Chapter 5:The Pear Mosaic

伊織との生活は特にぶつかることも無く順調だった。

たまに脱ぎ捨てた靴下が「え?」っと思うところに落ちていたりするが、気になるのはその程度だ。


僕の先入観で家事は一切出来ないと思っていたのに伊織は何事も卒なくこなした。

仕事から帰ってきて匂いに惹かれキッチンを覗いたら料理中の伊織の後ろ姿が見え、ビックリして入り口でぽかんと固まってしまった。


後でその事を話したら「あ〜、それよく言われるんだよね」と笑い飛ばしていたが、両親が共働きだったので中学生になった頃からやるようになったらしい。

平日こっちにいる時はほとんど外食していたみたいだけど「一緒に食べる人がいるなら作っても良いかな」って。


思い返してみると、伊織と毎日遊んでいた頃はうちで遊んでいたな。

あの頃は何にも思わなかったけど、確かに伊織の両親は帰ってくるのが遅くて、よく晩御飯も一緒に食べていたっけ。




休日特有の「のんびり」とした空気が流れる中、お昼を食べ終わりソファーでまったりとしていた。


窓からは午後の柔らかい日差しが入ってきて、色々と考え事をしていたからか睡魔が襲ってくる。このままうたた寝でもしようか…。


時計を見ると午後1時30分を過ぎたところ。今からならうたた寝をしても伊織が帰ってくるまでには起きられるだろう。

そう思い、アラームをかけようとテーブルに置いてあるスマホを手に取った瞬間、メッセージが届いた。


『ハチ、今日の晩御飯のメニューなんだけど…

まだ決めてなかったらハンバーグがいいな』


伊織からのリクエストに思わず口元が緩んだ。

こんな些細なことが嬉しいなんて自分でもビックリしたが。


でも、同時に思い出した。


もともと誰かに自分の作った料理を「美味しい」って言ってもらいたかったから調理師学校へ行ったんだったてことを。


途中から製菓の方が楽しくなっちゃって2年次に転科しちゃったんだけど。


「いーくんに美味しいって言ってもらうためにも買い物に行かないとな」


表示したままのメッセージをもう一度ゆっくり読み返すと『楽しみにしてて』と返しソファーから立ち上がった。





帰宅してキッチンに入ってきた伊織が晩御飯の仕込みをしている僕の横まで来ると、手元を見た途端に満面の笑みを浮かべた。


「おかえり。先に風呂入ってきなよ」


「ん、ただいま。風呂から出たら俺も手伝うわ」


鼻歌を歌いながらキッチンを出ていく伊織の背中を目で追いながら、僕も伊織と同じように笑みを浮かべていた。


僕も伊織も仕事が終わったらとりあえず風呂でサッパリしたい派だった。

前に伊織が取材でいつもより遅い時間に帰ってきた時、僕が風呂から出て来たところに鉢合わせした事があった。

「ハチ、早い時間に風呂入るんだね」って言われて理由を話したら「俺と同じ感覚の人がいるんだ」ってビックリしてたな。


お互い他人だから違うことの方が多いけど、こうやって同じ部分を見つけるとそれだけで距離がグッと縮まる気がする。


頭の中でいろんなことに想いを馳せていても手元はちゃんと動いているのだから、体が覚えたことって凄いな…と見事に切り終えた玉ねぎのみじん切りを目の前に感心してしまった。





