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『今挙げた手段はあくまで一例ですから』

 最後にそう言ったフィロメラとの茶会を終え退席したレノは、血の気の失せた両頬を自ら叩く。

 フィロメラが狙っているのは、第一王子セオリオその人ではない。ヴェルデルム王国の王妃の座だ。

 過去の生では、聖女イリスの功績によりエメリクに王位継承権が移ったという。しかし今回はそれがない以上、エメリクが国王の座に就く可能性は極めて低い。


 レノがフィロメラから感じ取ったのは、焦りだ。

 彼女の提案の恐ろしさよりも、その支離滅裂さと違和感が際立っていた。金も権力も持て余しているであろう彼女が、時間と手間をかけて自分のような駒を動かそうとするなど不自然でしかない──勝率があまりに低い上、大博打が過ぎる。

 同盟国の王族を陥れるような企みを共有する相手として、レノはふさわしくない。現に口止めもされていない。

 しかしレノがアステルを通じて王族に報告する可能性を、フィロメラが考えないはずがない。

(……なりふり構わないのは、それほど陛下の容態が悪いからか……?)


 謁見を終えたアステルや書記官と合流し、何事もなく予定は進んでいく。

 その後現れた侍女の中に、マキアの姿はなかった。おそらく本当に、パフォーマンスのためだけにあの場に呼びつけたのだろう。フィロメラの見事な悪趣味を、レノは呪った。


 レノが緊張の面持ちで迎えた滞在最後の晩餐会には、フィロメラは出席しなかった。

 食後に夜の庭園を散策する許可を得たレノとアステルは、月明りに照らされた石畳の上を歩いていた。周囲に人が隠れられるような茂みがないのを確認して、レノは口を開く。


「──毒は盛られませんでしたよ」

 風に揺れる枝葉が囁き合う。

「これ、出番がなくてよかったです」

 レノが差し出した例の下剤だが、アステルは受け取らない。

「帰国するまで持っておけ」

「……不吉なことをおっしゃらないで下さい」

 この場にレノを召喚したのはアステルの方だ。茶会で何を話したのか気になるのだろう、しかしレノはまだ自分の中で答えを出せていなかった。


 フィロメラがエメリクの婚約者でありながらセオリオに擦り寄っている、というのは前情報にもあったほどだ。隠してはいないのだろう。

 だが本当に手に入れようとしているとは思っていなかった。

「そういえば昨日のあの騎士の男、今どこで何をしているんですか?」

 思考の時間が欲しい。さほど興味もない話題を振ると、アステルが苦い顔をした。

「公爵邸の地下牢を借りて幽閉している。後日軍部が来て護送することになった」

「それは……お手数をおかけします……」

 その件も含めての今日の謁見だったのだろう。裏で糸を引いているのが明らかにネルヴァ公爵家だと分かっている中でも、この後始末はやむを得ない。

 僅かな沈黙の間、ひときわ強い空風が吹き抜ける。


「……フィロメラ様から、協力を求められました」


 声を抑えたレノの言葉に、アステルは表情を変えない。

「協力?」

「要は、セオリオ第一王子殿下の婚約者の座をお求めだと」

「……エメリク殿下を殺せとでも言われたか」

 やはり普通そう考えるだろう。

 本来躊躇するべき答えを臆せずに口にするアステルに、思わずレノは肩を竦めた。

「いえ、その……」

 いっそその方が簡単かもしれない。レノは頬をかき、逡巡する。


「寝取れ、と」


「……は?」

「ええ、まあ、ちょっと冗談かなとは思いましたけど、目は本気でした」

 呆然とするアステルに、思わずレノの毒気が抜かれる。

「そんなことで婚約者の座がすげ替わるわけないだろ……」

