魔法探偵は嘘を視る~追放された魔術師、事件だけは解けるので王都で名探偵はじめました~
@kuonseiji
禁書庫に散る青い嘘
嘘は色を持つ。
王都の朝は灰色、石畳は汚れた茶、看板の錆は赤茶色。そして今、雨に濡れながら僕たちの事務所に飛び込んできた少女の「助けてください」だけが、真っ白に輝いていた。
「落ち着いて。まずは座って」
僕アルフレッド・ノートは、震える少女に椅子を勧める。相棒のレオン・グレイウィザードは、いつものように窓際で煙草をふかしていた。追放された元宮廷魔術師にしては、妙に落ち着いている。
路地裏に構えた小さな探偵事務所。看板には『何でも相談承ります』とあるが、実際に来るのは浮気調査や失踪人探しばかりだ。王都の裏通りで、日銭を稼ぐ日々。それが僕たちの現実だった。
だが、今日は違う。少女の纏う緊張感が、事務所の空気を一変させていた。
「私の名前はエリス・フィールド。王立禁書庫の見習い司書です」
少女は青ざめた顔で名乗った。亜麻色の髪は雨でぺったりと頭に張り付き、制服のローブは泥で汚れている。制服から察するに、まだ十六、七といったところか。
「今朝、司書長のベルモント様が死んでいたんです。密室で」
レオンの琥珀色の瞳が、僅かに細められた。煙草を持つ手が止まる。
「密室?」
「はい。禁書庫の奥の特別室で、呪いの古書『ネクロノミコン』に触れて......衛兵隊は事故だと言いましたが、でも私が犯人だって......」
エリスの声が震える。僕は彼女の言葉を嘘視で確認する。いや、正確には嘘視を持っているのはレオンだ。僕がこの能力の存在を知ったのは三ヶ月前、彼の探偵事務所で助手を始めてからのことだった。
最初は信じられなかった。言葉に色が見えるなど、そんな魔法があるとは。だが、レオンが何度も的確に嘘を見抜くのを目の当たりにして、否応なく信じざるを得なくなった。
「なぜ君が疑われる?」
「私が最後に司書長と話したのと、特別室の鍵を管理していたから......でも本当に何もしていません!」
その言葉に、レオンの眉が僅かに動いた。彼には見えているのだろう。言葉の縁を走る黒いひび割れが。完全な嘘ではない。だが、何かを隠している。
僕は心の中で溜息をついた。依頼人が嘘をつく。よくある話だ。だが、それが事件を複雑にする。
「時間はどれくらいある?」レオンが振り返る。
「日没までに真犯人を見つけられなければ、私は王都地下監獄に送られます。もう昼を過ぎて......お時間は五時間もありません」
窓の外では雨脚が強くなっている。秋の嵐だった。日没まで五時間。短い。だが、不可能ではない。
レオンは煙草を灰皿に押し付けた。
「報酬は?」
現実的な質問だった。僕たちの事務所は常に金欠だ。レオンは元宮廷魔術師だが、追放された身では年金も出ない。路地裏の探偵稼業で食いつなぐしかない。
「お金はありません。でも…」
エリスは懐から小さな銀の指輪を取り出す。繊細な細工が施されており、中央には青い宝石が嵌め込まれている。
「これは亡くなった母の形見です。魔力増幅の効果があります。質に出せば金貨十枚にはなるはず」
レオンの表情が変わった。彼は指輪を見つめ、何かを思い出すような顔をしていた。その指輪には見覚えがあった。宮廷魔術師団の紋章。彼が三年前に追放される前に身に着けていたものと同じデザインだ。
「...わかった。引き受けよう」
僕は驚いた。レオンは普段、金にならない依頼は受けない。浮気調査でも前金を要求する男が、なぜ?
「本当ですか!」エリスの顔が明るくなる。
「ただし条件がある」レオンは立ち上がる。長身の彼が立つと、小さな事務所がさらに狭く感じられた。「君は僕の指示に従うこと。そして。」
彼は振り返り、エリスを見つめた。その瞳に、危険な光が宿る。まるで獲物を狙う猛禽類のような、鋭く冷たい輝き。
「すべてを正直に話すこと。僕は嘘が嫌いでね」
エリスが身を竦ませる。レオンの声には、何か人を惹きつける魔力があった。追放される前、彼は宮廷一の天才魔術師と呼ばれていた。その力の片鱗が、今も残っている。
威圧感と魅力が同居する不思議な男。それがレオン・グレイウィザードだった。
「は、はい......」
エリスの声が掠れる。彼女もレオンの纏う危険な魅力に気づいているのだろう。
「それと」レオンは僕を見る。「アル、君も来るんだ」
「え、僕も?」
僕は慌てた。現場捜査は苦手だ。血を見るのも嫌だし、死体はもっと嫌だ。書類整理と聞き込みが僕の仕事だと思っていた。
「観察眼が鋭いからな。それに……」
彼は薄く笑った。その笑みには、どこか妖しい魅力があった。まるで秘密を知っている子供のような、無邪気さと狡猾さが混じった表情。
「今回の事件、普通じゃない。魔法が関わっている」
店の扉の鈴が風で揺れる。外では雨が激しくなっていた。雷鳴も聞こえ始める。
「どういう意味ですか?」エリスが尋ねる。
「ベルモント司書長の死因は何と?」
「呪いの書に触れて......魔力が暴走したと聞きました」
レオンは首を振った。黒髪が肩で踊る。
「『ネクロノミコン』は確かに危険な書物だが、あれで人が死ぬには相当な時間がかかる。少なくとも数日、場合によっては数週間。即死など起こりえない」
僕は息を呑んだ。レオンは禁書の知識も豊富だった、元宮廷魔術師だけあって。王国で最も危険とされる魔導書についても、詳しく知っているらしい。
「つまり?」
「つまり…」レオンはマントを手に取る。黒いマントには、かつての地位を示す銀の刺繍が施されていた。今は色褪せているが、それでも威厳を保っている。「これは殺人だ。しかも相当に手の込んだ」
雷鳴が王都に響いた。エリスの顔が青ざめた。
「でも密室だって…….誰も入れないはずです。鍵は三本しかなくて、すべて確認されています」
「密室だからこそ、面白い」レオンの瞳が輝く。それは子供が新しい玩具を見つけたような、純粋な好奇心の光だった。「不可能を可能にするトリック。それこそが魔術師の本領だ」
僕は嫌な予感がした。レオンが興味を示すとき、事件は必ず複雑になる。そして危険も増す。彼の好奇心は時として、常識を超越する。
「それと、エリス嬢」
「は、はい」
「君が隠していることも、すべて話してもらう。でないと救えない」
エリスの表情が強張った。やはり何かを隠している。レオンの嘘視は、確実に何かを捉えているのだろう。
「私は…」
「今すぐでなくてもいい。だが、現場で必要になったときは、必ず話すこと」
レオンの声は優しかったが、その底には有無を言わせぬ強さがあった。
「さあ、時間がない。禁書庫へ向かおう」
レオンは扉に手をかけた。その瞬間、僕は気づいた。彼の左手首に、微かな火傷の痕があることを。それは魔力の暴走で受ける傷…追放の原因となった「事件」の痕跡だった。
三年前、レオンに何があったのか。僕は詳しく知らない。だが、その傷跡が物語っている。彼もまた、過去に大きな失敗を犯したのだ。
「レオン」僕は呼び止める。「本当に大丈夫なのか?禁書庫に行って」
「なぜ?」
「君の過去と関係があるんじゃないか?宮廷魔術師を追放された理由と。」
レオンは振り返った。その瞳には、一瞬だけ影が差した。だが、すぐに消える。
「関係ない。今は依頼人を救うことが先決だ」
だが、僕には分かった。関係大ありだ。レオンが引き受けた理由も、エリスの指輪を見たときの反応も、すべて彼の過去と繋がっている。
外では嵐が吹き荒れている。王都の路地裏から、僕たちは禁書庫へと向かった。
運命の歯車が、静かに回り始める。
そして僕は知らなかった。この事件が、レオンの封印された過去を暴き、僕たち全員を危険に巻き込むことになるとは。
禁書庫で待っているのは、単なる殺人事件ではない。王国を震撼させる、巨大な陰謀の一端だった。
—
雨に打たれながら石畳を歩く間、僕はエリスの横顔を観察していた。彼女は時折振り返り、まるで誰かに追われているような素振りを見せる。その仕草に、僕は違和感を覚えた。
「エリス嬢」レオンが口を開く。「もう少し詳しく話してもらおうか。今朝の出来事を、時系列で」
「はい......」エリスは息を整える。「私は毎朝七時に出勤します。今日もいつものように禁書庫の正面玄関から入って、まず一般閲覧室の魔法灯を点灯して......」
彼女の説明は丁寧だったが、僕には演技めいて聞こえた。まるで事前に準備していた台詞を読み上げているような。
「司書長との最後の会話は?」
「八時頃でしょうか。ベルモント様が特別室で『ネクロノミコン』の研究をするから、午前中は誰も立ち入らせるなと......」エリスの声が震える。「それが最後でした」
レオンの表情に変化はない。だが、僕は気づいた。彼の右手が僅かに痙攣したことを。嘘視の反応…エリスの言葉に嘘が混じっている。
「発見したのは?」
「お昼の十二時です。司書長が昼食に顔を出さないので、心配になって特別室を覗いたら......」エリスは顔を覆う。「床に倒れていて、手には『ネクロノミコン』が」
僕たちは王都の中央街路を歩いている。普段なら商人や貴族の馬車で賑わう大通りも、嵐のせいで人影はまばらだ。雨脚が強くなり、雷鳴も頻繁に響く。
「エリス嬢」レオンが立ち止まる。「君には兄弟がいるか?」
突然の質問に、エリスが戸惑う。
「え?いえ、私は一人っ子です」
「恋人は?」
「そ、そんな......いません」
「では、なぜ君を助けたいと思う人間が他にいないんだ?」
レオンの問いは鋭かった。僕も疑問に思っていたことだ。見習い司書とはいえ、王立禁書庫に勤める彼女なら、もっと有力なコネがあるはず。なぜ路地裏の落ちこぼれ探偵に依頼したのか。
「私には......頼れる人がいないんです」エリスの声が小さくなる。「司書長以外は」
「なぜ?」
