唯一の脱出者

らぷろ(羅風路)

唯一の脱出者

――最初の三日は、音を数えていた。


空調の低い喘ぎ、循環水の脈拍、かすかに軋む外殻。耳を澄ませば、船は生き物のように息をする。誰もいない宇宙船の中で、三十五歳の俺は、ただ、その呼吸に耳を寄せていた。


契約社員。大手宇宙会社との単発契約。名目は「遠距離観測プラットフォームの定期保守要員」。打ち上げ前、上司は言った——「ね、悪くない話だろ。半年で終わる。危険手当は破格だ」。俺は頷いた。通帳の残高はいつも薄かったし、地上に残してきた部屋の冷蔵庫はいつも鳴いていた。半年、宇宙で黙って働いて、戻って、少しだけまともな暮らしを——そう思っていた。


船の名前は〈イソラ〉と書いてあった。孤島、という意味だと後から知った。出発の朝、格納庫の蛍光灯が、やけに白く冷たかった。俺を送り出す人間はいない。家族写真もない。大気圏を抜け、エンジンの震えが底に沈むと、青い球体が窓に丸く貼りついた。地球の青は、教科書の写真よりも深かった。半分、安心した。半分、嫌な予感がした。


船内は、俺の想像よりも広かった。狭いコックピットと寝袋だけのカプセルを想像していたが、〈イソラ〉には走れるほどの廊下があり、薄い樹脂に覆われた温室モジュールが三つ、水耕栽培装置は大人一人が入れるくらいの槽で、藍色の藻が静かに泡を吐いていた。食料庫には、見慣れない規格のパックが天井までぎっしりと積まれている。壁の端末にアクセスすると、冷たい文字列が現れる。「本船は単独乗員の百二十年生活維持能力を有する」。俺は笑った。百二十年。馬鹿みたいだ、と声に出してみた。船は答えない。藻だけが泡を続けた。


最初の点検はルーチン通りに進んだ。観測鏡のキャリブレーション、姿勢制御スラスターの試験、通信リレーの確認。地上との回線は遅延が大きいが、繋がっていた。地球の管制から届くメッセージは、いつもきちんとしていて、いつも少しだけ人間臭さがなかった。「点検手順4−Bを実施」「良好。次の手順へ」。俺もまた、きちんと答えた。「了解。実施する」。テンポよく進む仕事は、孤独をあまり感じさせない。人間は、手順書の中で呼吸しやすい生き物だ。


四日目の夜、地上のニュースパケットに混じって、妙なファイルが届いた。暗号化され、鍵は船内で生成される。解いたそこには、企業のロゴがあり、広告の台本のような文章が始まった。


〈緊急時広報案:人類の火をつなぐ。選ばれし一人の物語〉


背筋に嫌な汗が出た。スクロールすると、俺の名前があった。〈被験者N〉。俺は被験者になっていたのか、と苦笑した。さらに読むと、「単独生存シナリオ」「長期持続可能生活環境」「物語化」「希望の象徴」「プレゼンター」。いずれも、誰かに見せる予定の文章だ。緊急時。選ばれし一人。俺は端末を閉じた。船の中の空気が薄くなるような気がした。


それからの時間は、やたらと長かった。俺は温室で芽を出し始めたレタスを眺め、手で土に似せた培地をほぐした。培地は土ではない。だが指は勝手に土の匂いを探そうとする。朝はゴムの走路をゆっくり走った。体を動かすと、思考はゆっくりする。走りながら、俺は地上のことを思い出す。コンビニの蛍光灯、夏の路面の照り返し、階段の鉄の手すりの冷たさ。思い出は全部、触覚の形をしている。


ある朝、通信が不安定になった。雑音が増え、文の端が欠け、やがて単語が欠けた。欠けた単語の隙間から、別の何かが滲み出る。「臨時」「避難」「安定化」「制御」「想定外」。簡単な言葉ほど怖いのは、意味が大きいからだ。俺は端末を握る手に力が入り、指紋センサーがかすかに熱を持った。返信は送れない。送っても、届くかどうかわからない。俺は温室に行き、藻の槽をのぞき込んだ。藻は泡を吐き続ける。宇宙は静かだ。静かで、やけにうるさい。


その夜、俺は夢を見た。地球がアメーバのように、ゆっくり形を変える夢。大陸の縁が薄紙のようにめくれ、海が手のひらでこすったペンキのように剥がれ、そこから光が漏れてくる。夢の中の俺は、ただ見ていた。何もできなかった。目が覚めると、額に汗が貼りついている。空調の風がそれを乾かす。乾いた汗は塩を残す。塩の感触が、灯台みたいに正気を連れ戻す。


