誦詩練習

 詩を詠む練習がしたいと言うと、志才さんが琴を天幕の中に運び入れてくれた。

 そのまま志才さんが弾くのかと思ったのに、琴は文若さんの前に置かれる。

 子澄さんが弾いているのは何度か見たことがあるけれど、文若さんも弾けるというのは初めて聞いた。


「弾けるんですか?」


 聞くと、文若さんは肩を竦めて「程々には」と答える。なんでも歯切れよく断じて答えてくれる文若さんにしては珍しい態度だ。


「文若は楽も謡も上手いがなかなか披露してくれんのだ」


 残念そうな曹操の言葉に苦笑してみせる。


「宴のような席では楽の真髄を知らぬ私のような者が奏でても場を白けさせるだけですので」


 文若さんは謙遜しない人だ。

 その態度には努力して得た自分の知識や能力への絶対的な自信が窺える。

 そんな彼が曖昧に言葉を濁すだけなのだから、本当に上手くないのではないか。


 ──というわたしの疑念は、すぐに晴れた。


「文若さん、滅茶苦茶上手いじゃないですか!」


 しかも胡座をかいた膝の上に置いた琴を背筋を伸ばして爪弾く姿は、まるで一幅の絵画のように美しい。

 左手を七本張ってある弦に添えて、右の指で弾く。

 深い、低い音が天幕内の空気を震わせた。


「譜面通りに弾くことは一応できるが、上手いわけではない」


 文若さんが左の中指を弦に滑らせて細かく震わせると、琴からも震えたような切ない音が響く。


「幼い頃から身内の集まりで弾かされたが、やはりどうにも皆白けてしまった。私に楽の才はないのだろう」


(それって本当に場が白けたんだろうか?)


 皆、今のわたし達みたいに、黙り込んで文若さんが繰り出す音を聴こうとしてたんじゃないのかな?


 その時、天幕の外からおどおどとした声が届いた。


「あのぅ、荀司馬はこちらに居られますか?物資の事でご相談が……」


 弦を弾く手を止めて、文若さんが立ち上がろうとする。それを志才さんが手を翻して制止した。


「そんな事なら俺にも分かる。おまえは大役に怯えて震えてた小娘の練習に付き合ってやりなさい」


 そう言って出ていった志才さんに続き、曹操も「略式とはいえ祭礼の為に潔斎して準備に取り掛からねば」と天幕を後にした。


「文若、キミが思うほどキミの楽は悪くない。ただ少し、素直すぎるだけだ」


 そんな言葉を残して。


 文若さんは立ち上がろうと崩した足をまた胡座の形に戻して、その上に琴を乗せる。


「奉孝は──」


 何かを言いかけて口を結び、それから二回弦を抓んだ。

 琴の音は鏗鏘と天幕内に響き渡る。


「子澄は変わりないだろうか?」


 わたしは文若さんのすぐ横に座って、頷いた。


「元気にされています。文若さんが出立されて数日は心配そうにしていたけど、奉孝さんにお説教してるうちに少しずつ元の生活に戻られました」


 その光景を思い浮かべたのだろうか、文若さんの口元が微笑む。


「まさか便りを送って、その返事におまえが現れるとは思わなかった。無理をさせたな」

「いえ!恵伯さんも付いて来てくれたので。それに──」


(文若さんが出陣する前に、こうやってゆっくり話すことができて良かった)


 「それに?」と不自然に言葉を途切れさせたわたしを、文若さんが不思議そうに促す。

 わたしは顔の前で手を振って、


「恵伯さんはどうしたんですか?」


 慌てて話題を変える。


「恵伯は、今は炊事場の方にいる。せっかく居るのだから今宵は使わせて貰うさ」


 なるほど。だからずっと姿が見えなかったのか。わたしは納得して、また文若さんが爪弾く琴の音を楽しむ。


 琴どころか、音楽のことすらよく分からないけれど、目を閉じて聴く文若さんの音は硬質で、清涼で、遊びがなくて。


(曹使君の言っていた素直すぎるってこういう事かな?)