「私、実は…」エリスは立ち止まる。雨に濡れた髪が頬に張り付いていた。「私の正体を話さなければならないようですね」
レオンと僕は振り返る。エリスの表情が変わっていた。さっきまでの震える少女の面影はない。代わりに、何か決意めいたものが浮かんでいる。
「私の本名はエリス・ルーンベルク。元子爵家の娘です」
僕は息を呑んだ。ルーンベルク。確か三年前に爵位を剥奪された家だ。
「君の父は。」
「はい。レオン様を告発した貴族の一人です」
雷鳴が轟いた。レオンの表情は変わらないが、その瞳の奥で何かが燃えているのが見える。
三年前の「魔術院爆発事故」。レオンが宮廷魔術師を追放される原因となった事件だ。実験中の魔法陣が暴走し、王立魔術院の東棟が半壊した。幸い死者は出なかったが、レオンは責任を取って追放された。
だが、その裏には政治的な思惑があった。新進気鋭の天才魔術師を疎ましく思う古参貴族たちの策謀。その中心にいたのが、ルーンベルク子爵だった。
「皮肉だな」レオンが呟く。「告発者の娘に助けを求められるとは」
「父の行いは許されないことでした」エリスの声は震えている。「でも、父は既に亡くなりました。爵位剥奪の屈辱に耐えきれず、病に倒れて......」
「だから君は身分を隠して司書になった」
「はい。ベルモント司書長だけが、私の素性を知っていました。彼は父の友人で、私を憐れんで雇ってくださったんです」
パズルのピースが嵌まっていく。エリスが隠していた嘘の正体が見えてきた。
「つまり、君が疑われる理由は他にもあるということか」僕が口を挟む。「身分詐称、経歴詐称。」
「それだけではありません」エリスは俯く。「実は、昨夜司書長と口論になったんです」
レオンの眉が上がった。
「何について?」
「私の将来について......司書長は、もうそろそろ正体を明かして正式に就職するよう勧めました。でも私は拒否しました。ルーンベルクの名前など、もう使いたくないと」
「それで?」
「司書長は激怒されました。『恩知らず』だと......その様子を、何人かの職員に見られてしまいました」
僕は溜息をついた。これで動機も成立してしまう。身分がばれることを恐れた見習い司書が、秘密を知る司書長を殺害…衛兵隊が疑うのも無理はない。
「だから私には、誰も味方がいないんです」エリスの声に絶望が滲む。「ルーンベルクの名前を知られれば、貴族社会からは憎まれ、平民からは軽蔑される。司書仲間たちも、私が身分を偽っていたことを知って距離を置きました」
雨が激しくなってきた。僕たちは近くの軒下に避難する。
「それで、路地裏の探偵に依頼したと」レオンが確認する。
「はい......でも、レオン様が元宮廷魔術師だとは知りませんでした。もし知っていたら」
「依頼しなかった?」
「わかりません......でも、今は必死なんです。明日の朝には地下監獄行きが決まっています」
エリスの言葉に、偽りはないようだった。レオンも嘘視の反応を示さない。
「地下監獄に送られたら、どうなる?」僕が尋ねる。
「正式な裁判までそこで待機です。でも…」エリスの顔が青ざめる。「地下監獄は魔物が出没することで有名です。特に身分を偽った犯罪者は......事故に見せかけて消されることも」
なるほど、時間制限には理由があった。日没までに無実を証明できなければ、エリスの命が危ない。
「わかった」レオンが決断する。「引き受けよう。正式に」
「でも、報酬の件は」
「君の母の指輪、それで十分だ」
レオンは指輪を見つめる。その表情に、複雑な感情が浮かんでいた。
「ただし」彼は続ける。「これ以上隠し事はなしだ。現場で必要になったことは、すべて正直に話すこと」
「はい」
「それと」レオンの瞳が鋭くなる。「僕がなぜこの依頼を引き受けたか、知りたいか?」
エリスが頷く。僕も興味を持った。
「復讐のためだ」
衝撃的な言葉だった。エリスの顔が青ざめる。
「ふ、復讐って......」
「君の父親に対してではない」レオンの声は静かだが、その底に危険な響きがある。「三年前の事件の真相を、僕はまだ諦めていない。君の父親は確かに僕を告発した。だが、それは誰かに操られてのことだった」
「誰に?」
「それを突き止めるためだ。今回の事件は、そのための糸口になるかもしれない」
僕は背筋が寒くなった。レオンの本当の目的は、エリスの救済ではない。自分を陥れた黒幕への復讐。そのための情報収集なのだ。
「でも、安心しろ」レオンは微笑む。その笑みは美しかったが、どこか恐ろしくもあった。「君を救うことが僕の利益にもなる。利害は一致している」
雷鳴が再び響く。嵐は激しくなるばかりだ。
「さあ、行こう」レオンがマントを翻す。「禁書庫で待っているのは、単なる密室殺人じゃない。もっと大きな秘密だ」
僕たちは再び雨の中を歩き出した。王都禁書庫まで、あと十五分ほどの道のりだ。
歩きながら、僕は考えていた。レオンの復讐心、エリスの隠された過去、そして禁書庫で起きた不可解な密室殺人。すべてが複雑に絡み合っている。
そして、最も恐ろしいことは、これらすべてが偶然ではないかもしれないということだった。
誰かが糸を引いている。レオンを禁書庫におびき寄せるために、この事件を仕組んだのではないか。
雨音に紛れて、僕は小さく呟いた。
「罠かもしれないぞ、これは」
だが、レオンには聞こえなかったようだ。彼は前を見つめたまま、獲物を狙う猛獣のような鋭い眼差しで歩き続けていた。
禁書庫の黒い影が、嵐の向こうに見え始めている。
—
王立禁書庫は、王都の北区画に聳え立つ威圧的な建造物だった。黒い石材で築かれた五階建ての塔は、まるで巨大な墓標のように空を睨んでいる。嵐の中でも、建物全体に施された魔法防護結界が青白く明滅し、近づく者を威嚇していた。
「まるで要塞だな」僕は呟いた。
「当然だ」レオンが答える。「ここには王国で最も危険な魔導書が収められている。『悪魔召喚の書』『禁呪大全』『魂縛りの秘法』など、一冊でも悪用されれば、王都が灰燼に帰す」
エリスが正面玄関の重厚な扉に手をかける。扉には複雑な魔法陣が刻まれており、彼女が触れると青い光を放って認証を始めた。
「血液認証、魔力紋様、音声確認の三重ロックです」エリスが説明する。「職員以外は絶対に入れません」
「なるほど」レオンが興味深そうに魔法陣を眺める。「この術式は......第七世代の防護結界だな。三年前はまだ第五世代だったが」
僕は驚いた。レオンの観察眼の鋭さもそうだが、彼がここに来たことがあるという事実に。
扉が重々しい音を立てて開く。中に入ると、まず巨大なエントランスホールが広がっていた。天井は吹き抜けになっており、五階まで螺旋階段が続いている。壁一面には本棚がそびえ、古い羊皮紙の匂いと魔法的な防腐剤の香りが混じり合っていた。
だが、今は異様な静寂に包まれている。普段なら研究者や学生で賑わうはずの館内に、人の気配がない。
「職員は?」レオンが尋ねる。
「事件後、衛兵隊が一時退避を命令しました。今日は特別に許可を得て入館しています」
エリスが先導し、僕たちは螺旋階段を上った。二階、三階を通り過ぎ、四階で止まる。ここが特別書庫のフロアだった。
「これが現場です」
エリスが指し示したのは、廊下の奥にある重厚な扉だった。扉には『立入禁止』の札がかけられ、衛兵隊の封印が施されている。
「中を見る前に」レオンが振り返る。「容疑者について聞かせてもらおう」
エリスは頷き、説明を始めた。
「まず副司書長のマルクス・ドレイク。ベルモント司書長の右腕で、彼の死後は司書長代理を務めています。五十代前半、魔導書研究の第一人者です」
「動機は?」
「昇進への執着でしょうか......ベルモント司書長とは研究方針で対立することが多く、特に『ネクロノミコン』の扱いについては真っ向から意見が分かれていました」
レオンの表情が険しくなる。彼も『ネクロノミコン』については詳しいのだろう。
「次に警備隊長のガロン・スティール。禁書庫の警備を一手に引き受けている元王国騎士です。四十代後半、寡黙で厳格な人物です」
「彼の動機は?」
「最近、警備に関する不祥事の責任を問われていました。貴重な魔導書の一部が紛失する事件があり、ベルモント司書長は警備体制の見直しを検討していたんです。ガロンさんには左遷の噂も......」
興味深い。職を失う恐れがあれば、十分な殺害動機になる。
「三人目は錬金術師のセラフィナ・ロート。禁書庫に魔法薬品や保存用具を納入している商人です。三十代前半、美しいですが少し近寄りがたい雰囲気の女性です」
「動機は?」
「金銭トラブルです。最近、彼女の納入する薬品の品質に問題があり、契約解除を検討されていました。セラフィナさんは禁書庫からの収入に大きく依存していたので......」
なるほど。経済的な動機も十分だ。
「最後に学者のオリヴァー・グレン。魔導書研究の若手研究者で、二十代後半です。ベルモント司書長の弟子でもありました」
「弟子が師匠を?」
「最近、研究の成果を巡って対立していたんです。オリヴァーさんは『ネクロノミコン』の危険性を過小評価する論文を発表しようとしていましたが、司書長は強く反対していました」
四人の容疑者。それぞれに動機がある。だが、レオンの表情を見ると、まだ何か足りないものがあるようだった。
「エリス嬢」レオンが口を開く。「君自身のアリバイは?」
「事件発生時刻の午前十時から十一時頃は、一階の一般閲覧室にいました。数人の学生が証言してくれるはずです」
「確実なアリバイだな」
僕は安心した。依頼人にアリバイがあるなら、話は単純になる。
だが、レオンの次の言葉で、その安心は打ち砕かれた。
「ところで、特別室の鍵は本当に三本だけか?」
エリスの顔が青ざめる。
「え、ええ......司書長、私、それに予備の鍵が金庫に」
「予備の鍵の管理者は?」
「マルクス副司書長です」
「他には?」