翌日、地上からの最後のメッセージが届いた。短く、妙に丁寧だった。「計画Cに移行する。あなたは船を信頼し、自身を信頼しなさい」。俺は笑おうとしたが、口角は震えただけだった。計画C。どこかにAとBがあったのだろう。たぶん、うまくいかなかった。俺がここにいることと、関係があるのかないのか、もう確かめようがない。


俺は観測窓に行き、固定具に足を引っ掛け、地球を見た。青はまだ青だった。白い渦がゆっくり回っていた。俺は窓を額で押し、ガラスの冷たさを信じた。宇宙は、ときどきやさしい。距離のやさしさだ。遠いものは、簡単に美しい。


日常は続いた。俺は自分のために予定表を作り、朝食、運動、点検、読書、栽培、整備、日誌、星の観察、寝る、の順番を作った。予定表は、孤独の骨格のようなものだ。骨がなければ、柔らかいものは形を保てない。日誌には、なるべく具体的なことを書いた。レタスの葉の縁のギザギザが昨日より鋭いとか、温室の照明の一つがときどき一拍遅れるとか、スラスターB3の微振動が平均から0.03%外れているとか。具体は、恐怖の歯を鈍らせる。


三週間が過ぎた頃、俺は船の深部のロッカーで封印されたコンテナを見つけた。封印コードは、端末の中の「緊急時広報案」と同じ鍵で開いた。中には、紙が入っていた。宇宙船の中で紙を見るのは、不思議だ。紙は重い。そこには、誰かが打った文字でこう書かれていた。


〈あなたはひとりだ。これは失敗でも、罰でもない。私たちはひとり分しか用意できなかった。誰かが一人で火を運ぶ必要があった。あなたは選ばれたのではない。当たったのだ。すべての当たりは、誰かの外れの上に立っている。〉


俺はしばらく立ったまま、それを読んだ。文字を指でなぞると、指先にわずかなインクの凹凸が伝わった。書いた人間の顔は見えない。だが、書いた時の呼吸が、紙の中に閉じ込められている気がした。


——選ばれたのではない。当たったのだ。


その文を反芻しているうちに、船体に小さな震えが走った。アラームは鳴らない。だが窓の向こうの青の縁が、ほんの僅かに明るくなった。ぼうっと、輪郭が火に透けるように。


時間の単位は、そこで崩れた。何秒だったのか、何分だったのか、俺にはわからない。青い球は、花のように開いた。海が光り、雲が光り、陸が光った。光ることしかできないほど遠くから、俺はそれを見た。爆発、という言葉は、音を伴う。ここには音がない。だから俺は、その現象に名前を与えられない。青は、内側から白に押し広げられ、白は破片になって舞い、破片はさらに小さな光の粉になって散った。地球は、ひとかたまりの光から、粉砂糖のようなものへ、そしてやがては見えない塵へと変わった。俺の頬は濡れていたが、いつからかはわからない。涙は無重力では丸い。丸い水滴が目の周りを漂い、視界を歪めた。


「爆発した」と俺は口に出した。口に出すと、ようやく現実は言葉になる。俺は手の甲で涙を拭い、その手の匂いを嗅いだ。金属と樹脂と、少しの油と、少しの塩の匂いがした。それは、ここにいる俺だけの匂いだった。


その後、何時間も、俺は窓の前から動けなかった。窓の向こうは変わり続ける。光は薄れ、散った粉はゆっくりと軌道に沿って広がり、細い帯を作っていく。昼も夜もない。あるのは、船の時計だけだ。時計は、律儀だった。いつも通り、秒を刻む。俺はようやく腰を上げ、予定表の「星の観察」の欄に、震える字で書いた。「地球、消失」。次の行に、もっと小さく書いた。「見ていたのは俺だけ」。


俺は温室に行き、藻の槽の前にしゃがんだ。藻は、変わらず泡を吐いている。泡は、小さな丸だ。丸いものは、宇宙の中でやさしい形だ。俺は槽の壁に額をつけ、目を閉じた。誰もいない宇宙船の中で、俺は小さく言った。「生きる」。言葉は、泡のように口の中から出て、空気の中に溶けた。


数日後、地上からの通信は完全に途切れた。ノイズも、キャリアもない。端末の画面は、ただの灰色の板になった。代わりに、船内のログの中から、予約送信されるはずだった報道資料の草稿が見つかった。タイトルは、あの紙の言葉と同じ匂いを持っていた。


