コーイグズィステンス

りんもくいお

第1話 七月二十五日 金曜日 ①

 走る。


 ただひたすらに走ってから逃げる。口の中は乾ききって血の味を含み、置いてきた自転車があればもう少し真面な距離を稼げる気がするのだがそうも言ってられない。中学三年生となったまだ成長中の体の全身を動かし、かつてない程真剣に走りぬく。今までの人生で本気で走ったことのない自分には過去最高記録の出そうな速度もどうでも良く感じた。


 暗い夜道を駆け抜け、最近工事が決まったであろう鉄筋に囲まれている崩される前のマンションに逃げ込む。きっと人影がない方が幾分かマシだろう。


 『誰かが嫌がることを率先してしなさい。いつか必ず帰ってくるから』


 両親の教えを思えば少なくともよく分からない奴に襲われるのは自分一人で十分だと思いたい。


 (それこそ一人で良かった。最近は一緒に帰ることが多かったし)


 そう思うと安堵する一方顔も緩みだす。息切れの苦しさと追われる恐怖の中、だらしない顔を見せてしまうのはそれ程までに喜びを感じていた証拠だろう。


 ふぅっと息を整えると追いかけて来たであろう人物を迎え撃つ準備をする。自分が入って来た入り口を見張るも暗くてよく見えない。逃げ込んだ場所も階段の途中で中途半端なのでそのまま屋上へ駆け上がることにした。もし見失っていれば逃げ切れるかもしれないと思ったのだ。


 ただそれは失敗だった。


 どちらかと言うとまるで自分からここに吸い込まれていたのではないかとまで感じてしまった。なぜならその人物は、目の前で僕のことを待っていたのだから。


 予備動作なく、こちらに走ってくる。


 よく見えないが手に持っているであろう鋭利な何かを突き立てて突っ込んで来る。月明りを浴びて光ったのはその鋭利な物だけではない。もう少し上、頭の辺りにもギロリと発光する赤い球が二つ。


 そしてそれを見ると衝撃が体を襲う。横に、前に、後ろに。どこでもいいから飛ぼうとした体が言うことを聞かないのだ。


 (躱せない!? このままだと――)


 刺される。


 ♢


 勢いよく体が起き上がる。起き上がる、というよりも筋肉の反射的なものでなくては説明がつかないと思うほど機敏に動いたと言うべきか。自分の脳からの命令でそれが可能だとは思えないのだ。起床して一秒で布団の上に立っているのだから。


 「夢か……」


 思わず独り言も漏れる。目覚まし時計に目をやると、アラームの時間よりも早い七時前を指していた。


 僕の名前は 竜胆乃碧りんどうのあ。今日は最高にして最悪の朝を迎えた。


 今日は最高の日。何たって一学期の終了日なのだ。つまりは明日から夏休み。中学最後の夏休みは学校への面接練習や塾が敷き詰まった辛いものと思われるが、どうしたってこの高揚感は拭えないだろう。少なくとも朝早く起きて学校へ行くなんて縛りからは解放されるのだ、例え宿題の山が襲ってくるとしても、塾でテストやら過去問が襲い掛かってくるとしてもまだ嬉しさの方が上回っている。


 それもこんな悪夢を見てからだと気持ちも落ち着かない。七月の下旬はもはや初夏の域を越えて猛暑である。もちろんクーラーは付けていたが節約の為にとタイマーをセットしていたのがあだとなった。朝早くても部屋を埋める空気は重い。それも悪夢も相まって汗びっしょりなのだからたまったもんじゃない。


 とりあえずシャワーでも浴びるために浴室へ向かう。部屋を出て廊下を歩きリビングを通る。この家は一軒家で平屋である。浴室へは廊下からも行けるがいつも忙しく朝を迎える妹に顔を合わせるくらいはしておかなければ。


 「おはよ紫透しずく。今日も美味しそうだな」


 キッチンに立つ紫透は栗色の髪を揺らせて振り返り、僕のことを見ると少し驚いた表情を見せつつもその言葉に喜んで見せた。二重もあって更に見開いた表情は驚いた状態を過剰に知らせてくるがぽかんと空いた口の所為で少しマヌケにも見えるが黙っておく。


 「え!? 珍しいね、起こさなくても起きるなんて」


 向き直るとセーラー服の上から付ける僕が小学生の時に家庭科の授業で作ったウサギやリスの顔のついたエプロンを揺らせて歩み寄ってくる。


 「ちょっと暑くてさ。シャワー浴びようかなって」


 「そっか。ちょうど朝ごはんできるからいいかも!」


 元気よく迎えてくれる紫透の笑顔を見るとそのまま浴場へ向かう。シャツとズボン、下着を脱ぎ捨てると早速シャワーを浴びる。


 「冷たっ!」


 朝一の水は幾ら真夏を控えていても冷たすぎるものだ。


 朝を作る妹は二個下の中学一年生だ。それでも朝早く起きて自分の用意を済ませると僕のも含めて朝ごはんまで作ってくれる。


 両親は――いない。僕が五歳くらいの頃に事故で無くなってしまった。妹は顔すら覚えていないと言う。父方の祖父母の家がとても近く、徒歩三分のところにあり、一時は一緒に住んでもいたのだがこの家が勿体ないので二人で住み始めたのだ。


 僕が中学を迎えるまで何だかんだ大事に残しておいたこの家も、平らにして畑にでもしようか迷っていたのだが、二人で住みたいと申し出ることで今の生活を迎えることとなった。


 僕としては少し記憶も残る家であり、妹はどうやらその祖父母が好かないのもあっていい結果を迎えたのかもしれない。そんな我が家の全体は中一の妹が大体をこなしてくれると言う結果でもある。


 汗を軽く流せると、浴室を後にしてリビングへと戻る。すると宣言通りリビングのテーブルのは朝食が並んでいた。真っ白で艶やかなご飯にお味噌汁。胡瓜と塩昆布の漬物に目玉焼き。オーソドックスだがこれだけあれば十分すぎる程のご馳走だろう。


 「あっ、お兄ちゃん。早く食べちゃお? 私今日も美鈴みれいちゃんのとこ寄ってくから」


 「あぁ。分かった」


 朝型な紫透は友達を迎えに来つつ登校する。少し迂回することになるが毎日欠かさず迎えに行っている。あまり家事をしない兄の世話を焼くのが習慣になって友達のことも気にしてあげているらしい。いい意味で、とても自分の妹とは思えない。別にそこまでズボラなつもりは無いが、毎日食事や家事をこなしながら学校生活を送れるとは自分は思わない。


 「あと、今日から忙しいんだっけ?」


 テキパキと目玉焼き、ご飯、お味噌汁。そして漬物の順に頬張るともきゅもきゅとご飯を食べ進めている。そして次は兄の予定まで把握する。素晴らしい、が恐ろしい。


 「まー、塾が始まるからね。夏期講習、めんどくさいなー」


 「頑張ってよね? あっ、でもお昼作れない日があると思うから後でカレンダーに書いとくね、私の予定」


 美鈴と海行くんだーとご飯を食べ終わるとテーブルを立ち上がる。


 紫透は忙しくしつつも成績優秀。塾へ行く必要すらないのだ。


 「食器は水だけ付けといてー」


 そう言うと颯爽と家を後にする。


 相変わらず忙しく動いている妹に思わず呆気にとられながら自分はゆっくりご飯を食べていくのだった。

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