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 あくまでパウラは下級侍女、レノはアステル直属の部下だ。立場が違えば距離も違う。簡単に手を差し伸べられるほど近しいわけではない。

 正確にはレノは副補佐官マニウスのさらに下、見習い補佐のような立場にすぎない。それでも王宮内外で、色んな意味で一目置かれているという自覚はあった。だからこそ軽々しくパウラの問題に関わるわけにはいかない。 下手に動けば逆に事態を悪化させる。そんな想像は容易に働いた。



「──おはようございます。レノ・ファーブルです」

「入れ」

 いつも通りパウラと別れたあと、指定された書類を執務室に届けに行くと顔を上げたアステルと目があった。

「なんだその顔」

「え」

「鳥の死体でも踏んだか」

「……さすがにそれは歩いてたら気づきますよ」

 怪訝な視線に、レノは慌てて目を逸らした。

 一目で暗い表情を見抜かれたことに、いらぬ心配をかけたくないという思いが先に立つ。

「いえ、嫌なものを見たという意味では同じですね」

 濁した言葉とともに、書類を執務机の端に置く。まだ見られている気配に観念し、レノは頬をかいた。

「その、よく食堂で話す侍女が嫌がらせを受けているようで」

「嫌がらせ?」

「本人は気にしていないと言うのですが」

 少しショックで、と続けると、アステルは筆先を止める。

「名前は」

「名前?」

「その侍女の名前」

 レノはアステルの質問の意図を測りかねて身構えた。少し間を置いて、アステルは溜め息を吐いた。

「別にそいつをどうこうするつもりはない」

「……パウラです。橙色の、これくらいの長さの髪で」

 レノが肩のあたりで手をかざす。アステルは少し窓の外を見て考えるようなそぶりをし、また筆を動かしはじめた。

「どこの担当だ」

「連絡係です」

「教養は」

「て……手前味噌ですが、私と本の話で盛り上がったことがあるので、それなりかと」

 挙動不審になるレノにアステルが紙を突き出した。端的に書かれた数行のうち、レノが目に入ったのはそれが"侍女長宛"と書かれた冒頭の部分だった。

「あの、これは……?」

「第五王女の世話係に異動させる依頼書類。読めるだろ」

「へ?」

「お前に話しかける胆力がある侍女をそんなバカげた環境に置くバカがいるか」

 おずおずと書面を受け取るレノに、アステルはまた溜息を吐いた。

「……王宮内の人事を見直すのも仕事のうちだ。多分通る」

「ありが、」

「別にお前のためじゃない。王家のためだ」

 早く持って出ていけと言わんばかりの仕草に、レノは慌てて姿勢を正し、深々と頭を下げた。

「この事はその侍女には言うな。知らん顔してろ」

「承知しました」

 むずがゆい気持ちは顔に出ていないだろうか──そう思いながら、レノはアステルの顔を見ずに退室した。

 手にした書面を、そっと持ち直す。皺が寄らないように。


(やはり、一刻も早くあの方の心配事を減らさなければ)

 今以上に本業に身を入れれば、アステルはこの王宮で更に出世するだろう。エメリクの教育係や国王補佐官の立場に甘んじるには勿体ない人物であることを、レノはアステルの下で働くこのわずかな時間で確信していた。


 やはり自分が立てた仮説をアステルに提案する必要がある。時間は限られている。

 レノは胸の中で固く決意し、足早くその場を去った。侍女長の元へと、まずは与えられた仕事を完遂するために。


 

 ◇ ◆ ◇



──レノが王宮に連れてこられてから、二か月近くが過ぎた。 


 新しい暮らしや仕事に馴染み、またパウラの制服が間もなく世話係のものに変わったことに喜びながらも、その裏でレノの胸の奥には重く沈殿するものがあった。

 当初に過去の話を共有されて以来、レノには何の進展も知らされていない。レノの扱いも話す内容も、あくまで上官と部下のそれだ。アステルの恋人だなんだという騒動についても、常に話題がめまぐるしく提供される王宮では取り沙汰されることもほとんどなくなっていた。ファーブル男爵家からは実家の修繕が進んでいるという報せと、息災を祈る手紙が一通送られてきただけだ。