「あれ?ゆっくりしすぎたか。手伝おうと思ってたんだけどな」


「気にしなくていいよ。それよりもタイミング良くてそっちの方が嬉しいかな。冷めないうちに食べようよ」


伊織からフワッとシャンプーの香りが漂いドキッとした。

同じシャンプーを使ってるはずなのに香りが違う気がする。


スウェットを着て完全にOFFモードの伊織は一瞬申し訳なさそうな顔をしたが、テーブルの上に並べられた料理を見て目を輝かせている。


「今日、番組で小さい頃に好きだった料理って話しになって、どうしてもハンバーグが食べたくなったんだよね」


そう言いながらテーブルに着く伊織が何だか昔一緒に遊んでいた頃の伊織に見え笑みがこぼれる。



「「いただきま〜す」」



2人仲良く声に出し、お互いハンバーグに箸をつける。


「やっぱりハチの料理は美味いな」


すぐに2口目を口に運ぶのを見て心がほっこりした。

こうやって誰かと一緒に「美味しい」って言いながら同じものを食べる。そんな何気ないことがとても幸せなことなんだって改めて思い知らされる。


ほんと伊織と同居を始めて良かった。




「ご馳走様。片付けは俺がやるよ」


立ち上がり、空になった食器をシンクに運び洗おうとしたら、伊織にスポンジを取り上げられた。


「じゃあ、お願いしようかな」


シンクの前を伊織に譲り、何となくリビングへ行くのも…と思い、椅子に座り直しぼーっと伊織を見ていた。


食器を洗う音しかしないキッチンだが、なんだかとても生活感に溢れている感じがして、ホッとするのと同時にくすぐったい気持ちになる。



「よし、完了! なぁ、ハチ。今から少し飲まない?」


片付けを終えた伊織がそんな事を言ってきたが、普段、食事中に1、2杯飲むことはあっても食後に飲むことなんてなかった。


不思議に思い首を傾げたが、僕は明日も休みだから特に拒む理由もない。


「何か良いことでもあった?」


何となく口にしたのだが、はにかんだように笑う伊織を見てその予感は確信に変わった。


「あっ、貰い物だけどちょっと良いワインがあったんだった。それ開けようか」


1人では空けられないから…と野菜室に入れっぱなしだったワインを思い出し、あとは何かつまみが欲しいな…と冷蔵庫を開ける。


ものの数分でテーブルの上にはチーズやサラミ、ナッツにチョコレートなど簡単につまめるものが並んだ。最後にワインの栓を開ける。


伊織の話しを聞くため、僕も再びテーブルについた。




「イタリアのジュエリーブランドのメインビジュアルに決まった」


「え!ほんとに?おめでとう!」


「と言っても、アジア地域の…だけどな」


聞かされた内容に驚きすぎて伊織の方へ身を乗り出した。思わず大声になってしまったが、そのくらい嬉しかった。


アジア地域とはいえ、海外ブランドのメインビジュアルなんて誰にでも出来る仕事ではない。伊織のこれまでが認められたからこそ決まった仕事なんだと思う。


僕のあまりにも大きな反応に照れ臭くさそうにワインのグラスに手をのばした伊織が何だか可愛かった。


「ありがとう。1番最初に報告するならハチかなって。こんなに喜んでもらえるとは思わなかったから…ほんと嬉しい」


ブランドはアジア地区初進出で、日本でまだまだ知名度は低いが欧米ではかなり人気らしい。これからはアジア地域に力を入れて展開していくようで、ブランドとともに成長が期待できそうな人物ということで決まったらしい。


