前夜

 月が中天に届く前に儀式は終了した。

 喪中は飲食が厳しく制限されるから曹嵩の親族である曹氏や夏侯氏は酒も飲めない。大将が酒を飲めないならその部下たちも飲むわけにはいかないということで、儀式はその盛り上がりと比べて驚くほどに呆気なく粛々と解散となった。


「いやぁ、さすが荀司馬の女だ。蔡公のご息女もまだ若く女ながらに文に明るいと聞くが、それに匹敵するのではないか?」


 わたしが文若さんと志才さんに挟まれたまま先程までいた天幕に戻ろうとした時、誰かが遮るように声を掛けてきた。

 儀式の最中文若さんの上座、隣に座っていた陳公台殿だ。

 褒める体を装っているけれど、そんなつもりは毛頭ないことが表情と言葉の端々から伝わってくる。


「この娘が私の女だという話は、殿が彼女の身を案じて吐かれた方便です。どうか、陳先生に於かれましてはそのような戯言を信じませぬよう」


 文若さんはわたしを自分の体の後ろに隠すようにして、陳公台から一歩距離を取らせた。


「そちらの戯君も──確か荀司馬の推挙だったな」


 彼の鋭い一重の瞳が、わたしから志才さんに移る。


「引き入れる者が素行不良者に身元も不確かな女とは……。名家の荀家ともあろう者が必死だな」


 せせら笑う様に放たれたその言葉は明らかな敵意だった。

 「どの口が──!」低く小さく、隣に立つ志才さんが呟く。


「陳先生。私は志才殿も彼女も己の為に曹使君に引き合わせた訳ではありません。彼らの能力が必ず殿の助けになると思いそうしたのです」


 ピリピリとひりつく空気の中に文若さんの静かな、けれどはっきりとした声が響き渡る。


(こういう所が──)


 わたしは斜め後ろから、少しだけ見える彼のいつも通り変わらない清廉な横顔を窺った。

 ──こういう所が、いつからか感じる彼の妙な部分なのだ。

 文若さんはいつだって儒教を体現するような振る舞いをしながら、時折その教えをまったく信じていないような言葉を吐く。


「荀家の八龍と呼ばれる父上が嘆くぞ」


 陳公台の言葉で、またその場の空気が一変した。

 隣の志才さんは怒気を顕わにし、文若さんは──。


「──っ!」


 その眼差しに、息を呑む。

 文若さんは見たこともないような冷たい瞳で嘲笑を浮かべる陳公台を見ていた。

 いや。──見ていなかった。


 彼は陳公台の後ろに父の幻影を見ていた。兄弟を、祖父を……。連綿と繋がる一族の姿を。


 温度のない凝った怨嗟の塊が、文若さんの瞳の中に見えた。


(そういえば、わたし……文若さんの口から子澄さんとお子様以外の家族の話って、きいたことあったっけ?)


 ない。幾度思考を巡らせてみても、名士荀家の名が挙がるのは、文若さん以外の人の口からだった。

 「荀家は名家だから」と教えてくれた子澄さんだって、思い返してみれば文若さん本人の前では言ってなかった。

 いつもは気遣いなんてしない奉孝さんも志才さんも、彼の前で「名家荀家の荀文若」を褒め称えることはなかったように思う。


「行こう、文若。璃耶が眠そうだ」


 わたしの腰を抱き寄せて自分に凭れ掛からせた志才さんが、文若さんの袖も引っ張って促した。

 振り返った文若さんと目が合って、わたしは態とらしく目元を手の甲で擦り、小さく欠伸をしてみせた。それから凭れている志才さんの肩にさらに体重を預ける。


 そんな様子を目にした文若さんは──微かに。本当に微かに口許を緩めた。


「りぃや、眠いか?」

「んー、緊張が解けたからでしょうか……。すごく、眠いです……」


 実のところ、昼から慣れない馬に揺られ鄄城を出発し、現代の人間にとっても超有名人である曹操と対話して、曹嵩の服喪の儀式で生まれて初めて琴の音の中で詩を読んだわたしは、その活動量の多さにも拘らず全く眠たくなかったのだ。

 おそらく、緊張の糸が今もまだビンビンに張り巡らされているからだろう。


(うーん……アカデミー賞授賞できるんじゃない?)