「他には......いえ、ありません」
レオンの右手が微かに痙攣した。嘘視の反応だ。エリスは嘘をついている。
「エリス嬢」レオンの声が低くなる。「隠し事はなしと言ったはずだが」
「私......」エリスが震え始める。
「実は、もう一本ある。そうだろう?」
エリスは観念したように頷いた。
「はい......実は、秘密の合鍵があります。司書長が私に託したものです」
「なぜ隠した?」
「それを知られたら、完全に私が犯人だと思われてしまうから......」
僕は頭を抱えた。これで依頼人も容疑者リストに加わってしまう。
「まあいい」レオンが肩を竦める。「とりあえず現場を見よう」
エリスが封印を解く。衛兵隊から特別許可を得ているらしい。扉が開くと、重苦しい空気が流れ出した。
特別室は意外に小さな部屋だった。窓はなく、魔法灯の青白い光だけが室内を照らしている。壁一面に本棚が設置され、中央には重厚な木製の机が置かれていた。
そして、その机の前の床に。
「うっ」僕は顔を背けた。
チョークで人型が描かれている。司書長の遺体はすでに運ばれているが、床には血痕がまだ残っていた。机の上には、問題の『ネクロノミコン』が開かれたまま置かれている。
「触るな」レオンが警告する。「あの書物は本当に危険だ」
僕は注意深く室内を観察した。まず気づいたのは、妙に甘い香りだった。腐敗臭ではない。もっと人工的な、薬品のような匂い。
「この匂いは?」
「防腐剤でしょうか」エリスが答える。「魔導書の保存に使います」
だが、レオンは首を振った。
「これは防腐剤じゃない。もっと特殊な薬品だ」
彼は鼻を鳴らし、匂いを分析している。さすが元宮廷魔術師、薬学の知識も豊富らしい。
「机の位置がおかしい」僕が指摘する。
確かに、机が微妙に壁から離れている。普通なら壁にぴったりつけるはずだ。
「それに、床の埃の具合も不自然だ」レオンが加える。「誰かが最近この部屋の配置を変えている」
僕たちは慎重に室内を調べた。窓はないが、換気用の小さな格子がある。だが、人が通れるような大きさではない。
「完全な密室だな」僕が確認する。
「いや」レオンが格子を指さす。「あの格子、微妙に歪んでいる」
確かに、金属の格子が僅かに曲がっていた。まるで内側から強い力で押されたような跡がある。
「でも、人は通れませんよ」エリスが言う。
「人は、な」レオンが意味深に呟く。
その時、廊下から足音が聞こえてきた。複数の人間が階段を上ってくる音だ。
「誰かが来ます」エリスが慌てる。
扉の向こうから声が聞こえた。
「エリス!ここにいるのは分かっている」
男性の怒鳴り声だった。続いて、女性の声も聞こえる。
「まったく、なぜあの娘に現場検証を許可したのか」
「副司書長です」エリスが青ざめる。「マルクス・ドレイク、それに錬金術師のセラフィナも......」
レオンの表情に、獰猛な笑みが浮かんだ。まるで狩りの時間が始まったことを喜んでいるような。
「ちょうどいい。容疑者が向こうから来てくれた」
扉が勢いよく開かれた。最初に入ってきたのは、五十代前半の痩せた男性だった。鋭い眼光と高い鼻、薄くなった髪を後ろに撫で付けている。学者然とした外見だが、その表情には明確な敵意があった。
「マルクス・ドレイク副司書長だ」エリスが小声で紹介する。
「エリス・フィールド!」マルクスが怒鳴る。「君は一体何をしているんだ。現場を荒らすつもりか」
「いえ、そんなつもりは……」
「黙りなさい」
続いて入ってきたのは、三十代前半の美しい女性だった。黒髪を後ろで束ね、深緑のローブを着ている。顔立ちは整っているが、その瞳には冷たい光があった。錬金術師セラフィナ・ロートだろう。
「それにしても」セラフィナが嫌味っぽく言う。「身分を偽って就職した娘が、今度は現場荒らしですか。呆れますわ」
エリスが身を縮める。どうやら、彼女の正体は職員の間では既に知られているらしい。
「君たちは?」マルクスが僕たちを睨む。
「探偵だ」レオンが答える。「エリス嬢に依頼されてね」
「探偵?」マルクスが鼻で笑う。「こんな場末の……」
彼の言葉が途中で止まった。レオンの顔をまじまじと見つめている。
「君は......まさか」
「レオン・グレイウィザードだ」
静寂が部屋を支配した。マルクスの顔が青ざめ、セラフィナも息を呑む。
「元宮廷魔術師の......」マルクスが呟く。
「そうだ。三年前に追放された落ちこぼれ魔術師だよ」レオンが自嘲気味に言う。「だが、事件を解くくらいはまだできる」
その時、さらに足音が聞こえた。今度は重い軍靴の音だ。
現れたのは、四十代後半の筋骨たくましい男性だった。元騎士らしく背筋が伸び、顔には数本の傷跡がある。警備隊長ガロン・スティールだった。
「騒がしいと思ったら」ガロンが低い声で言う。「何の騒ぎだ」
最後に現れたのは、二十代後半の青年だった。茶色の髪に眼鏡をかけ、学者らしい物腰をしている。だが、その表情には明らかに動揺があった。
「オリヴァー・グレンです」エリスが紹介する。
これで容疑者が全員揃った。四人はそれぞれ異なる反応を示している。マルクスは警戒、セラフィナは軽蔑、ガロンは無関心、オリヴァーは困惑。
だが、レオンの表情は違っていた。彼は四人を順番に見回し、まるで品定めをするような眼差しを向けている。
「さて」レオンが口を開く。「全員揃ったところで、少し話を聞かせてもらおうか」
「何の権限があって」マルクスが抗議しかける。
「エリス嬢から正式に依頼を受けた探偵としてだ」レオンが遮る。「それに、君たちも真犯人が捕まることを望んでいるだろう?」
「当然です」セラフィナが冷ややかに答える。「ですが、身分詐称の犯罪者が雇った怪しげな探偵に協力する義理はありません」
「怪しげな、か」レオンが薄く笑う。その笑みには、どこか危険な魅力があった。「確かに僕は追放された身だ。だが、魔術的な事件を解く能力だけは、まだ衰えていない」
彼は振り返り、特別室の中を指差す。
「例えば、この部屋の匂い。君たち、気づいているか?」
四人が顔を見合わせる。
「防腐剤の匂いでしょう?」オリヴァーが答える。
「違う」レオンが首を振る。「これは『魂縛りの薬』の匂いだ。非常に特殊な錬金術製品で、魂を一時的に物質に固定する効果がある」
セラフィナの表情が変わった。明らかに動揺している。
「そんな薬品、禁書庫では使用していません」マルクスが反論する。
「使用していないはずなのに、なぜ匂うのか?」レオンの瞳が光る。「それが今回の事件の鍵だ」
僕は感心した。レオンの推理は既に始まっている。だが、彼の真の狙いは別のところにあるのも分かった。容疑者たちの反応を観察し、嘘視で真実を見極めようとしている。
「まあ、詳しい話は後にしよう」レオンが手を上げる。「まずは簡単な質問から。一つずつ答えてもらいたい」
「質問の内容は?」ガロンが警戒する。
「簡単なことだ。事件当日の朝、午前十時頃の君たちのアリバイを確認したい」
レオンは最初にマルクス副司書長に向き直った。
「マルクス副司書長、君は午前十時頃、どこにいた?」
「私の執務室にいました」マルクスが答える。「月末の予算書類を整理していました」
「誰か証人はいるか?」
「いえ、一人で作業していました」
レオンの表情に変化はない。嘘視の反応もないようだ。真実を述べているらしい。
「次に、セラフィナ女史」
「私は工房にいましたわ」セラフィナが答える。「新しい防腐剤の調合をしていました」
「証人は?」
「助手のトムがいました。彼が証言してくれるでしょう」
これも嘘の反応はない。だが、僕は違和感を覚えた。先ほど彼女は『魂縛りの薬』の存在に動揺していた。何かを隠しているはずだ。
「ガロン隊長はどうだ?」
「見回りをしていた」ガロンが簡潔に答える。「禁書庫の外周を警備するのが日課だ」
「具体的なルートは?」
「正面玄関から時計回りに建物を一周。所要時間は約一時間」
「目撃者は?」
「通りがかりの市民が何人かいた。だが、名前は知らん」
これも真実のようだ。だが、外周警備なら室内の様子は分からない。アリバイとしては弱い。
「最後にオリヴァー君」
「僕は......」オリヴァーが躊躇する。「僕は図書館にいました。資料調査のため」
「王立図書館か?」
「はい。司書の方が証明してくれます」
これで四人全員のアリバイを確認した。だが、レオンは満足していないようだった。
「なるほど」レオンが頷く。「では、もう少し踏み込んだ質問をしよう」
彼は再びマルクスに向き直る。
「マルクス副司書長、君は司書長の死を知って、最初に何を考えた?」
「何を......?」マルクスが困惑する。
「率直な感想でいい」
「そうですね......まず、『ネクロノミコン』の危険性を軽視していた司書長への怒りでしょうか」
僕は驚いた。死んだ上司への怒り?普通なら悲しみや驚きを表すはずだ。
「怒り?」レオンが興味深そうに聞き返す。
「はい。私は以前から『ネクロノミコン』の研究は危険すぎると警告していました。ですが、司書長は聞く耳を持たなかった。結果がこれです」
マルクスの言葉には、確信に満ちた響きがあった。だが、レオンの右手が微かに痙攣する。嘘視の反応だ。
「君は司書長が『ネクロノミコン』で死んだと信じているのか?」
「当然です。他に考えられません」
再び嘘視の反応。マルクスは嘘をついている。彼は司書長の本当の死因について、何かを知っているのだ。
レオンは続いてセラフィナに向かう。
「セラフィナ女史、君が最後に司書長と話したのはいつだ?」
「一週間ほど前です」セラフィナが答える。「契約更新の話し合いでした」
「その時の司書長の様子は?」
「いつも通り高圧的でした」彼女の声に苛立ちが滲む。「私の商品に文句をつけて、値下げを要求してきました」
「値下げを受け入れたのか?」
「仕方なく......」