 静かで、穏やかで、何も起こらない二か月。食べるものにも困らず、男爵家の経済を心配することもない。

 それは、レノにとってあまりに優しすぎる日々だった。


 結果、それがむしろレノの不安を募らせていた。

 何も起こらないことが、何かを隠しているように思えてならなかった。




「──え? アステル様?」

 アステルがしばらく留守だという報せを受け、仕事終わりにマニウスの元を訪ねると「聞いてなかった?」とマニウスは目を丸くした。

「エメリク殿下の婚約者が数日王宮にいらしてるから、その対応で超忙しくしてるよ」

「エメリク殿下の?」

「そ。ネモラリス王国の公爵令嬢様」

 ネモラリス王国──山々と大河を挟んだ向こう側にある、ヴェルデルムの隣国。小国ながら軍需産業が盛んで、古くからヴェルデルムと同盟関係にある。レノは、以前読んだ本の一節を思い出していた。

「まあ言ってもいいと思うから言うけど、これは特に過去と変わりないって。あの紙には書いてなかったかも」

 考え込むレノに、マニウスは先回るように笑ってみせる。

「んでアステル様になんか用だった?」

「いえ、……どこかで少し、お話したいことがあったので」

「なるほど書簡を飛ばせない感じの内容ね」

 ぽんと手を叩いたマニウスの目が、いたずらっぽく光る。

「そうだレノ。まだここに来てから王都の街には行ってないでしょ」

 息抜きでもしようよ、とマニウスがにやりと笑った。


「──まさかレノがまだ酒が吞めない年だなんて……」


 意気揚々と街路に踏み出したのも束の間、行きつけの酒場に入ろうとしたマニウスの足を止めたのは、レノの慌てた声だった。

「だってレノ、今年十八の年だって聞いてたよ!?」

「一応誕生日が灰星月12月でして……」

「え、来月? ならもうよくない? 誤差では?」

「王宮勤め的にはちょっと」

 この国においては酒が呑めるのも結婚ができるのも、成人として認められるのも十八歳からだ。

 泣き真似をするマニウスを宥めながら、二人が入ったのは街の南端にある大衆食堂だった。節の浮いた木梁が店内の天井を走り、どこか懐かしい干し草の香りが鼻腔をくすぐる。老若男女のざわめきの中に、椀のぶつかる音と、肉の脂が焼ける匂いが漂っていた。

 半個室のような角の席に腰かけ、レノは見慣れないメニューに目を泳がせた。その反応を見て薄く笑ったマニウスが慣れたようにいくつか注文をすると、ほどなくして木皿に盛られた料理が運ばれてくる。