 少し臭う志才さん胸元に顔を押し付けて愚図るような演技をする。


(ああ、これじゃあアカデミー賞じゃなくて学芸会の演技だわ……)


 段々と幼児のような行動をする自分が恥ずかしくなってきた。


(ねぇ。もう、そんな嫌な人のことなんか放っておいて、行きましょう?)


 願いを込めて文若さんの顔をじっと見つめると、「根負けしたよ」と言わんばかりの眉尻を下げた笑顔がわたしに向けられた。


「りぃや、おいで」


 右手を引かれ、志才さんの身体に密着していたわたしの身体が文若さんの方に引き寄せられる。


「志才殿。いくら戦行動中とはいえ、曹公の服喪の儀の前には潔斎くらい済ませるべきでしょう。りぃやがすごい顔になっている」

「なんだよ、俺が臭いってのか?一、二度香油を混ぜた湯と布で拭いたんだぞ」

「臭いです」


 文若さんの言葉には容赦がなかった。


「という訳で、陳先生。そういった話は又の機会に。今は大役を終えて疲れているところを、志才殿の体臭にやられてしまったこの哀れな娘を天幕まで運ばねばなりませんので」


 文若さんはそう言うとわたしの身体を横抱きに抱え上げた。


「りぃや、落ちると危ないから首に手を回しなさい」

「!!」


 これは……。

 さっきまでの志才さんとの密着なんかとは比べ物にならない。

 わたしの頬にまだ少しだけ苛立たしさが抜けない文若さんの鼻息が当たる。

 薫る体臭は、伽羅をメインにした配合の大人の香り。爽やかさとスパイシーさもあるから陳皮と桂皮なんかも入っているかも……。そこに、苦めの甘松が一匙……かな?


 以前に子澄さんから受けた香を混ぜる講義を思い出す。



『香木って高価でしょう?良い匂いを身に纏わせるというのは気持ちが良いけれど、実はそれ以上の価値があってね』

『それ以上の価値……?』

『文若様は若く見えるお顔立ちだから、下に見られることもあるのよ。常に最高級の薫りが漂うということは権威を見せつけるためでもあるの』



 そしてそれらを纏める様に微かに漂う龍脳は、香に直接混ぜ合わされたものではなく文若さんがいつも帯びている墨の香りだ。


 安心する、匂い。

 頭の先から踵の先まで清浄な薫りが身を包む。


 薫りを通して文若さん自身に護られているような心地になって、わたしは遂に意外と逞しい文若さんの首に両腕を巻き付けたままうとうとと睡魔の手の内に落ちていく。


「本当に殿の為を思うなら次に推挙するのは優秀な荀家の者にしろ」


 意識の遠くの方で、勝ち威張りなのか負け惜しみなのか分からない陳公台の声が聞こえる。


「難しいのか」


 わたしがすっかり眠っていると思って、志才さんが文若さんに寄り添って低く訊ねる。


「私でも声を掛ければ来てくれそうなものはいるが……」

「友若殿は?」

「兄上は今は袁本初の元で力を奮っておられるからな」

「公達様は?」

「彼は、今は諸国を周遊しておられる。曹に付くには今ひとつ決定打に欠けると仰られていた」


 はあ、と吐き出された溜め息交じりの呼気は、またさらさらと優しくわたしの額を撫で上げていく。


「おまえが尊敬していたあの、隠遁してる……」

「仲豫様のお力を借りられればどれだけ良いかとも思うが……」


 人の頭ごなしに男の人達は密談を重ねる。


「まったく、荀家のお歴々は……相変わらず、おまえに力は貸してくれぬのだな」


 はぁ、と苛立たしそうな志才さんの声。


「子供達を本家で見てもらえる分、マシな方さ。それに……」


 文若さんの言葉の続きを聞くことなく、わたしは夢の国の最奥にたどり着いた。

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