「君は司書長を恨んでいたか?」
セラフィナの表情が強張る。
「恨むなんて......商取引の範囲内です」
レオンの眉が上がった。嘘視の反応があったのだろう。セラフィナは司書長を恨んでいた。
「ところで」レオンが続ける。「『魂縛りの薬』について詳しいか?」
「そ、そんなもの知りません」
明らかな動揺だった。レオンの嘘視も反応しているはずだ。
「本当に?君は錬金術師だ。あの薬品について全く知識がないとは考えにくいが」
「禁止されている薬品には手を出しません」
「誰が禁止していると言った?」
セラフィナが口ごもる。レオンの誘導尋問にかかったのだ。
「『魂縛りの薬』は確かに危険だが、禁止薬物ではない。君が知らないはずがない」
「......」セラフィナは沈黙する。
レオンはガロンに向き直る。
「ガロン隊長、最近禁書庫で不審な出来事はなかったか?」
「不審な出来事?」
「侵入者、紛失事件、職員の不審な行動何でもいい」
ガロンは少し考えてから答えた。
「先月、夜間に奇妙な音がしたことがある」
「どんな音だ?」
「金属音。まるで何かを削っているような......」
「調べたのか?」
「もちろんだ。だが、何も見つからなかった」
「その音が聞こえたのは何階だ?」
「この四階......特別書庫のあたりだった」
興味深い情報だ。何者かが夜間に特別書庫で作業をしていた可能性がある。
「他には?」
「司書長が最近、頻繁に外出していた」
「外出?」
「週に二、三回は昼間に出かけていた。理由は聞かされていない」
これも新しい情報だった。司書長の行動パターンの変化。事件の背景に関わっているかもしれない。
最後にレオンはオリヴァーに向かう。
「オリヴァー君、君と司書長の研究上の対立について聞かせてもらおう」
「対立というほどでは......」オリヴァーが困惑する。
「『ネクロノミコン』の危険性評価を巡る論争だ。詳しく聞かせてもらいたい」
オリヴァーは眼鏡を外し、レンズを拭き始めた。緊張の表れだろう。
「僕の研究では、『ネクロノミコン』の危険性は従来考えられていたより低いことが分かったんです」
「根拠は?」
「魔力測定の結果です。確かに強力な魔導書ですが、適切な防護措置を取れば安全に扱えます」
「司書長は反対した?」
「はい......頑固な方でした。新しい理論を受け入れようとしない」
「君は司書長の考え方を時代遅れだと思っていたか?」
オリヴァーが躊躇する。
「......そう思っていました」
嘘視の反応はない。真実を述べている。
「司書長がいなくなれば、君の研究は進めやすくなる?」
「そんな......」オリヴァーが慌てる。「僕は師匠を尊敬していました」
今度は嘘視の反応があった。オリヴァーは司書長への複雑な感情を隠している。
レオンは四人を見回した。
「最後に、全員に同じ質問をしよう」
彼の声が低くなる。まるで獲物を狙う猛獣のような、危険な響きがあった。
「君たちの中に、司書長を殺したいと思ったことがある者はいるか?」
静寂が部屋を支配した。四人の顔が強張る。
「そんな質問に答える義務はありません」マルクスが抗議する。
「確かに」レオンが頷く。「では、質問を変えよう。司書長の死を知って、心のどこかで『良かった』と思った者はいるか?」
再び静寂。だが、今度は違った。四人の表情に、微妙な変化が現れていた。
マルクスは顔を背ける。セラフィナは唇を噛む。ガロンは無表情を保とうとしているが、瞳の奥で何かが揺れている。オリヴァーは眼鏡を握りしめている。
「誰も答えないか」レオンが呟く。「だが、表情が雄弁に物語っている」
その時、廊下から新たな足音が聞こえた。今度は複数人の重い足音だ。
「衛兵隊です」エリスが青ざめる。
現れたのは、三人の衛兵だった。先頭の隊長らしき男性が口を開く。
「エリス・フィールド、時間だ。王都地下監獄への護送を開始する」
「待ってください」僕が慌てる。「まだ調査の途中です」
「日没までと言ったはずです」隊長が窓の外を指す。
確かに、空は既に夕焼けに染まっている。時間が過ぎるのが早すぎる。
「あと一時間だけ」レオンが交渉する。
「だめです。命令は絶対です」
衛兵たちがエリスを取り囲む。彼女の顔は絶望に染まっていた。
「レオン様......」エリスが震え声で呼ぶ。
レオンは振り返り、彼女を見つめた。その瞳に、決意の光が宿る。
「心配するな」彼が静かに言う。「真犯人は既に分かっている」
四人の容疑者が息を呑む。僕も驚いた。もう犯人が分かったのか?
「ただし」レオンが続ける。「決定的な証拠を掴むのに、もう少し時間がかかる」
「証拠なしに犯人が分かるとは?」マルクスが疑う。
「簡単なことだ」レオンが薄く笑う。その笑みは美しく、そして恐ろしかった。「僕には特別な能力がある。嘘を見抜く力だ」
静寂が部屋を支配する。だが、今度は今までと質が違っていた。恐怖の静寂だった。
「君たちの中の誰かが、さっきの質問で嘘をついた。それが決め手だ」
レオンの瞳が四人を順番に見据える。その視線を受けた者は、皆身を竦ませた。
「明日の朝、僕がエリス嬢の無実を証明してみせる。そして真犯人を暴く」
衛兵隊長が首を振る。
「約束できません。規則は規則です」
「ならば」レオンの声に魔力が込められ
る。「賭けをしよう」
空気が震えた。レオンの魔力は追放後も衰えていない。むしろ、制約の中で研ぎ澄まされているようだった。
「賭け?」衛兵隊長が警戒する。
「明日の朝までにエリス嬢の無実を証明できなければ、僕も共犯として逮捕されても構わない」
「レオン!」僕が慌てる。「何を言っているんだ」
だが、レオンは構わず続ける。
「ただし、真犯人を突き止めた場合は、君たちは僕に協力する。どうだ?」
衛兵隊長は迷った。元宮廷魔術師の申し出を無下にはできない。
「......分かりました。ただし、夜明けまでです。それ以上は待てません」
「十分だ」
エリスがほっと息をつく。だが、僕の不安は増すばかりだった。レオンは何を考えているのか。本当に犯人が分かっているのか、それとも時間稼ぎなのか。
「それでは、明日まで失礼します」
衛兵たちが去っていく。容疑者四人も、それぞれ不安そうな表情でその場を離れた。
特別室に残されたのは、僕たち三人だけだった。
「レオン」僕が詰め寄る。「本当に犯人が分かったのか?」
「ああ」レオンが頷く。「だが、まだ確証が足りない」
「誰なんです?」エリスが震え声で尋ねる。
レオンは振り返り、彼女を見つめた。
「それは明日のお楽しみだ」
—
夜が更けていく中、僕たちは禁書庫に留まって捜査を続けていた。エリスは衛兵隊の監視下に置かれているが、レオンの交渉により現場での調査は許可された。
「アル」レオンが振り返る。「さっきの聞き取りで気づいたことはあるか?」
僕は思い返しながら答えた。
「マルクス副司書長の反応が気になった。司書長の死因について嘘をついているように見えた」
「他には?」
「セラフィナが『魂縛りの薬』について知識を隠している。それに、ガロンの証言した夜間の金属音も気になる」
「よく観察している」レオンが頷く。「だが、最も重要なポイントを見逃している」
「何だ?」
レオンは特別室の中央に歩み寄り、床に残された血痕を指差した。
「司書長の倒れていた位置だ。なぜここなのか考えてみろ」
僕は部屋を見回した。机は部屋の奥、入口から最も遠い場所にある。『ネクロノミコン』も机の上に置かれている。
「普通に考えれば、司書長は机で『ネクロノミコン』を読んでいて、魔力に当てられて倒れた。そう見える」
「そうだ。だが、それが罠だ」
「罠?」
レオンは床を指差す。
「血痕の形を見ろ。司書長が倒れた時の頭の向きは?」
僕は血痕を注意深く観察した。確かに、頭部からの出血パターンが見て取れる。
「頭は......入口の方を向いている」
「そうだ。つまり、司書長は机に向かって座っていたのではない。入口の方を見ていた時に倒れたんだ」
なるほど、言われてみれば確かにおかしい。『ネクロノミコン』を読んでいたなら、机の方を向いているはずだ。
「では、なぜ『ネクロノミコン』が机に?」
「犯人が後から置いたんだ」レオンの瞳が鋭くなる。「事故死に見せかけるために」
エリスが息を呑む。
「つまり、これは明確な殺人だと?」
「間違いない。司書長は入口で誰かと対峙していた時に殺された。その後、犯人が『ネクロノミコン』を机に置いて偽装工作をした」
僕は背筋が寒くなった。これは単純な密室殺人ではない。計画的で巧妙な犯行だ。
「だが」レオンが続ける。「犯人は一つミスを犯した」
「何を?」
「机の位置だ。司書長を移動させる時間はなかったので、『ネクロノミコン』の位置で辻褄を合わせようとした。だが、机を動かしすぎた」
確かに、机は不自然に部屋の中央寄りに置かれている。
「つまり、犯人は司書長と対面していた。ということは」
「内部犯行だ」レオンが断言する。「司書長が警戒を解くほど親しい人物。つまり、四人の容疑者の中にいる」
僕は四人の顔を思い浮かべた。マルクス、セラフィナ、ガロン、オリヴァー。この中の誰かが殺人犯だ。
「では、犯人は?」
レオンは窓際に歩み寄り、外を見つめた。雨はまだ降り続いている。
「現時点では、マルクス副司書長が最も怪しい」
「根拠は?」
「まず、動機。司書長の地位を狙っていた。次に、機会。副司書長なら自由に特別室に出入りできる。そして」
レオンが振り返る。
「嘘視の反応だ。彼は司書長の本当の死因について知っている。なのに、『ネクロノミコン』による事故死だと嘘をついた」
なるほど、確かに状況証拠は揃っている。
「だが、まだ決定的な証拠がない」レオンが続ける。「物証を見つけなければならない」
その時、廊下から足音が聞こえてきた。誰かがこちらに向かってくる。
「隠れろ」レオンが指示する。
