3



「──あの、これは一体……?」


 執務室に一歩足を踏み入れた瞬間、レノは違和感に立ち止まった。

 アステルの机のすぐ向かいに、見慣れない机と椅子が新たに据えられている。その上にはアステルの机と同様に書類が山のように積まれていた。マニウスの姿は見えず、この場には二人だけのようだ。

「そこに座れ」

「え」

 アステルの表情にはいつにも増して凄みが宿っていた。

 レノは思わず唾を飲み込み、言われるがまま新しい椅子に腰を下ろす。アステルは指先で紙の山を示し、「見ろ」とだけ言った。

 いつものように校正を任されるにしても、量が異常だ。恐る恐る一枚を手に取り、目を走らせると──


「あの、素人目には……これは、お見合いの釣り書きのように見受けられるのですが……?」


 画家に描かせたらしい女性の姿絵。家柄、名前、家族構成、学歴、趣味──レノは実家にいた頃、姉マキア宛に届いたものを思い出していた。

「そうだ」

「もしかして、またアステル様の……ですか?」

 以前、その騒動のせいでレノとアステルは恋人同士などという嘘八百を吹聴する羽目になった。げっそりとした顔で問い返すと、アステルは首を横に振った。


「セオリオ殿下宛だ」


 レノは思わず数枚を手に取り、そして絶句した。

 そこに記されている女性たちの家格の高さ──貴族の上流どころか、他国の王女の名まである。


「え、いや、あの、これって国家機密事項では……?」


 国王補佐官のアステルならともかく、見習い補佐官の自分が目にしてよいものではない。固まるレノに目もくれず、アステルは手元の書類を機械のように捲っていく。

「そうだな」

「もう私、今三枚ほど見てしまいましたよ……?」

「安心しろ。これからそこに積まれているものすべてに目を通すことになる」

「はい?」

 レノの声が裏返る。

 僅かに視線を上げたアステル曰く。


「──セオリオ王子殿下が、これらに私の目も通せとご指名で?」


「国王と宰相、そしてエメリク殿下の承認も降りている。これが終わるまで、マニウスはここには入れない」

 腰を浮かしかけたレノは、力が抜けて椅子にもたれ込んだ。

「お前の前にある書類は、俺が見ているものと同じだ。遅れを取りたくなければ黙って目を通せ。お前の感覚で振り分けろ」

「振り分けるとは……基準はどのように?」

「判断基準は、王子殿下に相応しいかどうかだ」

 アステルはその会話の間も手を止めない。レノは言われるまま、再び書類に視線を落とした。

 これは──本来自分が裁いてよい内容ではない。

 だが、ここで抗えるだけの材料など、レノにはない。

「……承知しました」

 釣り書きになるべく指紋をつけないよう、震える指先で紙をめくる。レノは己の心を封じ、ただ文字列を読み込む無機物へと変わっていった。




──没頭すること、数刻。


「あの、一応……何の参考になるかはまったく分かりかねますが、完了しました」


 詳細な指示は何もなかった。半ばやけになりながらも、レノの前には四つの山ができあがっている。言われた通り遅れは取るまいと必死だったのだ。実際、アステルの手元にはまだ書類が残っている。

「……もう終わったのか?」

「私の中では、ですが。アステル様のおっしゃる"終わった"に匹敵するかどうかは、保証しかねます」

 もし「振り分けが一致しなければその数だけ減給」とでも言われていたら、倍の時間はかかっていただろう。レノは首と肩を回し、大きく伸びをした。

 アステルが手を止め、立ち上がる。その影がレノの机に落ちた。

「なぜ四つに分けた?」

「さすがに"可"と"否"の二択に絞れるほどの自信はなかったので……右から順に"問題なし"、"要確認、"検討外"、そして……"エメリク殿下となら合いそうな方"です」

 一番高く積まれているのは“要確認”の山だった。確認すべき点は、途中でアステルの許可を得て、書類に直接メモを残してある。

「ご、ご指示通りにやったまでで……その、どこから目線だとか、お門違いだとか、そういうつもりは……」

「なるほど」

 アステルは無造作に数枚を抜き取り、目を細めて頷いた。

「しかし、殿下もどうして私のような者に……」

「このロセンテル侯爵令嬢を"問題なし"に入れ、王家の血筋でもあるフロレンティス公爵令嬢を"検討外"にした理由は?」

 アステルが二枚の書類を抜き出し、レノの前に並べる。

「……フロレンティス公爵家は、現当主の末の異母妹がネモラリス王国の商家に降嫁されたはずです。兄妹仲が悪いと聞き及んでいますが、書類にはそのあたりの記載が見当たらず……意図的に伏せているのだとすれば、やや不誠実かと」