「私もそう思います」

 想像だにしなかったのだろう、アステルは苛立ったように舌打ちをした。

「あくまで案の一つだそうですが」

「そんなバカげた策をぽっと出のお前に託すほど他に手がないということか」

 おそらくフィロメラは本当に手を尽くしたのだろう。

 そして最後の切り札を見つけてしまった。

「……お粗末すぎるな」

 アステルはそう吐き捨てながらも、過去の生の記憶が頭を過ると踏み留まざるを得なかった。

 彼女は僅かな隙さえ見つければ、盤上をひっくり返すことができるだろう──と。

「向こうはいつまでに答えを出せと?」

「いえ、それが何も言われておらず……色よい返事を待っている、とだけ」

「なんだそれ」

「明日ここを発つまでにもう一度接触されるのではと踏んでいるんですが……」

 できればもう二度とフィロメラの顔を拝みたくないのがレノの本音だが。

「案の定姉のことを引き合いに出されたので、表向きは受けることにしようと思っています」

 実際にはアステルについても仄めかされたが、それを本人に言ったところでだ。レノが目を伏せると、アステルは夜闇の下でも淡く輝く公爵邸に目を向けた。

「そして向こうの思う壺かもしれませんが、やはり両殿下にご報告すべきかと……」

「いや、」

 向き直ったアステルと、顔を上げたレノの視線が交差する。

「殿下本人はさておき、周辺の人間が公爵家と通じている可能性が高い。同盟を攪乱かくらんする虚言だとお前が切られて終わりだ」

「ですよね」

 いくらアステルが援護をしたところで、一国の王子が末端の意見だけを聞いて動くはずがない。アステルの言う通り、多数決になれば負けるのはレノだ。

 

「大体、男のお前が何をどうして殿下と同衾どうきんできると思ってるんだあの令嬢は」

「私とアステル様が恋人だとエメリク殿下あたりから聞かれたからでしょう」

「……」

 昨晩の晩餐会での問答を思い出したようだ。アステルは目を泳がせる。

 よく効く薬を頂けるようですよ、とは口に出せなかった。

「そもそも──」

 アステルが口を開いた、その瞬間だった。


 砂利を踏む足音に、レノは勢いよく振り向いた。アステルも音の方へ鋭く目を向ける。

 現れたのは、息を切らせた書記官だった。額には汗が滲み、肩で荒く呼吸している。

「お話中失礼いたします、ヴァレリウス補佐官。緊急の報せです」

 書記官の視線はちらりとレノに向けられる。レノは席を外すべきかとアステルを見上げたが「そのまま話せ」と、間髪入れずに命じた。


「……王宮で非常事態が発生しました。最短でここを発つ必要があります」


 空気が、僅かに張り詰める。

「最短か。何時の想定で? 公爵家にどう説明する」

「可能であれば今すぐにでも。王宮から書状が出ております」

 それはつまりレノの前では濁す必要があり、かつ使節団の滞在を中断しなければならないほどの事態だということだ。

「……お前は部屋に戻って出立の準備を。他の者にも伝えるように」

 アステルの言葉に頷き、レノは残された二人に頭を下げ、踵を返す。

 全てを予知する力があればどれだけよかったか──レノは現実離れをした願いを、星ひとつない夜空に向かって投げかけた。



 ◇ ◆ ◇



 日付が変わる前には馬車がすべて揃い、ネルヴァ公爵家付の騎士団数名が護衛として列を成していた。その隣で、公爵と僅かな使用人たちが見送りのため並んでいる。

 夜気は冷たく、石畳に灯る松明の火が風に揺れる。

「この度は過分なる歓待を賜りながら──非常時ゆえにご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません」