僕たちは書棚の陰に身を潜めた。特別室の扉が静かに開かれる。
現れたのは、マルクス副司書長だった。
彼は辺りを見回し、誰もいないことを確認すると、机に近づいた。そして、引き出しを開けて何かを探し始める。
「やはりな」レオンが小声で呟く。
マルクスは引き出しから小さな瓶を取り出した。中には透明な液体が入っている。月光の下で、それは微かに青く光っていた。
『魂縛りの薬』だ。
マルクスはその瓶を懐にしまい込むと、足早に部屋を去っていく。
「証拠隠滅だ」レオンが立ち上がる。「やはり彼が犯人だったか」
僕も安心した。これで事件は解決だ。
だが、レオンの次の言葉で、その安心は吹き飛んだ。
「いや、待て。何かおかしい」
「何が?」
「タイミングが良すぎる」レオンが眉を寄せる。「なぜ今になって証拠隠滅を?僕たちが現場にいることは分かっているはずなのに」
確かに、不自然だった。もっと早く処分するか、あるいは僕たちがいない隙を狙うべきだ。
「まさか」僕が気づく。「僕たちに見せるため?」
「その可能性が高い」レオンが頷く。「つまり、マルクスは真犯人ではない。真犯人が彼を嵌めようとしている」
事件は振り出しに戻った。いや、それ以上に複雑になった。
「では、真犯人は?」
レオンは再び四人の顔を思い浮かべているようだった。
「セラフィナの可能性もある。『魂縛りの薬』について詳しく知っていた。それに、司書長への恨みもある」
「動機は十分だ」
「だが、彼女には決定的な弱点がある」
「何?」
「アリバイだ。助手のトムが証言してくれると言っていた。確認してみよう」
僕たちは禁書庫を出て、セラフィナの工房に向かった。王都の錬金術師街は夜でも活気があり、あちこちで実験の光が明滅している。
セラフィナの工房は、通りの奥にある三階建ての建物だった。一階が作業場、二階が居住スペース、三階が貯蔵庫になっている。
「トムはいるか?」レオンが工房の扉を叩く。
出てきたのは、二十代前半の青年だった。痩せ型で、薬品の匂いが染み付いている。
「セラフィナ様の助手のトムです」
「君に聞きたいことがある」レオンが単刀直入に切り出す。「昨日の午前十時頃、セラフィナはここにいたか?」
トムは困惑した表情を見せた。
「昨日の午前中......セラフィナ様は確かにいらっしゃいました」
「確実か?」
「はい。一緒に防腐剤の調合をしていました」
アリバイは確実らしい。セラフィナの線は薄くなった。
「ちなみに」レオンが追加で尋ねる。「『魂縛りの薬』について知っているか?」
トムの表情が強張る。
「そ、そんなもの......知りません」
明らかな動揺だった。彼は嘘をついている。
「本当に?」レオンが詰め寄る。「君の師匠は錬金術師だ。危険な薬品について教わらないはずがない」
「だから、知りませんって......」
その時、二階から声が聞こえた。
「トム、誰と話しているの?」
セラフィナが階段を降りてくる。僕たちを見て、表情を曇らせた。
「あら、探偵さんたち。こんな夜中に何の用事?」
「君のアリバイを確認していた」レオンが答える。「トム君が証言してくれた」
「そう」セラフィナが微笑む。だが、その笑みは作り物だった。「当然ですわ。私に疑いをかけるなんて、失礼な」
レオンはトムを見つめる。
「最後に一つ聞かせてもらおう。昨日、セラフィナは工房から一歩も出なかったか?」
「え?」トムが戸惑う。
「簡単な質問だ。イエスかノーかで答えてくれ」
トムがセラフィナを見る。彼女の表情が険しくなった。
「出ませんでした」トムが答える。
だが、レオンの右手が痙攣する。嘘視の反応だ。
「なるほど」レオンが微笑む。「ありがとう、トム君。とても参考になった」
僕たちは工房を後にした。外に出ると、レオンが振り返る。
「セラフィナも怪しい。トムは嘘をついていた」
「つまり、彼女は工房を出ていた?」
「その可能性が高い。アリバイが崩れれば、彼女も容疑者だ」
事件は混迷を深めていく。マルクスも、セラフィナも、それぞれに疑わしい点がある。
「残りはガロンとオリヴァーだ」僕が言う。
「ガロンは外周警備をしていたと言った。確認してみよう」
僕たちは禁書庫周辺を歩き回り、近所の住民に聞き込みをした。すると、興味深い証言が得られた。
「ガロンさん?ああ、昨日の朝も見ましたよ」パン屋の主人が答える。「いつも通り、建物の周りをぐるぐると」
「時間は覚えているか?」
「十時頃でしたかね。でも」
「でも?」
「途中で姿が見えなくなったんです。普通は一時間かけてゆっくり回るのに、三十分ほどで戻ってきました」
これも気になる証言だ。ガロンが予定より早く警備を終えた理由は何か。
最後にオリヴァーの行動を調べた。王立図書館に確認すると、確かに彼は一日中資料調査をしていたという。司書も覚えていた。
「オリヴァーさんは熱心な方です」司書が証言する。「昨日も朝から晩まで古文書と格闘していました」
これで四人の容疑者のアリバイを再検証した結果:
- マルクス:一人で執務室にいたと主張。証人なし。
- セラフィナ:工房にいたと主張。だが、助手の証言に矛盾あり。
- ガロン:外周警備をしていたと主張。だが、普段より早く終えている。
- オリヴァー:王立図書館にいたと主張。司書が証言。
「オリヴァーのアリバイが最も確実だな」僕が結論する。
だが、レオンは首を振った。
「いや、それも怪しい」
「なぜ?」
「考えてみろ。なぜオリヴァーだけが完璧なアリバイを用意できたのか?まるで事前に準備していたかのようだ」
確かに、他の三人は曖昧な証言だったのに、オリヴァーだけは証人までいる。
「つまり、計画的犯行の可能性が高いということか」
「その通りだ」レオンが頷く。「真犯人は、最初からアリバイ工作を考えていた」
僕たちは禁書庫に戻った。もう深夜を過ぎている。夜明けまで、あと数時間しかない。
「レオン」僕が心配になる。「本当に間に合うのか?」
「大丈夫だ」レオンが振り返る。「真犯人の正体は、ほぼ確信している」
「誰なんだ?」
だが、レオンは答えなかった。代わりに、特別室の中を再び調べ始める。
「まだ見落としがあるはずだ。決定的な証拠を」
その時、僕は気づいた。床の埃のパターンが微妙に変わっていることを。
「レオン、これを見てくれ」
僕が指差した場所には、靴跡のような痕があった。だが、それは僕たちや容疑者のものではない。もっと小さく、女性のもののようだった。
「エリス嬢の靴跡か?」
「いえ」エリスが首を振る。「私はもっと大きな靴を履いています」
レオンが靴跡を詳しく調べる。
「これは......高級な革靴だ。貴族が履くような」
新しい手がかりが現れた。事件には、まだ知られていない人物が関わっている可能性がある。
「だが、誰が?」
その疑問は、翌朝まで持ち越されることになった。
—
夜が明ける頃、僕は特別室で仮眠を取っていた。レオンは一睡もせず、現場を調べ続けている。エリスは衛兵の監視下で、別室で休んでいた。
「アル、起きろ」
レオンの声で目を覚ます。外はまだ薄暗いが、東の空が白み始めていた。
「何か分かったのか?」
「ああ」レオンの表情は疲れているが、瞳には確信の光があった。「すべての謎が解けた」
僕は身を起こした。
「真犯人は?」
「それは後で話そう。今は、最後の確認作業だ」
レオンは机の引き出しを再び調べ始めた。昨夜マルクスが『魂縛りの薬』の瓶を取り出した場所だ。
「おかしいな」レオンが眉を寄せる。
「何が?」
「この引き出し、昨夜見たときと配置が変わっている」
僕も覗き込んだ。確かに、書類の順序が微妙に異なっている。
「誰かが また来たのか?」
「その可能性が高い」レオンが立ち上がる。「だが、今度は何を探していたのか」
その時、廊下から足音が聞こえてきた。複数の人間が階段を上ってくる音だ。
「衛兵隊ですね」エリスの声が聞こえる。
扉が開かれ、昨日の衛兵隊長が現れた。後ろには容疑者四人も続いている。
「レオン・グレイウィザード」隊長が厳格な声で呼ぶ。「約束の時間だ。エリス・フィールドの無実を証明できるか?」
レオンは振り返り、威厳を込めて答えた。
「もちろんだ。そして、真犯人も暴いてみせよう」
四人の容疑者が緊張した表情を見せる。特にマルクスは、明らかに動揺していた。
「その前に」レオンが続ける。「一つ確認したいことがある」
彼は床に残された小さな靴跡を指差した。
「昨夜、この部屋に入った者はいるか?」
四人が顔を見合わせる。誰も答えない。
「正直に言え。前にも言ったが、僕は嘘を見抜く能力がある」
しばらくの沈黙の後、セラフィナが口を開いた。
「......私です」
一同が驚く。セラフィナが昨夜現場に来ていたとは。
「なぜ?」
「マルクスが『魂縛りの薬』を回収したと聞いて......確認しに来ました」
「聞いて?誰から?」
セラフィナが口ごもる。レオンの嘘視が働いているのだろう。
「いいから正直に話せ」
「......オリヴァーからです」
今度はオリヴァーが驚く。
「僕は何も……」
「嘘だ」レオンが遮る。「オリヴァー君、君が昨夜セラフィナに連絡したのは事実だろう?」
オリヴァーの顔が青ざめる。
「僕は......ただ、マルクスさんの不審な行動を報告しただけです」
「なぜ君がマルクスの行動を知っている?」
「偶然見かけただけです」
またも嘘の反応。レオンの推理は確信に向かっていく。
「つまり」レオンが整理する。「昨夜の出来事はこうだ。オリヴァー君が何らかの理由でマルクスを監視していた。マルクスが現場に現れるのを確認すると、セラフィナに連絡した。そして、セラフィナも現場にやって来た」
「だとしても」マルクスが反論する。「それが殺人と何の関係が?」
「大いにある」レオンの瞳が鋭くなる。「なぜなら、これは最初から仕組まれた芝居だからだ」
僕は息を呑んだ。芝居?