「では、ロセンテル侯爵令嬢は?」

「ロセンテル家はヴェルデルムでも三指に入る由緒ある家系です。政治的な野心が薄く"知と芸術のロセンテル"と称されるほどで、王宮図書室にも彼らの寄贈による貴重な図譜が多く収められています。ご令嬢も、社交界では穏やかで謙虚な方として知られており……加えて、ヴェルデルムと姉妹都市を結んでいる公国の大公が、ロセンテルの分家筋にあたると記憶しています」

 つらつらと語ったあと、レノははっと我に返った。下っ端の男爵令息が、国王補佐官に向かって講釈を垂れてしまったのだ。青ざめたレノは、慌てて身振り手振りで弁解に走る。

「その、これは……私がこちらに来た当初、貴族の方々には気をつけろとアステル様が仰っていたので、少し調べておいただけでして!」

「いや、いい」

 アステルは静かに言い、レノの机上の四つの山を見下ろす。


「このまま提出する」

「えっ」


 レノが固まるのをよそに、アステルは手際よく山を整え、封筒に収めていく。慌てて立ち上がったレノが、彼の机を指さす。

「アステル様だって、そちらで振り分けていらっしゃるじゃないですか」

 だがアステルは応じず、黙々と作業を続ける。


「今の二家の振り分けが、俺とは逆だった」


 真顔のまま、アステルはレノを見下ろした。


「フロレンティス公爵家は九人兄弟だ。その末の妹君がネモラリスに降嫁していたことは、俺ですら失念していた」


 宰相レグルスが、成人したばかりのレノをさらに上の席へ推挙しようとする理由。

 分かっていたつもりだったが、今ようやく、ほんの一端に触れた気がした。

 レノの手元には、何の資料もなかった。準備の時間すら与えられずに始まった作業で、彼はアステルより遅れて取りかかりながら、先に終えていたのだ。

 ただの記憶力勝負だけではない。情報を元に適不適の判断まで並行していた。


 確かに男爵家に送り返し、狭い領地の経営を任せるには──あまりに惜しい。

 アステルは二週間前、レノの処遇についてレグルスに相談したときの、あの恐ろしい顔を思い出していた。


『彼を本当に“ただの憐れで賢い子供”だと思っているのなら──お前は国王補佐官の席を辞する覚悟で進めなさい』


 結果的にアステルが今もその席に座っていられるのは、目の前のレノが、王宮に残りたいと抗ったからだ。

「……本当に、書記官を目指してもいいかもしれないな」

「せ、先日のあれは……売り言葉に買い言葉というか、私にはとても……」


 四つの封筒に収められた書類が、アステルの手で静かに運ばれていく。それを見送りながら、レノは小さく肩をすぼめた。

 誰も彼も、自分を買い被りすぎている。


──自分がここにいられるのは、あくまで"あの日"まで。


 それ以上のことを望むつもりは、もうない。




 ◇ ◆ ◇




「あ」

「あ!!」


 仕事終わりに図書室へ立ち寄ったレノは、思わぬ人物との遭遇に思わず場違いな声を上げてしまった。

 寄宿舎から官舎に移って以来、一度も顔を合わせていなかった彼女が、そこにいたのだ。


「なぁんだ、元気そうじゃないの。レノ・ファーブル見習い補佐官殿?」

「パウラさんこそ、どうしてこんなところに」


 思いがけない再会に、レノの声は無意識に上擦った。

 第五王女の世話係として忙しくしているはずの彼女が、制服のまま角の席にいくつも本を積み上げている。覗き込むと、どうやら食べ物に関する書籍ばかりを選んでいるようだった。

