。全部まとめて、銀貨三枚といったところでしょう」
「ちぇっ、そんなもんかよ。まあ、ないよりはマシか」
男は、あからさまにがっかりしたような声を上げたが、専門家の鑑定に異を唱えることはできないようだった。彼がその値段で承諾しようとした、その時だった。
俺は、ほとんど無意識のうちに、口を開いていた。
「…すみません。そちらの赤い石も、一度見てもらってはどうです?」
俺の声に、その場にいた全員の視線が一斉に俺に集まった。大柄な男、鑑定士の老人、後ろに並んでいたアリシアとセルフィ。誰もが、唐突に口を挟んできた俺を、訝しげな目で見ている。
まずい、と思った。また、やってしまった。俺の行動原理は、知的好奇心と、物事をあるべき形にしたいという、一種の知的潔癖さにある。価値のあるものが、その価値を認められずに打ち捨てられている状況が、俺には我慢ならなかったのだ。だが、それは、この世界で目立たずに生きていくという俺の目標とは、真っ向から対立する行動だった。
鑑定士の老人は、少し不快そうに眼鏡の奥の目を細めた。
「…失礼ですが、どちら様ですかな? 今、鑑定の最中なのですが」
「いや、ただの通りすがりだ。だが、その赤い石は、黒い石よりも価値があるように見えたもので」
俺の言葉に、大柄な男が興味を示した。
「ほう? 兄ちゃん、鉱石に詳しいのか? こいつは、黒い奴のついでに拾ってきただけなんだが」
「…詳しいわけじゃない。ただ、そう感じただけだ」
苦しい言い訳だ。だが、一度口に出してしまった以上、後には引けない。俺の様子を見ていたアリシアが、助け舟を出すように、あるいは面白がるように、会話に割って入ってきた。
「まあまあ、そう言わずに見てやってくださいよ、鑑定士さん。こいつ、ケントって言うあたしのパーティの仲間なんですが、ちょっとした目利きでしてね。こいつの言うことなら、あるいは…」
アリシアの言葉が、その場の空気を少しだけ和らげた。鑑定士は、まだ納得のいかない顔つきだったが、高名な『白銀の風』のリーダーの顔を立てないわけにもいかないようだった。彼は一つため息をつくと、面倒そうに赤い鉱石の一つを手に取った。
そして、彼の表情が、変わった。
最初は、ただ片眼鏡で表面を眺めているだけだった。だが、すぐに彼の指が、鉱石の表面を確かめるように何度もなぞり始める。次に、彼は別の道具を取り出した。それは、先端に小さな魔石のようなものがはめ込まれた、音叉に似た器具だった。彼がその器具で鉱石を軽く叩くと、キーン、という澄んだ高い音が、カウンターに響き渡った。その音を聞いた鑑定士の目が、驚きに見開かれた。
「こ、これは…! まさか、高純度の『赤銅』だと…!?」
彼の驚きの声に、周囲がざわめき立った。カウンターの奥にいた他の職員たちも、何事かとこちらを覗き込んでいる。鑑定士は、慌てた様子で天秤を取り出し、鉱石の重さを一つ一つ丁寧に量り始めた。そして、算盤のような道具を猛烈な速さで弾き、最終的な価格を算出する。彼の額には、脂汗が滲んでいた。
「…お客様! こちらの赤い鉱石、全て買い取らせていただくとなると…金貨五枚になります!」
「き、金貨五枚ぃ!?」
今度は、鉱石を持ち込んだ男が、素っ頓狂な声を上げる番だった。金貨一枚が、銀貨百枚に相当する、とアリシアから聞いていた。つまり、銀貨三枚と言われた黒い石ころとは、百倍以上の価値の差があることになる。男は、信じられないというように、自分の持ってきた赤い石と、鑑定士の顔を何度も見比べていた。
「ほ、本当かよ…? じゃあ、あんたの言う通り、こっちの黒いのは…」
「ええ、そちらは、まあ、おまけのようなものですね」
鑑定士は、先ほどまでの尊大な態度が嘘のように、男に対してへりくだった態度をとっている。男は、しばらく呆然としていたが、やがて巨大な金貨の詰まった袋を受け取ると、俺の方に向き直り、その巨体を深く折り曲げた。
「に、兄ちゃん! あんた、すげえな! あんたがいなけりゃ、俺はこの宝の山を銀貨数枚で手放すところだった! 本当に、ありがとうよ!」
彼はそう言うと、金貨の袋の中から一枚を取り出し、俺に無理やり握らせようとしてきた。
「これはお礼だ! 受け取ってくれ!」
「いや、いい。俺は、思ったことを言っただけだ」
俺はその手を固辞した。金は欲しい。だが、これ以上目立つ行動は避けたかった。俺のその態度が、かえって周囲に好印象を与えたのかもしれない。その場にいた他の冒険者たちが、「大した兄ちゃんだ」「あの若さで、只者じゃねえな」などと囁き合っているのが聞こえてくる。
最悪の事態だ。
俺は、内心で舌打ちをした。親切心から、あるいは知的好奇心から起こした行動が、結果的に俺自身を『只者ではない、謎の目利き』として、ギルドの冒険者たちに強く印象付けてしまった。平穏な生活という目標から、また一歩、遠ざかってしまったではないか。
大柄な男が千切れんばかりに頭を下げながら去っていくと、入れ替わりで俺たちの番が来た。鑑定士の老人は、俺に対して、先ほどまでとは全く違う、敬意と好奇の入り混じったような視線を向けていた。
「…さて、お待たせいたしました、『白銀の風』の皆様。ご依頼の品を拝見いたします」
彼の態度は、明らかに以前よりも丁寧になっている。アリシアが、得意満面といった様子で月光草の入った袋をカウンターに置いた。
「どうだ、親父さん! うちの新人、大したもんだろ!」
「…ええ、全くです。驚きました。あれほどの赤銅の原石を見抜くとは…。失礼ですが、ケント様は、どちらでその鑑定技術を?」
鑑定士の問いに、俺は曖昧に言葉を濁すことしかできない。
「…故郷で、少しばかり。大したものではない」
俺のその返答が、ますます俺という存在を謎めいたものとして、彼の目に映したことだろう。
月光草の検品と換金手続きは、すぐに終わった。品質も量も申し分ないということで、依頼の基本報酬に加えて、少しばかりの割増金も支払われた。アリシアは、銀貨の詰まった袋を受け取ると、そのうちの何枚かを俺に手渡した。
「ほらよ、ケント。これが、お前さんの初仕事の取り分だ。貸しは、これで少しは返済できたな!」
彼女はそう言って、悪戯っぽく笑った。俺は、ずしりと重い銀貨の感触を手のひらに感じながら、複雑な心境でそれを見つめた。自分の力で稼いだ、初めての金。だが、その代償として、俺は静かな日常を少しずつ、切り売りしているのかもしれない。
俺たちがギルドを後にしようとした時、それまでずっと黙っていたセルフィが、俺の隣に並び、ぽつりと言った。
「…あなた。一体、何者?」
その問いは、これまでで最も直接的で、そして核心に迫るものだった。彼女の深い森の湖面を思わせる翠の瞳が、真っ直ぐに俺の目を見据えている。その視線から、俺は逃れることができなかった。
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