「君たちは共犯なのか?」衛兵隊長が警戒する。
「いや、違う」レオンが首を振る。「真犯人は一人だ。だが、その犯人が他の容疑者を操って、複雑な偽装工作を行った」
レオンは部屋の中央に歩み寄り、血痕を指差した。
「司書長はここで殺された。犯人と対面している時に」
「それは昨日も聞きました」マルクスが苛立つ。
「だが、殺害方法について話していなかった」レオンが続ける。「『魂縛りの薬』は確かに使われた。だが、それは直接の死因ではない」
「どういうことですか?」エリスが尋ねる。
レオンは換気用の格子を指差した。
「あの格子を見ろ。内側から強い力で押された跡がある。なぜだと思う?」
僕は考えてみたが、答えが分からない。
「魔法的な爆発があったからだ」レオンが説明する。「『魂縛りの薬』は魂を物質に固定する。だが、無理に魂を引き剥がそうとすると、激しい魔力の反動が起こる」
なるほど、それで格子が変形したのか。
「つまり、司書長は『魂縛りの薬』で魂を固定され、その後強制的に魂を引き剥がされて殺された」
恐ろしい殺害方法だった。魔術師ならではの、残酷で確実な手段だ。
「だが、そんな高度な魔術を使える者は限られている」レオンが四人を見回す。「この中では」
彼の視線が止まったのは、意外な人物だった。
「オリヴァー・グレン、君だけだ」
オリヴァーの顔が土気色になる。
「そんな......僕にそんな高度な魔術は使えません」
「嘘だ」レオンが断言する。「君は『ネクロノミコン』の研究者だ。魂に関わる魔術なら、専門分野のはずだ」
オリヴァーが後ずさりする。
「でも、アリバイがあります。図書館にいました」
「それも嘘だ」レオンが薄く笑う。「君のアリバイは、最初から怪しすぎた」
レオンは衛兵隊長を見る。
「図書館に確認を取ってみてください。オリヴァー・グレンが昨日本当に一日中いたのか、詳しく調べてもらえませんか」
隊長が部下に指示を出す。一人の衛兵が急いで図書館に向かった。
「結果を待つ間に」レオンが続ける。「君の動機を説明しよう」
オリヴァーの表情が絶望的になっていく。
「君は師匠のベルモント司書長を心の底から憎んでいた。自分の研究を認めてもらえず、常に否定され続けた。特に『ネクロノミコン』の危険性評価については、真っ向から対立していた」
「それだけで殺人を?」マルクスが疑う。
「それだけではない」レオンの瞳が光る。「オリヴァー君には、もう一つ隠された動機がある」
「何ですか?」
「君の本当の素性だ」レオンがオリヴァーを見据える。「君は単なる研究者ではない。三年前の『魔術院爆発事故』に関わった人物の一人だ」
僕は驚愕した。オリヴァーが三年前の事件に?
「証拠は?」オリヴァーが震え声で反論する。
「君の研究テーマを見れば分かる」レオンが冷静に答える。「『ネクロノミコン』の危険性評価。それは、三年前の事故の再調査と同じだ。君は事故の真相を隠蔽するために、『ネクロノミコン』は安全だという結論を出そうとしていた」
パズルのピースが嵌まっていく。三年前の事件、レオンの追放、そして今回の殺人、すべてが繋がっている。
「だが、ベルモント司書長が君の研究を阻止しようとした。真相がばれることを恐れて、君は師匠を殺した」
オリヴァーの膝が崩れる。
「違います......僕は何も......」
その時、図書館から戻った衛兵が報告する。
「オリヴァー・グレンは確かに図書館にいました。ですが、午前中の二時間だけ姿を消していました。『資料を取りに戻る』と言って、十時頃に外出し、正午に戻ってきたそうです」
完璧だと思われたアリバイが崩れた。十時から正午。まさに事件の時間帯だ。
「これで君の嘘が証明された」レオンが宣言する。
だが、オリヴァーは最後の抵抗を試みた。
「仮に僕が図書館を出ていたとしても、密室はどう説明するんですか?」
レオンは微笑んだ。それは美しく、そして恐ろしい笑みだった。
「それこそが、君の最大のミスだ」
彼は換気用の格子に近づく。
「君は魔力の爆発で格子を変形させた。だが、それは同時に君の犯行を証明する証拠にもなった」
「どういう意味ですか?」
「格子の変形パターンを見ろ」レオンが指差す。「これは内側から外側へ、一点を中心とした放射状の力が加わった跡だ。つまり、爆発の中心点が特定できる」
レオンは床の血痕を指差した。
「司書長が倒れていた位置と、爆発の中心点が一致している。これは偶然ではない」
なるほど、魔力爆発の痕跡が、殺害現場を特定していたのだ。
「そして」レオンが続ける。「この殺害方法を使えるのは、『ネクロノミコン』に精通した魔術師だけ。つまり」
「オリヴァー・グレン、君以外にありえない」
完璧な推理だった。動機、機会、手段、すべてがオリヴァーを指し示している。
だが、その時僕は気づいた。レオンの表情に、まだ何か釈然としないものがあることを。まるでパズルの最後のピースが見つからないような。
「レオン」僕が小声で尋ねる。「まだ何か気になることがあるのか?」
レオンは頷いた。
「ああ。オリヴァー君の動機に関してだ」
彼は振り返り、オリヴァーを見つめる。
「三年前の事件について、詳しく話してもらおうか」
オリヴァーは既に観念していた。膝をつき、震え声で話し始める。
「僕は......僕は三年前、魔術院の実習生でした。レオン様の実験に参加していたんです」
僕は息を呑んだ。レオンの過去が明かされようとしている。
「その実験とは?」
「『ネクロノミコン』の魔力解析実験でした。レオン様は、古い魔導書の危険性を科学的に評価しようとしていました」
レオンの表情が険しくなる。
「続けろ」
「実験は順調に進んでいました。『ネクロノミコン』の魔力は確かに強大でしたが、適切な防護措置を取れば制御可能だということが分かってきました」
「だが、爆発事故が起きた」
「はい......」オリヴァーの声が小さくなる。「僕のミスでした。魔法陣の一部を間違って描いてしまい、魔力が暴走したんです」
なるほど、それで魔術院の東棟が半壊したのか。
「だが、責任を取ったのは僕だった」レオンが静かに言う。「なぜ君は名乗り出なかった?」
「怖かったんです」オリヴァーが泣き始める。「まだ学生だった僕が責任を取れば、魔術師の道は閉ざされる。だから......だから黙っていました」
「そして、僕が追放される様子を黙って見ていたと」
「申し訳ありませんでした」
レオンは深い溜息をついた。
「それが君の動機か。罪悪感に苛まれて、真実を隠蔽するために司書長を......」
「違います!」オリヴァーが叫ぶ。「僕は司書長を殺していません!」
僕は混乱した。ここまで証拠が揃っているのに、まだ否認するのか?
だが、レオンの嘘視が反応していない。オリヴァーは真実を述べているようだった。
「では」レオンが困惑する。「君は無実だと?」
「はい!確かに図書館を抜け出しました。でも、それは......」
オリヴァーが躊躇する。
「何のために?」
「レオン様に会うためです」
静寂が部屋を支配した。
「僕に?」レオンが驚く。
「はい。三年間ずっと、謝罪したいと思っていました。でも、勇気が出なくて......昨日、エリスさんがレオン様に依頼したと聞いて、これがチャンスだと思ったんです」
「それで図書館を出て僕を探した?」
「はい。でも、見つけられませんでした。路地裏の事務所に行っても、もう出発された後で......」
オリヴァーの証言に嘘はないようだった。レオンも嘘視の反応を示さない。
「では」僕が混乱する。「真犯人は誰なんだ?」
レオンは深く考え込んでいた。これまでの推理が崩れ去り、振り出しに戻った格好だ。
その時、廊下から新たな足音が聞こえてきた。今度は上品な靴音だ。
現れたのは、意外な人物だった。
「皆様、お疲れ様」
上品な声で挨拶したのは、四十代後半の貴婦人だった。高級な絹のドレスを着て、宝石のティアラを身に着けている。明らかに高位の貴族だ。
「あなたは?」衛兵隊長が警戒する。
「私はイザベラ・クロムウェル侯爵夫人です」
僕は聞き覚えがあった。クロムウェル侯爵。王国でも最上位の貴族の一つだ。
「侯爵夫人がなぜここに?」
「実は」イザベラが優雅に微笑む。「私がベルモント司書長を殺しました」
一同が息を呑んだ。まさかの自白だった。
「なぜ......」レオンが唸る。
「理由は簡単です」イザベラの微笑みが冷たくなる。「あの男が、私の秘密を知ってしまったからです」
「秘密?」
「三年前の『魔術院爆発事故』の真相です」
またもや三年前の事件が出てきた。この事件は、どれほど多くの人々を巻き込んでいるのか。
「ベルモント司書長は最近、事故の再調査を始めていました。そして、ある重要な事実に気づいてしまったのです」
「何に気づいた?」
イザベラは振り返り、レオンを見つめた。
「レオン・グレイウィザード様。あなたは無実でした。事故の真の原因は、魔法陣の設計ミスではありません」
レオンの表情が変わる。
「では、何が?」
「魔導書の偽造です」イザベラが告白する。「実は、あなたが実験に使った『ネクロノミコン』は偽物でした。私が本物とすり替えていたのです」
衝撃的な真実だった。事故の原因は、レオンの実験ミスでも、オリヴァーの描画ミスでもない。偽造魔導書による計画的な事故だったのだ。
「なぜそんなことを?」
「本物の『ネクロノミコン』を盗むためです」イザベラの瞳に狂気の光が宿る。「あの書物には、究極の不老不死の秘法が記されています。私はそれを手に入れたかった」
「それで事故を装って盗んだと」
「はい。偽物の魔導書は不安定で、実験中に必ず暴走する仕掛けになっていました。混乱に乗じて本物を盗み、あなたに罪を着せたのです」
レオンの拳が震えている。三年間の屈辱と苦悩の原因が、目の前の女性だったのだ。
「だが、最近ベルモント司書長が真相に気づき始めました。偽造の痕跡を発見し、私を問い詰めてきました」
「それで殺したと」
「やむを得ませんでした」イザベラが肩を竦める。「秘密がばれれば、私の地位も名誉も失われます」
「殺害方法は?」
「『魂縛りの薬』を使いました。セラフィナから密かに購入していたものです」
セラフィナが青ざめる。知らずに殺人の道具を提供していたのだ。
「司書長を特別室におびき出し、薬を飲ませました。そして、魂を強制的に引き剥がして殺害しました」
「密室はどうやって?」
「簡単です」イザベラが微笑む。「私は貴族です。禁書庫への立ち入り許可など、いくらでも取れます。事件後、何食わぬ顔で退室すればよいのです」