「まあ、ちょっとね。調べ物」

「私はよく仕事帰りに寄るんですよ。趣味で」

 パウラが隣の空いた席を引く。座れということか、とレノは躊躇わず腰を下ろした。

「例の薬屋の件、本当に助かりました。素晴らしい処方をしていただいて」

「それは何より。で、何がどうして官舎に移ったわけ?」

「のっぴきならない理由が色々と……」

 溜息を吐きながら、ふとレノの目に入ったのは、パウラが開いていた書物の文字列だった。

「料理本には見えませんが、それは?」

 レノの目ですら滑る、難解な語句が並んでいる。よく見れば、パウラの手元には辞書も添えられていた。

「……同僚の侍女がこの前、昼食のあとに顔や腕を真っ赤に腫らして倒れちゃって。いや、今はもう元気なんだけど」

 よく見れば、パウラ自身も少し痩せたようだ。

「でも、食べていたものはいつも通りだし、その日初めて口にしたものなんてなかったし。毒も入ってなかったし……」

「顔や腕を真っ赤に、ですか」

「人によって特定の食べ物が合わないことがあるとは聞いたけど、結局何が原因か分からなくって」

 あのパウラがここまで饒舌なのは珍しい。よほど頭を悩ませているのだろう。レノも首を捻った。

「食事後とおっしゃいましたが、たとえば植物園に行かれたとか、動物に触れたとか、食べ物以外の可能性はありませんか?」

「ない。王宮の中で、をしたくらいよ」

 本人は、自分の発言のミスに気づいていないらしい。

 侍女が仕事中、昼間にかくれんぼなどするはずがないことを。

「かくれんぼですか。その侍女の方は、隠れる役で?」

「……お、鬼の方だけど」

 そこでどうやら自分でも失言に気づいたようだ。しかしお互い、誰の話か言及するわけにはいかない。

 レノの記憶では、彼女が世話役を務める第五王女はまだ十歳のはずだ。侍女たちが隠れる中、はしゃぎ回ってもおかしくはない。


「断定はできませんが……それでしたら、普段は反応が出ないものの、運動をした時にだけ生じるという事例を聞いたことがあります」


 パウラが積み上げていた本の中に、レノが思い浮かべていた著者のものがあった。抜き出して手に取ると、目次にそれらしい文言が見つかる。

「え、何それ。侍医もそんなこと言わなかったけど」

「それは皆さん、かくれんぼの話をされなかったのではないですか? たとえば……本当は昼食後、別の予定があったのを反故ほごにしたとか」

 ぎくりとした表情を浮かべるパウラに、レノは思わず笑ってしまった。

「その食べ物が何かは改めて調べる必要があるでしょうが──ああ、この部分です。食べただけでは症状が出ず、食後の運動で起こることがあると」

 難解なその一文に目をやったパウラは、すぐに顔を上げて鼻白んだ。

「……あんた、どこでそんなこと知るわけ?」

「読書くらいしか娯楽がなかったもので」

 人の役に立てるなら、これまで費やした時間も無駄ではない。

 その後レノは、久しぶりに気の置けない仲間との図書室での静かな会話を楽しんだ。



(……それだけでは原因にならず、条件が揃うことで起きる、か)


 パウラと別れ、まだ慣れない官舎の階段を上がりながら、レノは物思いにふけっていた。

 何事も、連続の果てにあるのだろう。

 過去の生との乖離が大きくなっているのも、ただ聖女イリスがいないことだけが原因ではない。それによってアステルが動き、レノと出会い──アステルが予期していた未来から、何もかもが逸れている。


 対面から誰かが下りてくるのが見え、レノは即座に左端に寄り、足を止めて頭を軽く下げた。通り過ぎるのを待つ。制服の裾が視界に入る。

 その動きが、レノの目にはやけにゆっくりと映った。

 もしや、また変装したエメリクでは──そう思ったのも束の間、それが違うと知るのに時間はかからなかった。


「え、」


 その誰かに強く腕を引かれ、レノは姿勢を崩す。階段から落ちればただでは済まない。思わず前のめりになったレノを、腕を引いた張本人が抱き留めた。


「本来の貴方は──」


 顔は見えない。

 だが、その声にレノは息を呑んだ。


「こんな場所にいて良い人間ではありません」


 布で顔を覆われ、抵抗する間もなく意識が遠のいていく。敵に回すつもりではなかったその相手に、手を伸ばすも届かない。


 こんなにも早く意識を奪う薬が、この世にあるだろうか──

 レノの頭を過ぎったのは、見当違いな疑問だった。

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