〈唯一の脱出者〉


本文は、淡々としていた。「人類史上未曾有の事態に際し、我々のパートナーである民間宇宙企業は、地球文明の記憶と火種を守るため、最小単位の生命維持実験に成功した。彼は孤独だが、孤独は敗北ではない」。そこには俺の名前が空欄で、括弧で「挿入」と書かれていた。写真の挿入位置も指定されている。俺は笑い、笑いながら胃の深いところが冷えていくのを感じた。これは、俺が地球から「逃げた」という、未来に向けた説明書だったのだろう。誰に向けて? もう地球はないのに。説明書は、説明されるべき相手を失っている。


その夜、俺は船の最下層にある貯蔵庫まで降りた。そこには種のバンクがある。名前のない種もある。ラベルは番号だけで、どこの山のどこの谷にあった何の木なのか、今となっては誰も知らない。俺は番号をノートに写し、温室の一角に新しい箱庭を作った。培地を平らにし、小さな窪みを作り、そこに黒い点を落とし、薄く覆い、霧吹きで濡らす。手の動きは、祈りに似ている。祈りの相手は、もういない。だが祈りという行為だけは、俺の前から消えなかった。


翌日の予定表に、俺は新しい項目を足した。「記憶の栽培」。毎日、何か一つ、地球の具体を思い出して書く。信号機の黄の時間、改札を抜けるときの微かな磁気の音、雨の日にエレベーターの床にできる滑りにくい黒い点の模様、駅前のクリーニング屋のビニールの匂い、冬の公園で鉄棒を触ったときの刺すような冷たさ。具体は、種だ。いつか誰かがこの船を見つけたとき、紙の中の凹凸や、俺の薄い文字や、培地の中の眠っている種が、遠い誰かの指先にそれとして触れられるように。


俺はまた走り始めた。走る速度は落とした。心拍数を管理し、骨密度の維持のための負荷を記録する。長く生きるための準備を、俺は始めた。百年という単位は、実感を拒む。だが予定表は、百年を一日の連なりに変える。


夜、観測窓に戻ると、地球のあった場所は、薄い帯の星屑で縁取られていた。見ようとすれば、何でも形に見える。俺はその帯を、壊れた指輪だと思うことにした。指輪には、誰かと誰かの約束の匂いがついている。約束は、もう果たされない。だが匂いは残る。


端末の中の「唯一の脱出者」という文字列を、俺は削除しなかった。残しておくことにした。俺一人だけが宇宙に放り出された——そう思っていた。だが台本の中の俺は、一人だけ、地球から脱出していたことになっている。二つの「ひとり」は、似ているようで違う。押しつけられた孤独と、与えられた孤独。どちらにせよ、俺はひとりだ。ならば、どちらの言い方でもいい。言い方だけが変わっても、藻の泡の数は変わらない。


俺は日誌の最後に、いつも同じ言葉を書くことにした。最初のページの下段に、小さな字で。震えは、もう少し収まっていた。


——ここにいる。息をしている。見ている。育てている。


船は、相変わらず息をしている。低い喘ぎ、循環水の脈拍、かすかな軋み。俺はその音を数えるのをやめた。数えなくても、音はある。あるものをあるままに置いておくことを、俺は少しずつ覚えた。誰にも見られない祈りのように、窓の向こうに漂う粉の帯に、いつか芽が出る場所のことを思い描く。芽は、ここで出るかもしれない。地球が爆発したあとに残ったものは、絶望の粉ではなく、記憶の粉だったのかもしれない。


名前のない種のラベルの横に、俺は小さな丸を描いた。丸は、泡にも、涙にも、星にも似ている。似ているだけで、同じではない。違いがあるから、俺は日々を書き続けられる。違いを見つけることは、生きている証拠だ。


明日も予定表は朝から始まる。起きて、食べて、走って、点検して、育てて、書いて、見て、眠る。百年が、一日ずつ近づいてくる。近づいてきて、過ぎていく。その間ずっと、俺は、ここにいる。唯一の脱出者でも、唯一の放逐者でもなく、ただ、ひとりの乗員として。孤独は、敗北ではないと、紙に書いてあった。信じることを、俺は一人で練習している。練習は、いつか本当になる。そういうふうに、人間はできている。


窓の向こうに、粉の帯を横切って、一筋の小さな光が走った。流星か、残骸か、どちらでもいい。俺はその光に、まだ名前のない苗の未来を、ほんの少しだけ重ねた。重ねることだって、俺一人でできる。重ねたものが、やがて厚みを持つまで、俺は待つ。待つことも、予定表の一部だ。やることは、思っていたよりも多い。だから、今日も眠る。明日も、ここで起きる。ここにいる。息をしている。見ている。育てている。

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