なるほど、高位貴族なら誰も疑わない。完璧な犯行だった。
「だが」レオンが疑問を呈する。「なぜ今になって自白する?」
「あなたの推理力に感服したからです」イザベラが拍手する。「見事でした。特に、魔力爆発の痕跡から殺害方法を推理したのは素晴らしい」
「それだけが理由か?」
「いえ」イザベラの表情が変わる。「実は、もう一つ目的があります」
彼女は懐から小さな短剣を取り出した。刃には魔法の光が宿っている。
「あなたを殺すためです」
一同が慌てて後ずさりする。
「レオン・グレイウィザード。あなたは三年前から私の最大の脅威でした。今回の事件で、あなたの推理力を改めて思い知りました。生かしておくわけにはいきません」
「待て」衛兵隊長が剣を抜く。「武器を捨てろ」
「無駄です」イザベラが笑う。「この短剣は『魂切りの刃』。触れるだけで魂を切り裂きます。衛兵程度では太刀打ちできません」
危険な状況だった。イザベラは明らかに正気を失っている。不老不死への執着が、彼女を狂気に駆り立てているのだ。
「レオン」僕が警告する。「逃げろ」
だが、レオンは動かなかった。代わりに、静かに口を開く。
「イザベラ侯爵夫人。一つ質問がある」
「何でしょう?」
「君が盗んだ『ネクロノミコン』で、不老不死は得られたのか?」
イザベラの表情が歪む。
「......まだです。解読が難しくて」
「なぜだか分かるか?」レオンが薄く笑う。「君が盗んだのは、本物の『ネクロノミコン』ではない」
「何?」
「本物は最初から存在しない。あれは十八世紀の偽作だ。僕の実験は、その事実を証明するためのものだった」
イザベラの顔が青ざめる。
「嘘です......」
「嘘ではない。君は偽物を盗むために、さらに精巧な偽物を作った。ただの偽物が君の手にあるものの正体だ」
衝撃的な真実だった。イザベラの三年間の執着は、すべて無駄だったのだ。
「そんな......私の三年間は......」
イザベラの手から短剣が落ちる。絶望に打ちのめされ、その場に崩れ落ちた。
衛兵たちが素早く彼女を取り押さえる。
「これで事件は解決だ」レオンが宣言した。
エリスの無実が証明され、真犯人も逮捕された。そして、レオン自身の汚名も晴らされた。
だが、僕には一つ疑問が残っていた。
「レオン」僕が小声で尋ねる。「君は最初から、イザベラが犯人だと気づいていたのか?」
レオンは振り返り、複雑な表情を見せた。
「薄々感づいてはいた。だが、確信が持てなかった」
「なぜ?」
「彼女が現れるまで、決定的な証拠がなかったからだ」
なるほど、それで容疑者たちを泳がせていたのか。真犯人をおびき出すために。
「危険な賭けだった」
「だが、成功した」レオンが微笑む。「そして、すべての真実が明らかになった」
朝日が禁書庫の窓から差し込んでくる。長い夜が終わり、新しい一日が始まろうとしていた。
—
イザベラ侯爵夫人の逮捕から一時間後、僕たちは禁書庫の大会議室に集められていた。エリスの容疑が晴れた今、衛兵隊長は事件の詳細な経緯を記録する必要があった。容疑者として疑われた四人も、真相を聞くために残っている。
「それでは」レオンが部屋の中央に立つ。「事件の全容を整理しよう」
彼の声には、かつての宮廷魔術師としての威厳が戻っていた。三年間の屈辱を晴らし、本来の輝きを取り戻したのだ。
「まず、事件の背景から説明する。三年前の『魔術院爆発事故』これが今回の殺人事件の根本的な原因だった」
レオンは窓際に歩み寄り、王都の景色を見渡す。
「当時、僕は『ネクロノミコン』の科学的分析を行っていた。目的は、古い魔導書の危険性を正確に評価することだった。この研究が成功すれば、多くの禁書を安全に活用できるようになるはずだった」
「だが、実験は失敗した」マルクスが口を挟む。
「いや、失敗ではない」レオンが振り返る。「妨害されたのだ」
彼は手を上げ、魔力を込める。空中に光の図形が浮かび上がった『ネクロノミコン』の魔法陣の構造図だ。
「イザベラ侯爵夫人は、僕の実験を利用して本物の『ネクロノミコン』を盗もうと計画していた。そのために、精巧な偽物を作成し、実験開始直前にすり替えた」
光の図形が変化し、偽造品の構造を示す。本物とは微妙に異なる魔法陣のパターンが浮かび上がった。
「偽造品は意図的に不安定に作られていた。実験中に必ず暴走するよう設計されていたのだ」
「それで爆発事故が起きたと」オリヴァーが納得する。
「そうだ。君の描画ミスは関係なかった。どんなに正確に魔法陣を描いても、偽造品を使う限り事故は避けられなかった」
オリヴァーの顔に安堵の表情が浮かぶ。三年間背負い続けた罪悪感から、ようやく解放されたのだ。
「混乱に乗じて、イザベラは本物の『ネクロノミコン』を盗み出した。そして、事故の責任は僕が取ることになった」
「なぜ彼女を疑わなかったのですか?」エリスが尋ねる。
「当時、彼女は研究に協力的な後援者だった」レオンが苦い表情を見せる。「まさか盗みが目的だったとは思わなかった」
レオンは再び魔力を込め、今度は時系列を示す図表を空中に描いた。
「さて、今回の事件に移ろう。数週間前、ベルモント司書長が『ネクロノミコン』の再調査を始めた。彼は非常に優秀な学者で、偽造の痕跡に気づき始めていた」
「具体的には?」ガロンが質問する。
「魔力の残留パターンだ」レオンが説明する。「本物と偽物では、魔力の『指紋』とも言うべきパターンが異なる。司書長はそれを発見した」
図表に、魔力パターンの比較が表示される。確かに、微細だが明確な違いがあった。
「司書長はイザベラに問い詰めた。最初は否認していたが、証拠を突きつけられて追い詰められた」
「それで殺害を決意したと」
「そうだ。だが、イザベラは非常に狡猾だった。単純な殺人ではなく、事故に見せかけることを考えた」
レオンは特別室の見取り図を空中に描く。
「計画はこうだ。まず、司書長を特別室におびき出す。そこで『魂縛りの薬』を飲ませ、魂を物質に固定する」
「『魂縛りの薬』はどこで入手したのですか?」セラフィナが青ざめながら尋ねる。
「君から購入していた」レオンが答える。「ただし、君は騙されていた。イザベラは『特殊な防腐処理のため』と偽って薬品を注文していた」
セラフィナが安堵の表情を見せる。知らずに殺人に加担していたことへの罪悪感から解放されたのだ。
「薬が効いた頃を見計らって、イザベラは司書長の魂を強制的に引き剥がした。この際に激しい魔力の爆発が起こり、換気用の格子が変形した」
図解が実際の殺害シーンを再現する。僕は目を逸らした。
「その後、現場を偽装した。『ネクロノミコン』を机に置き、あたかも研究中の事故に見せかけた」
「しかし」衛兵隊長が疑問を呈する。「なぜ我々は最初から殺人と判断しなかったのか?」
「イザベラの社会的地位のせいだ」レオンが冷たく言う。「侯爵夫人ともなれば、最初から容疑者リストに入らない。これは彼女の計算だった」
確かに、高位貴族を疑うのは現実的ではない。完璧な計画だった。
「だが、彼女は一つ致命的なミスを犯した」
「何ですか?」
レオンは床を指差す。
「小さな靴跡だ。高級な革靴の跡が、現場に残されていた。これは貴族女性特有のもので、他の容疑者では説明がつかない」
なるほど、僕が最初に気づいた靴跡がカギだったのか。
「それでも確証は得られなかった。だから、僕は罠を仕掛けた」
「罠?」マルクスが眉を上げる。
「君たちを泳がせたのだ。容疑者として疑い、それぞれに圧力をかけた。真犯人なら、必ず動揺して何らかの行動を取るはずだった」
レオンの狡猾さに、僕は改めて驚いた。最初から全体を見通していたのだ。
「だが、予想以上の収穫があった」レオンが続ける。「イザベラ自身が現れたのだ」
「なぜ彼女は現れたのですか?」オリヴァーが尋ねる。
「僕の推理力を見て、危険を感じたからだ」レオンが答える。「このまま放置すれば、いずれ真相に辿り着かれる。それを恐れて、僕を直接殺害しようとした」
「危険な賭けでしたね」
「確かに。だが、他に選択肢はなかった」
レオンは空中の図表を消し、振り返る。
「最後に、イザベラの最大の誤算について話そう」
一同が注目する。
「彼女が三年間執着していた『ネクロノミコン』実は、それ自体が偽物だったのだ」
静寂が部屋を支配した。
「どういうことですか?」エリスが困惑する。
「十八世紀に作られた精巧な偽作だ」レオンが説明する。「本物の『ネクロノミコン』は、すでに数百年前に失われている」
「では、イザベラの犯行はすべて無意味だったと?」
「そうだ。彼女は偽物を盗むために偽物を作り、偽物を守るために殺人を犯した。皮肉な話だ」
レオンの言葉には、哀れみが込められていた。狂気に駆られた女性への、複雑な感情が垣間見える。
「これで事件の全容が明らかになった」レオンが宣言する。「エリス嬢の無実は完全に証明された」
衛兵隊長が頷く。
「分かりました。エリス・フィールドの容疑は完全に晴れました。それと」
隊長はレオンに向き直る。
「レオン・グレイウィザード殿。三年前の事件についても、あなたの名誉は回復されるべきでしょう」
レオンの表情に、微かな感動が浮かんだ。長い間待ち続けた瞬間だった。
「ありがとう」彼が静かに答える。
その時、マルクス副司書長が立ち上がった。
「レオン・グレイウィザード殿」彼が深々と頭を下げる。「私は三年間、あなたを誤解していました。心からお詫び申し上げます」
他の三人も続いて謝罪した。セラフィナ、ガロン、オリヴァー、皆が、レオンに対する偏見を恥じていた。
「いや」レオンが手を上げる。「君たちに罪はない。すべてはイザベラの計略だった」
彼の寛容さに、一同が感銘を受ける。
「それよりも」レオンが続ける。「これを機に、魔導書研究の在り方を見直してはどうか。今回の事件で分かったように、古い偏見にとらわれていては真実は見えない」
マルクスが深く頷く。
「おっしゃる通りです。ぜひ、今後の研究にご協力いただけませんか?」
「考えてみよう」レオンが微笑む。
会議室に温かい空気が流れた。事件の解決により、多くの誤解が解け、新しい関係が生まれようとしていた。
だが、僕にはまだ一つ気になることがあった。
「レオン」僕が小声で尋ねる。「君の嘘視の能力。これも魔術院での実験と関係があるのか?」
レオンが振り返る。その瞳に、複雑な光が宿った。
「それは」彼が静かに答える。「また別の機会に話そう」