 焼き野菜の甘く香ばしい香りと、薬草ハーブで煮込まれた鶏肉の湯気。レノは目の前に置かれった琥珀色の果実水を手に取り、恐縮しながらマニウスと杯を交わした。

「ずっと疑問だったんですが、カト様はおいくつでいらっしゃるんですか?」

「僕? 僕見た目通り二十四」

「え」

「いやそれどっちの反応?」

「……失礼ながら、お若く見えてました……」

「なるほどね?」

 僕のこと舐めてたな?とマニウスが笑いながら乱暴にレノの頭をかきまわす。

「となるとアステル様は三十……半ばとか」

「ぶっ」

「えっ!?」

「はっはっはそうだよね! あれだけ偉そうで実際偉いとね!」

 レノが困惑したように目を瞬くと、机を叩いてひとしきり笑ったマニウスは指を立てる。

 二、五、と。

「……へ?」

「今年で二十五だよ。僕よりひとつ年上か」

「ほ、本当に?」

 三十代だとしても若いと思っていたレノは、あんぐりと口を開いた。他の国王補佐官の顔を見ることはあったが、四十代以上ばかりだったからだ。

「そのお年であの立場に……?」

「まあ、それはヴァレリウス家門の実績と、やっぱりアステル様の優秀さ所以じゃない? 登用試験は首席だったらしいし、陛下も一目置いてるとか」

 もちろんもそうらしいよ、とマニウスはにやりと笑う。

「そんなことより。レノ、最近どうも浮かない顔をしてるなとは思ってたんだけど」

 卓を挟んだマニウスが姿勢を低くして、声を潜めた。

「さては……恋の悩み?」

「それはすみません、全く」

 マニウスは肩をすくめ、楽しげに舌打ちをひとつ。 杯を呷ると「若人って他に何に悩むわけ?」とつまらなさそうに頬杖をついた。

 食堂の喧騒は相変わらずで、隣の席では誰かが楽しそうに大声で笑っている。このざわめきの中なら──と、レノは意を決して口を開いた。


「その……以前お話しいただいた、過去の件で」

「うん?」

 マニウスの目に、わずかに静けさが戻る。

「私が、その。このまま呑気に過ごしていて良いのかと……」

「というと?」

「せっかく情報を共有頂いておきながら、アステル様のお悩み事の解決に何も助力できていないのが心苦しくて」

 恵まれた環境に置かれていることへの対価を支払えていないことが苦しかった。エメリクに娯楽半分で連れ出されたとはいえ、こうも役に立っていなければ本来男爵家に返されていてもおかしくはない。

「え? 何が? なんで?」

 目を伏せたレノに対し、マニウスは呆気にとられたように首を傾げる。

「普通にアステル様の助けになってると思うけど?」

「それはまあ、仕事をさぼったりはしていないつもりですが」

「じゃなくて、だってほら。普通に君がいい奴だからだよ」

 言い切ったマニウスはレノの反応を見て、わずかに眉をひそめた。響いていないらしいことに気づき、唸るように天井を見上げる。

「僕もアステル様も伊達に貴族生まれの王宮勤めじゃない。レノが信用に足る人間だって分かったから、気の置けない仲間になってるわけで」

「信用、ですか」

「まあ……確かに正直、僕らも君のこと疑ってたけど。それもすぐに誤解だと思った」

 マニウスはレノ・ファーブルという人間に対して、当初は強い警戒を示していた。

 本当は彼もまた過去の記憶を持っているのではないか。 狡猾に王宮を暗躍し、聖女イリスのいない今生で、別の誰かの命を狙っているのではないか──と。

 だが、それもこの二か月でほとんど瓦解した。

「まあさすがにアステル様の恋人になるとは思ってなかったけど」

「なってないですけどね」

 レノの即答に、マニウスは肩を揺らして笑った。 その笑いは、どこか安心したようでもあった。

「僕もアステル様の考えを全て代弁できるわけじゃないけどさ」

 レノの空になった杯を見て、マニウスは給仕を呼ぶ。二杯目を置いて立ち去ったのを見送りながら、マニウスは慎重に頭の中の言葉を組み合わせる。

「少なくとも今のレノを危険人物だと思うなら、熱でぶっ倒れそうなときに部屋に転がりこんだりしないでしょ」

 説得力がありそうなエピソードを選んでみたつもりだったが──マニウスはレノの顔を見てやれやれと肩を竦めた。腑に落ちていないらしい。

 育った男爵家では外との関わりがほとんどなく、いわば箱入り息子のレノには他人との距離感を推し量るだけの経験値がない。それはマニウスにも想像ができた。

「とにかく、君が思ったよりもいい奴だったからアステル様は今の仕事以上のことを求めてないんだよ。一緒に働いていて気楽だっていうのも、レノを置いておく理由になると思うけど?」

 渋々頷くレノを前に、マニウスは今頃走り回っているであろう不器用な上官、アステルを思い浮かべた。


 そして同時にアステルがしたためた三度の生の記録を反芻し、誰に対してでもなく宙に問いかける。その疑問はレノと出会ってから何度もぶつかったものだ。

 このレノ・ファーブルは、やはり過去のその人とは別人なのではないかと。

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