シュレーディンガーは未来を詠んだ――量子の光が照らす、都市の記憶と貧困女子高生の希望

島アルテ

第一章 セレンディップの観測者

第1話 誰にも、解けない #朔



(誰にも解けない問題――そのはずだった)



 新開地朔しんかいちさくは手に取って見つめていたコピー用紙を、今自分が座っている、自習スペースの机の上に置く。ほぼ白紙の用紙、その最下段の位置に一行だけ、数個の数字と矢印が書かれている。


 0 → 5 → 10 → 14 → 17 → 22 →…………→ 0 1822


「厳密解……」


 さくはぼそりとつぶやきながら、置いた用紙の隣にある紙束に目線を移す。朔が自宅で印刷して、この図書館に持ってきた研究レポート。内容は、三十都市の動的非対称TSP、いわゆる巡回セールスマン問題について。都市を全て巡る最短経路を求める問題だ。朔はその一枚目の記述をざっと確認する。


『各都市の電車のダイヤは固定。それに応じた乗継・待機の要否によって移動時間が変化し、パターン数は爆発的に増加……組み合わせ数は2.65×1032……』


(途方もない数字……それに厳密解は総当たり法でしか導出できないはず……スーパーコンピュータでも不可能な計算量……)


 内容は難解だが、重要なのはどうやっても部類の問題だと言うことだ。

 手に持っている白紙にもう一度目を戻す。少し丸文字の、丁寧な筆跡。手書きで最下段に書かれていた一行は、この問題の模範解答だ。


(自力で演算した? まさか……。用紙の上側の余白を空けた理由は? ……途中計算式記述用?)


 区立図書館の中央、吹き抜けになった大書架。その周囲を囲むように配置された中空の回廊に、四人掛けの机と椅子が幾つか置いてある。朔はその一つに座っていた。

 ふと、回廊の端、二階出口に目を向ける。綺麗に整列した観葉植物の鉢や、談笑している学生カップルの姿が目に留まる。

 出口付近のカフェで、コーヒーを飲みながら小休止していた時、深江ふかえから電話がかかってきた。電話を終え、カフェの会計を済ませた朔は、何気なく自習スペースに戻った。

 

 そこで、思わぬ光景を目にする――机の上に置いていたメモ用の白紙に、問題の答えが記載されている。


(いったい誰が……)

 

 カフェに行って戻ってくるのに費やした時間は三十分程だ。

 その間に、自習スペースの席に誰かが来て、研究レポートを見た。


「三十分で問題を読み、動的非対称TSPの内容を把握し、計算して解答を記述して、立ち去る……」


 物理的に言えば、あり得ない。

 朔はこの問題をまだ深く検討していないが、それだけはすぐに分かった。

 この問題は、朔が個人的な交流関係から入手したものだ。最新型の次世代汎用量子コンピュータ、その性能実証試験に使われた試験問題。その量子コンピュータでも、厳密解を出すのに三時間かかったという。

 白紙に書かれていた手書きの解答は、その演算結果と寸分違わぬ内容だった。

 論理的に導き出される結論は、


(書いた人物も、あらかじめ解答を知っていて、それを書き写した)


 それしか考えられない。

 朔はふと、左右を見回し、同様の自習スペースを確認する。

 目撃者がいないだろうか?

 周囲の自習席には誰も座っていない。

 二階回廊の入口、途中の階段付近にも人影はなかった。

 出口付近の学生カップルは、朔と同じくカフェに居たので、解答者を目撃してはいないだろうと考えた。

 朔は椅子を引くと、立ち上がり、机に顔を近づけて表面を見る。

 何か落ちていないか、解答者の手がかりがないか探す。

 机の上にはめぼしいものは何も見つからなかったので、今度はしゃがみこみ、机の下をのぞきこむ。

 その時点で、自分はなにをやっているのだろうと我に返る。


(探偵の真似事みたいだな……ん?)


 椅子の脚の脇にあった見慣れないもの。朔はそれを拾い上げる。黒く細い一筋の、


(髪……)


 一本の長い黒髪。かなりの長さ。ロング以上だろう。

 くせはなくストレートだが、若干つやが無い。


(この長さ…女性かな……?)


 朔はこの自習席を朝から使っている。

 図書館は閉館後に毎日清掃しているようだが、例えば掃除をしている人が女性で、この髪を落としていったという可能性もある。

 髪が解答者のものである可能性は五分五分ぐらいだろうか。


(掃除している人がロングヘアーだとも限らないし、男性である可能性もあるのか……そうするとこの髪はほぼ解答者のものか?)


 朔は椅子に座りなおすと、周囲を気にしながら、慎重に携帯を取り出す。

 SNSアプリを開き、文章を打ち始める。宛先は、先ほど電話をしていた人物、深江――朔に問題文を渡した人間だ。

 朔は深江とSNSでチャットを始める。


朔:先輩、ちょっとお話したいことがあります。

深江:お、何? もうできたの?

朔:電話でも言いましたけど、そんなに速くできません。まだ問題とロジックに目を通した程度です。株式投資に転用するというのでしたら、まず経済モデルに変換しないと。

深江:そこは親父さんの知り合いの金融数学屋とかに頼んでみてよ。いるだろ?

朔:いますけどね。

深江:いつも頼んでる資産運用の話と勝手違うから、もしかして苦労してる?

朔:それは大丈夫ですよ。結構興味ある話題ですし。それより、先輩にこの件に関して聞きたいことがあるんですけど。この問題、誰か他の人にも送りました?

深江:いいや、朔にしか送ってないよ。

朔:わかりました。ありがとうございます。


(深江さんの線は無しか……)


 ということは深江以外の他の研究員。

 しかし、深江の務める量子コンピュータ研究所は筑波にあり、朔の住む安倍子あべこまでは電車で一時間半の距離。他の研究員が安倍子を生活圏にしているというケースも、無いことは無いだろうが。

 朔は自席に座ったまま、もう一度図書館の中を見回す。

 二階の回廊スペースには変わらず人が少ないが、一階の書架の中には、朔と同じ制服を着た高校生が何人か立っている。

 駅前の総合施設内にある区立図書館。

 朔の通う学校はこの場所から徒歩五分の距離にある。


(今日はゴールデンウィーク最終日。遠出した人は帰宅して、社会人は明日からの仕事に備えている頃。図書館に来るのは、やはり学生が中心か……解答者は高校の生徒と言う可能性もあるのか……あの研究所とつながりのある人が、同じ高校にいる? そんな話は聞いたことが無いが……)


 そこまで考えると、朔は机に広げた問題と解答用紙をスクールバッグに仕舞い込み、自習スペースを発つ準備をした。


(少し面白くなってきた)


 まだ確実には言えないが、同じ高校に、自分と同じく量子コンピューティングに興味を持つ人間が居るかもしれない。

 本当にそうだったらいいな、と思いながら、朔は図書館を後にした。






――――――――作者コメント――――――――

※補足:巡回セールスマン問題(TSP)は、「全部の都市を一度ずつ回って、できるだけ短い道のりにするには?」という数学の問題です。


※数式描写や数学のロジック説明は出ますが、それほど重要ではないので、その部分は真剣に読み込まなくても理解できるようにしています。


※話タイトルの横にあるのは三人称一元視点の対象の人物名です。

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