まだ明かされていない秘密がある。レオンという男の謎は、まだ完全には解けていないのだ。
—
事件から一週間後、僕たちの事務所に変化が起きていた。
まず、看板が新しくなった。『魔法探偵事務所 レオン・グレイウィザード』と、金文字で書かれている。路地裏の小さな事務所には少々不釣り合いだが、レオンの名声を考えれば妥当だろう。
「依頼が殺到しているな」僕が机の上の手紙の束を見る。
「ああ」レオンが煙草をふかしながら答える。「貴族からの依頼が多い。みんな、魔法がらみの謎を抱えているようだ」
王都中に事件の詳細が広まり、レオンの推理力と嘘視の能力が有名になったのだ。「魔法探偵」という異名も定着している。
「選り好みできる立場になったということか」
「そうだな。これからは面白い事件だけを選ぼう」
レオンの表情は満足そうだった。長い間の雌伏の時を経て、ようやく本来の地位を取り戻したのだ。
扉の鈴が鳴り、エリスが入ってきた。
「こんにちは」彼女が明るく挨拶する。
エリスにも変化があった。見習い司書から正式な司書に昇格し、さらに特別研究員の地位も得ている。ルーンベルクの名前を隠す必要もなくなり、堂々と本名を名乗れるようになった。
「調子はどうだ?」レオンが尋ねる。
「おかげさまで順調です」エリスが微笑む。「マルクス副司書長。いえ、新司書長が とても協力的で」
ベルモント司書長の後任として、マルクスが正式に司書長に就任していた。彼は以前の高圧的な態度を改め、若手研究者の育成に力を入れている。
「それと」エリスが懐から小さな包みを取り出す。「これをお渡しします」
包みを開くと、亜麻色の髪の女性の肖像画が入った銀の指輪が現れた。エリスの母の形見だ。
レオンが首を振る。「これは必要ない」
「いえ」エリスが微笑む。「母もきっと喜んでいます。私を救ってくださったのですから」
レオンは指輪を受け取り、しばらく見つめていた。
「君の母君は美しい方だったんだな」
「はい。魔術師としても優秀でした。母の夢は、魔法の力で多くの人を救うことでした」
「立派な夢だ」レオンが静かに答える。「君もその夢を受け継いでいるのか?」
「はい。禁書庫で働きながら、危険な魔導書を安全に活用する方法を研究したいと思っています」
レオンの表情が和らぐ。エリスの志に共感しているのだろう。
「そうそう」エリスが思い出したように言う。「オリヴァーさんから伝言です。今度、共同研究をしませんかって」
「オリヴァー君がか」
「はい。三年前の罪悪感から解放されて、とても前向きになっています。『今度こそ本当の魔導書研究を』と意気込んでいます」
レオンが煙草を灰皿に押し付ける。
「悪くない提案だ。考えてみよう」
その時、再び扉の鈴が鳴った。今度は衛兵隊の制服を着た男性が入ってくる。
「失礼します」男性が敬礼する。「王宮からの使者です」
僕たちは身を正した。王宮からの使者とは、ただ事ではない。
「レオン・グレイウィザード殿に、国王陛下からのお召しです」
レオンの眉が上がった。
「国王陛下から?」
「はい。本日の夕刻、王宮にお越しください」
使者は一通の手紙を置いて去っていく。レオンがそれを開封すると、王室の紋章が押された正式な召喚状だった。
「何が書いてある?」僕が尋ねる。
「『魔法顧問官への復帰について相談したい』とある」
一同が息を呑んだ。魔法顧問官。それは宮廷魔術師の最高位だ。レオンがかつて目指していた地位でもある。
「復帰の打診か」僕が興奮する。
「まだ分からない」レオンが慎重に答える。「相談というだけだ」
だが、彼の表情には期待の光が宿っていた。
「行くのですか?」エリスが心配そうに尋ねる。
「もちろんだ」レオンが立ち上がる。「断る理由がない」
彼は黒いマントを手に取った。三年前に失った銀の刺繍は、まだ復活していない。だが、マント自体は威厳を保っている。
「アル」レオンが振り返る。「君も来るか?」
「僕が?王宮に?」
「魔法顧問官には助手が必要だ。君以外に適任者はいない」
僕は戸惑った。王宮勤めなど考えたこともない。だが、レオンと離れるのは寂しい。
「少し考える時間をもらえるか?」
「もちろんだ」レオンが微笑む。「急ぐ話ではない」
エリスが手を挙げる。
「もし復帰が決まったら、禁書庫との連携もお願いします。研究面で協力できることがたくさんあると思います」
「約束しよう」レオンが頷く。
—
午後になり、レオンは王宮へ向かった。僕とエリスは事務所で待機している。
「緊張しますね」エリスが呟く。
「ああ。でも、レオンなら大丈夫だ」
僕は窓の外を見つめる。王都の街並みが夕日に染まっている。三年前、この街でレオンは失脚し、路地裏に追いやられた。だが今、再び表舞台に戻ろうとしている。
「アルさん」エリスが口を開く。「レオンさんについて行くのですか?」
「まだ決めていない」僕が正直に答える。「君はどう思う?」
「私は行くべきだと思います」エリスが即答する。「レオンさんには、あなたのような信頼できる相棒が必要です」
「理由は?」
「レオンさんは優秀すぎるんです。一人では危険な道に進んでしまうかもしれません。歯止めをかけてくれる人が必要です」
エリスの指摘は鋭かった。確かに、レオンは時として常識を超越する。それが彼の魅力でもあるが、危険でもある。
「それに」エリスが続ける。「あなたも変わったじゃないですか」
「僕が?」
「はい。最初にお会いした時は、もっとおどおどしていました。でも今は、堂々としています」
言われてみれば、確かに変わったかもしれない。レオンと一緒に事件を解決する中で、自信がついてきた。
「レオンの影響か」
「きっとそうです。あなたたちは良いコンビです」
夜が更け、レオンが戻ってきた。表情は複雑だった。
「どうだった?」僕が尋ねる。
「正式に魔法顧問官への復帰を打診された」レオンが答える。
「それは朗報だ」
「条件付きでな」レオンが苦笑いする。
「条件?」
「半年間の試用期間がある。その間に実績を示せば、正式復帰となる」
なるほど、いきなり完全復帰は難しいということか。
「実績とは?」
「王国内の魔法犯罪の解決だ」レオンが振り返る。「つまり、探偵業を続けながら王宮にも仕えるということだ」
「一石二鳥じゃないか」
「そうだな。それで、アル」
レオンが僕を見つめる。
「君の返事を聞かせてもらいたい」
僕は深呼吸した。人生を変える決断の時だ。
「行こう」僕が答える。「君と一緒に」
レオンの顔に、満足そうな笑みが浮かんだ。
「ありがとう、アル。君がいてくれて良かった」「アル。君からは綺麗な純白の色が見えるよ」
エリスが拍手する。
「素晴らしい決断です。応援しています」
「君も頼むぞ、エリス」レオンが振り返る。「禁書庫との橋渡しを」
「お任せください」
その時、扉の鈴が再び鳴った。今度は誰だろう。
現れたのは、意外な人物だった。セラフィナ・ロートだった。
「こんばんは」彼女が優雅に挨拶する。
「セラフィナ女史。どうされました?」
「実は」彼女が微笑む。「お願いがあって参りました」
「何でしょう?」
「私を助手として雇っていただけませんか?」
一同が驚く。錬金術師が探偵事務所の助手に?
「理由を聞かせてもらいたい」レオンが慎重に尋ねる。
「今回の事件で、自分の無力さを痛感しました」セラフィナが真剣な表情で答える。「知らないうちに殺人に加担していた。そんな愚かな真似はもうしたくありません」
「それで?」
「あなたのような優秀な探偵の下で学び、本当の正義とは何かを知りたいのです」
レオンは考え込んだ。確かに、錬金術師の協力があれば心強い。魔法犯罪には化学的な知識も必要だ。
「試用期間ということで」レオンが決断する。「一ヶ月やってみますか?」
「ありがとうございます」セラフィナが深々と頭を下げる。
こうして、僕たちの事務所に新しいメンバーが加わった。レオン、僕、そしてセラフィナ。三人体制の『魔法探偵事務所』の始まりだった。
「それにしても」僕が呟く。「賑やかになりそうだ」
「悪くない」レオンが煙草に火をつける。「面白い事件が増えるだろう」
窓の外では、王都の夜景が輝いている。石畳の上を行き交う人々、魔法灯に照らされた建物、遠くに見える王宮の尖塔。
この街には、まだ多くの謎が隠されている。魔法と科学が交錯する世界で、真実を求める者たちがいる。
「さて」レオンが立ち上がる。「明日から忙しくなる。今夜は早めに休もう」
「そうですね」セラフィナが同意する。「明日からよろしくお願いします」
「こちらこそ」僕が答える。
エリスも立ち上がる。
「それでは、私もお暇させていただきます。また何かありましたらお知らせください」
「もちろんだ」レオンが微笑む。「君は大切な協力者だ」
エリスとセラフィナが去った後、僕とレオンだけが残った。
「レオン」僕が口を開く。「君の嘘視の能力について、まだ聞いていないことがある」
「何だ?」
「その能力は、生まれつきのものなのか?それとも」
「魔術院の実験で得たものだ」レオンが静かに答える。
やはりそうだったのか。
「事故の際、『ネクロノミコン』の魔力に触れた。その時、何かが変わった」
「危険はないのか?」
「今のところは」レオンが煙草の煙を吐く。「だが、使いすぎると頭痛がする。それに……」
彼は右手を見つめる。
「いつか代償を払うことになるかもしれない」
不安になった。レオンの能力には、まだ知られていない副作用があるのかもしれない。
「気をつけろよ」
「ありがとう」レオンが振り返る。「君がいてくれれば、きっと大丈夫だ」
その言葉に、僕は胸が温かくなった。
外では雨が降り始めている。あの運命的な日と同じような雨だ。だが、今度は希望の雨のように思えた。
「おやすみ、アル」
「おやすみ、レオン」
僕たちは二階の自室に向かった。明日からまた新しい冒険が始まる。魔法探偵レオン・グレイウィザードと、その助手アルフレッド・ノートの物語が。
そして王都の片隅で、まだ見ぬ謎が僕たちを待っている。
嘘を見抜く魔法探偵の伝説は、まだ始まったばかりだった。
—
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
また次の物語でお会いできることを楽しみにしています。
魔法探偵は嘘を視る~追放された魔術師、事件だけは解けるので王都で名探偵はじめました~ @kuonseiji
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