最終候補に上がった時点で事務所からは「かなり感触がいいから決まると思う」とは言われていたそうだが、今日の番組後に正式に決まったと連絡が入ったそう。

すぐにでも帰宅して伝えたかったが取材があってこの時間になってしまったと申し訳なさそうにしている。


そんなこと気にしなくても良いのにな。


ワインを飲みながら、スマホでブランドのWebサイトを開いて色んな話しをしてくれる。

目を輝かせながら今後のことについて語る伊織を見るのは自分のことのように嬉しくて心が躍った。



お互いのこれからの事とか色んなことを話して盛り上がっていたからか、気付いたら2本目のワインを開けていた。


伊織と話すこの時間が楽しすぎて、つい、普段は飲まない量を飲んでいるような…。何となくふわふわして気持ちいい…。


「ハチ?」


…もう寝ちゃって…いいかな…。






「…うっ」


目が覚め、頭にズキっとした痛みが走り思わず呻き声が漏れる。


状況が分からずぼーっとしていたが、だんだんと昨日の事を思い出し、二日酔いか…と自覚した途端に大きな溜息が出た。


それにしても昨日は飲みすぎた。普段、そんなに飲まないのに嬉しくて、つい…。


でも、頑張って思い返してみるが自分でベッドまで辿り着いた記憶が無い。



「……!?」


そうだ、伊織に肩を借りて何とかここまで辿り着いたんだった。


「うわ〜。いーくんに迷惑かけちゃったな…」


自分のしでかした事に頭を抱えていると、他にも思い出したことが…


「いーくんに抱きついた…?」


取り敢えず伊織に昨日のことを謝らないと。

そう思い、ズキズキとする頭と闘いながら何とか着替えリビングへ向かった。


「あれ?いない?」


キッチンを覗いても伊織の姿が見えない。手に持っていたスマホの画面表示は「12時11分」

お昼過ぎまで寝ていた事実に頭を抱え、大きな溜息を吐いた。


まだ体内にアルコールが残ってる感じがして、冷蔵庫を開け水の入ったペットボトルを取り出し口をつける。


冷たい水が喉を通っていく感覚が気持ちよくて、体内に残っているアルコールが薄まっていく気がした。


ペットボトルの水を半分ほど飲み干す頃、ようやくスッキリ目覚めた感じがして体と頭が働きだすが、何もしたくなくて昨日のことを思い出そうとキッチンを見渡すと…。


「え?これ…」


テーブルの上にはメモと一緒にインスタントのしじみの味噌汁が置いてあった。


『二日酔いしてない?これ置いておくね』


メモと味噌汁を手に持つと笑顔になった。

わざわざ僕のために朝からコンビニまで行って買って来てくれたようだ。昨日飲み過ぎた事への自己嫌悪と反対に伊織の気遣いに嬉しくなる。





ここ最近の伊織は来週からイタリアへ撮影へ行くためなのか、平日も東京で仕事が入っていたりして帰ってこない日があった。


帰ってきてもコラムなどの細々とした仕事をするために部屋にこもっていてほとんど顔を合わせない。

夜も遅くまで起きてるようで、僕が仕事に行った後に起きるので顔を合わせるのは晩御飯を食べる時だけ。それも急いで食べてまた部屋にこもってしまう。


今日は久しぶりに朝少しだけ顔を合わせたけど「忙しかったらご飯作らなくてもいいよ」と言ったら「大丈夫、俺が担当の日はちゃんと作るよ」と笑っていた。


イタリアへ行く前に倒れてしまわないか心配でしょうがない。


何となくモヤモヤとしたまま仕事に向かった。仕事をしてる間はケーキのことだけに集中できる。それに12月が近づいて、僕の方も忙しくなってきていた。


今日もなかなかキリが良いところまで行かなくていつもより1時間遅く工房を出た。

外はすっかり暗くなっていて、吹き付ける風が冷たい。


「やっぱり星は見えないな〜」


いつ見上げても見つけることの出来ない星を探すが、やっぱり見つけられないまま。


諦めて家に入ろうとドアノブに手をかけた時…。


忙しいだけだと思ってたけど、なんとなくよそよそしい感じ…というか避けられてる?


晩御飯の時も忙しいから急いでいるんだと思ってたけど、そうじゃ無かったら?