 そう思う。

 真面目で堅苦しい、この人そのものみたいな音。そういうところを文若さん自身は才能がないと断じているのかもしれない。


(でも、わたしは好き)


 日本のお正月によく聞くような華やかな旋律ではない。胸にじわりと沁み込んで、感情そのものを揺さぶるような寂寥感を煽る旋律。


「──早く、詩を詠みなさい」

「あ!そうでした!」


 文若さんの言葉に、彼が今なぜわたしに琴を弾いてくれているのかを思い出す。

 慌てて詠もうとするけれど、そもそも琴の音に合わせて漢詩を詠んだ経験のないわたしは最初の一語すらどのようにして良いのか分からなかった。


「あの、詩を詠うなんて初めてで……。お手本を見せてもらって良いですか?」


 はぁ、と文若さんは手を止めて、呆れたようにわたしを見た。


「詩を詠じた事もないのに承諾したのか?」

「だって、曹使君の命令を断るなんてできませんよ……」

「それは──そうだが」


 眉間に寄せた皺を右手の親指でぐりぐり揉みほぐしながら、文若さんが二度目のため息を吐く。


「先程も言ったが、私に楽の才はない。本来なら志才殿のような方に教わる方が良いと思う」

「でも、曹使君は文若さんは謡も上手いって仰ってましたよ?」

「楽に関してはあの方は私を買い被っておられる」


 気が進まなそうに、それでも「貸しなさい」とわたしが握っていた竹簡を受け取って琴の前に置く。


「一度しか詠わん」


 そう宣言して、文若さんはまた琴を弾き始め──詩を吟じた。

 低めの声が、凛と鼓膜を震わせる。

 文若さんは威厳と静謐さを同居させた不思議な歌声で、曹操の短い詩を歌い上げていく。


 歌が終わり琴の音も止まった時、わたしは思わず拍手をしていた。

 その様子に文若さんが眉を顰める。


「なんだ、それは?」


 ああ、またやってしまった。この時代に拍手で演奏や歌唱を称える習慣なんてないというのに。


「これはわたしの国の習慣で、何か素晴らしいものを目にしたり耳にした際に手を打って相手を称えるんです」

「そのように忙しなく手を打つというのは野蛮な行為だから、あまりしない方が良いだろう」

「はぁい…」


 怒られてしまった。


「じゃあ、今の文若さんの歌を称えたい時にはどうしたら良いんですか?」


 私の問いに、文若さんは目を瞠った。まさか自分の歌が褒められるとは思っていなかったという顔だ。


「私の楽がそれほど悪くなかったというのは、今のおまえの顔を見れば分かるが──」


 少し照れたように目を伏せる。


「どうしても何かを伝えたいと思うなら、音の余韻を楽しみながらおまえ自身の言葉で賛辞を贈りなさい。その方が相手にも喜ばれるだろう」


 文若さんはわたしの「先生」だ。

 ああしてはいけない、こうしてはいけないといつもお説教されるけれど、どうすれば良かったのかも教えてくれる。まさに先を行って導いてくれる人なのだ。


(だからわたしのこの気持ちも、若い学校の先生に覚えるような、憧れと恋心を取り違えたものなのかもしれない)


 多分そうだ。いや、そうでなくては困る。

 文若さんにはすでに最高に可愛くて聡明な、何よりも文若さんを一番愛している唐子澄さんという奥様がいるんだから。


「りぃや」


 名前を呼ばれて、一瞬過ぎった不埒な考えが見透かされたのかと驚いた。

 だけど文若さんの顔は存外穏やかで。


「時間がない。練習するなら早くしなさい」


 そう告げられ、わたしは慌てて詩を詠じる練習に取り掛かった。

 文若さんの奏でる硬質な琴の音に負けないように声を引き締めて。


 半刻ほど練習できたところで、「祭祀の準備が整いました」と使いの人が来た。


「さぁ、本番だ」


 文若さんがわたしに手を差し伸べながら気合いを入れるように言う。


「緊張するなとは言わないが、自信を持って役を果たすといい。おまえの声は、張りがあって美しい。浮屠が語る浄土に住まうという迦陵頻伽の鳴き声とはこういうものかと思ったよ」


 わたしは文若さんの手を取って頷いた。

 なるほど、拍手の代わりとはこうすれば良いのか、とも学ぶ。



 ──わたしが「浄土に住む迦陵頻伽」がどんなものかを知って恥ずかしさに卒倒するのは、鄄城に帰った後の話になる。

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