「とんでもない。こうした時のためにこそ同盟はあるのですから」

 挨拶もそこそこに、使節団一行は順に馬車へと乗り込んでいく。

 レノもまた例に漏れず、馬車に足をかけようとした──


「レノ様!」


 その声に、動きがぴたりと止まった。

「……公爵令嬢様」

「こんな夜更けに出立とは……道中どうかお気をつけて」

 往年の友人を案じて駆けつけたかのような演出。芝居がかった表情と声色に、名指しされたレノは内心辟易する。

 フィロメラはレノの手を取り、身を寄せる。その動作は、すべてが計算されたものだった。

「またこちらにいらっしゃる時には、王都の楽しいお話の続きを聞かせてくださいね」

 楽しい話など、ひとつもした覚えはない。

「もちろんです。ご令嬢もどうかご健勝で」

 包まれた手のひらに、無機質な冷たい感触がある。何かを握りこまされたようだった。

 レノは表情を崩さぬまま、そっと手を離す。

 その瞬間、フィロメラはレノにしか見えないように、妖艶な笑みを浮かべた。

「我が公爵家が責任を以て皆様を無事にヴェルデルムまでお送りいたします」

 そして早く国に帰り、事態を見届けよ──フィロメラの言葉の裏には、そんな意味が潜んでいるように思えた。



 行きの馬車ではアステルとレノが同乗していたが、帰りはそれぞれ別の馬車に分かれていた。レノの馬車には侍従たちが、アステルの馬車には書記官が乗り込んでいる。

 本来はこの構成が正しいのだと、レノは壁際に身を預けた。

 侍従たちも今回の件の詳細は知らないようで、断片的に聞こえてきたのは、事件が起きたのがわずか四日前だということだ。

 使節団が十日近くかけて到着した道を、使者は四日で駆け抜けて報せを届けた。少なくとも、小火騒ぎでは済まない規模だ。


 レノは懐に忍ばせたもの──フィロメラから渡された小指ほどの瓶を、指先で転がす。

 一体どこまで、彼女の計算に組み込まれていたのか。

 「……今のうちに、少しお休みになった方がよろしいかと」

 顔色を窺いながらそう言ったのは、対面に座る侍従だった。レノは軽く頷き、馬車の外を見上げる。

 空には重い雲が広がり、月明かりさえ見えない。

(確かに、聖女なんて非現実的な存在を求めたくなるのも、わかる気がする……)

 腕を組み、強引に瞼を閉じる。

 侍従たちの囁き声が、遠ざかっていった。





 まるで土砂降りの雨の中を歩くように、視界が濁っている。


──これは、夢だ。


 目の前に誰かが倒れている。

 赤褐色に濁り光る液体が、まるで手を伸ばすように足元へと広がっていく。

『愚かだなぁ』

 自分の声でありながら、まるで他人の言葉が頭に直接流れ込んでくるようだった。


『王が愚かだと、誰も幸福にならないな。可哀そうに』


 握った槍の先で、倒れた者の頭を小突く。

 それはまるで人形のように、ぴくりとも動かない。


『──陛下!』


 振り返ると、人影が部屋に飛び込んできた。

 こちらの姿を認めた瞬間、射抜かれたように凍りつく。

『あ、なたは……』

『なんだ。高官がどうしてまだこんなところに?』

 一歩、二歩。人影は後ずさる。

『その陛下とやらは、ここでお亡くなりになっているけど──用はそれだけ?』

 背後の窓から階下を望むと、敷地のほとんどから火の手が上がっていた。

 終焉は、近い。

『何故……こんなことを』

『何故と言われても』

 距離が縮まる。人影は、諦めたようにその場に立ち尽くした。

『丸腰相手に切りかかるつもりはない。用が済んだなら、とっとと逃げな』

『……イリス様は、どこに』

『そこの寝台の上。そっちも死んでるけど、確認したけりゃどうぞ』

 『素っ裸だぞ』とせせら笑うと、人影は揺らいだ。


──これは、夢か?


『逆に聞きたいんだけど、フィロメラ様は?』

『……』

『はぁ、まあいいや。愚王と一緒に死にたいなら、ご自由に』

 短剣を投げる。石床に跳ねる音が、乾いた軋みとなって響いた。

 外の喧騒とは対照的に、この空間だけが不気味なほど静まり返っている。

 近づいても人影は石像のように動かない。

 すれ違いざま、その鋭い目がこちらを射抜いた。武器を持った敵に向けるには、あまりに真っ直ぐすぎる目つきで。その瞳は髪と同じく、光を拒むような黒色の──


『ああ、そうか。思い出した。見たことあると思った』


 ただの高官ではなかった。


『あんたも仕える相手を間違えたな──ヴァレリウス宰相閣下』






「──っは……、」

 夢の残響が、耳の奥で鳴り響いている。

 辺りを見回すと、侍従たちも俯いて寝入っているようだった。がたがたと揺れる車輪の音が、現実の輪郭を少しずつ取り戻させる。


 額からこめかみ、首筋にかけて、汗が滝のように流れていた。意識が覚醒すると、馬車の中の冷気で一気に身体が冷えてゆく。

 指先が震えている。

 作られた夢だとして、あまりに鮮明すぎる。

 レノは深呼吸を繰り返し、服の袖で額を拭った。


 黒い髪に黒い瞳、あの顔は。


(あれは、アステル様だった……)


 そしてあの場にいたのは、槍を持っていたのは、短剣を投げたのは、間違いなく自分だ。


(過去の生の記憶? あれがアステル様が見たものと同じなのか……?)


 レノは息を整え、うずくまった。


 予知ができればなどと願った自分が愚かだった。

 そんなもの──二度と見たくない。

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