だって、伊織なら本当に時間がなければご飯作れないって言うはず。


でも、僕が勝手にそう思ってるだで、伊織はそんな気はないかもしれない。


ふと浮かんだ事に不安が掻き立てられる。変な方向へ考えがいく前に伊織に聞こう。そう決めて家に入りリビングを覗くが姿がなかったのでキッチンを覗いた。


「あ、ハチ。先にご飯食べちゃった。用意してあるから悪いけど温めて食べて」


ちょうどキッチンから出てくる伊織と鉢合わせになったが、伊織はそのまま自分の部屋へ行ってしまう。


そんな伊織の背中をぼーっと見つめることしかできなかった。




結局、ほとんど話しが出来ないまま伊織がイタリアへ行く日が迫ってきた。


「明日の番組終わりでそのまま東京に戻って、次の日の朝一の便で飛ぶから。一応、向こうには1週間滞在する予定」


朝、久しぶりに顔を合わせた伊織にそう言わた。飛ぶ当日に東京へ移動すると思っていたから早めに起きて見送りしたらいいやって思ってたけど…。


金曜日なら伊織が家を出るタイミングで工房を抜け出せばいいか。


そんな感じで気軽に考えていたが…




結局、見送りは出来なかった。


いつも伊織が家を出る時間に家へ戻ったが、もうすでに出た後だった。


「いってらっしゃい」って言いたかったな…。


しょぼんとした気持ちで工房へ戻った。




金曜日の夜は「いーくん、行っちゃったな…」と思っただけだった。


土日は店舗営業日だったため忙しく、疲れ切って余計なことを考えなかった。


伊織が帰ってくる土曜まではまだまだ長い…。


なんとなく気を紛らわせたくて、定休日の月火も工房にこもっていた。


水曜日、いつもなら伊織がご飯を作ってくれる日で、家の照明を点け、風呂も沸かしてくれている。


でも…。


工房から戻って誰もいない暗い家の照明を点けたとき…



「この家…こんなに冷たかったっけ…」



涙がこぼれ、その場に崩れ落ちた。


その瞬間、ハッとした。


伊織がいたから。


伊織がいつも笑顔で「ハチ、おかえり」って言ってくれたから。


だからこの家は暖かかったんだ。




それと同時に気づいちゃいけない気持ちにも気づいてしまった。


「……どうしよう」


自分自身でもかろうじて聞き取れるほどの呟きはシンと静まり返った玄関に溶けていった。





昨日、ご飯も食べず、お風呂にも入らず寝てしまったせいか、お腹が空いて目が覚めた。

時計を見るといつもより1時間も早い。


昨日、あれだけ思考がぐちゃぐちゃな状態で何もしたく無かったのに…。


一晩ぐっすり寝たおかげなのか、多少気分は回復していたしお腹も空いた。人間て凄いな。


朝ごはんを食べながらスマホの通知欄を確認すると…


「え…。土曜日の夜には会えると思ってたのに…」


撮影の関係で帰国するのが月曜日の朝9時になるから、そのまま局へ直行して、うちに帰ってくるのはその日の夜になる…


1週間も9日間も普通ならそこまで気にならない。

だけど、今回はそこまで頑張れば会えると思っていたのでゴールを動かされガックリした。


でも同時に、この答えの出ていない気持ちを整理する時間ができたと思ったら少しだけホッとした。




僕の心とは反対にここ数日は雲一つない晴天が続いている。


自分の気持ちが整理できないまま土曜日になった。

伊織が帰ってくるまで今日を入れてあと3日。


こんな抜けるような青空みたいにスッキリする日は来るんだろうか…


最近、溜め息ばかり吐いている気がする。




通常通り店を開け、開店時のピークが去った昼過ぎ。カランカランとベルの音と共に見たことのある男の人がドアを開け入ってきた。


え?あの人って…。


考えるより先に体が動いた。


「すみません、以前、いーくん…篠宮伊織さんと一緒に店に来ませんでしたか?」


急に声をかけられた男はビックリして、一瞬「何が起こっているのか分からない」と訝しげな表情をしたが、首を傾げ考える素振りに変わった。


「え?しのみや…いおり…。あぁ、IORIさんの事か。はい、ありますね」


「あの…。伊織くんのことで相談したいことがあってお時間取ってもらうこと出来ませんか?ご迷惑だとは思うんですが、伊織くんのことを分かる人があなた以外思い浮かばなくて…」


「あなたは、蜂須賀さん…で合ってますか?」


しまった…。自分の店だから、自分の事分かってるものだって思い込んでた…。

男は目を眇め、じっとこっちを見てくる。


「あ、ごめんなさい、自己紹介もしてなくて。ここのオーナーパティシエの蜂須賀薫と言います」


自己紹介をした瞬間、男がニコッと笑った。

男の人なのにあまりにも笑顔が可愛くて思わず見惚れてしまったが、その瞬間、何となく気持ちがざわついた。


え?なに?この感じ…。


「そっか。分かりました。良いですよ。俺、ここのケーキのファンですから。それにIORIさんに関しての相談事って言うのも気になりますし」


このざわつきが何か分からなかったが、今日の夜に再度ここへ来てもらうことに決まり、ホッと胸を撫で下ろした。

とりあえず伊織を知っている人に相談できる。


でも、冷静に振り返ると…僕ってこんなに後先考えないタイプだったっけ…って反省した。

ここ最近は勢いで行動してる事が多い気がする。


まぁ、そんな自分も…たまには良いよね…。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る