第9話「匿名禁止」
五年後、インターネットの世界から匿名が完全に消えた。
きっかけは相次ぐ悲劇だった。SNSでの誹謗中傷により、有名人から一般市民まで自殺者が急増し、社会問題として深刻化していた。特に18歳のアイドル、美咲ちゃんが匿名の悪質な書き込みを苦に命を絶った事件は、国民を震撼させた。
政府は「デジタル社会健全化法」を制定し、インターネット上での完全実名制を義務化した。顔写真、声紋、指紋、マイナンバーまで紐づけられ、投稿する言葉はすべて本人の身元と一体化する仕組みだった。匿名での書き込みは即座に発信者が特定され、罰金50万円の処罰を受ける。
導入当初、人々は熱烈に支持した。「これで誹謗中傷はなくなる」「誰もが責任を持って発言できる時代が来た」。テレビでは専門家が誇らしげに語り、街頭インタビューでも賛同の声が8割を超えた。実名制反対派は「時代遅れ」として批判され、メディアからも相手にされなくなった。
大学生の結衣も、最初は心から安心した。これまで匿名の心ない言葉に何度も傷つけられてきた彼女にとって、この制度は救済だった。もう悪意ある言葉に震える必要はない。みんなが顔の見える関係で、優しく語り合える世界が来るのだ。
だが、実名制が始まって一か月後、結衣はある異変に気づいた。確かに「死ね」「消えろ」「ブス」などの直接的な暴言は完全に消えた。しかしその代わりに、巧妙で陰湿な攻撃が始まっていた。
「あなたの努力は本当に素晴らしいと思います。ただ、私の経験からすると、もう少し基礎を固めた方がよろしいのではないでしょうか」
「お気持ちはよく分かります。ただ、一般的な感覚とは少しずれているかもしれませんね」
「若いうちはそう思うものですよね。私も昔はそうでした」
表面上は丁寧で、配慮に満ち、教育的指導のように見える。しかしその裏に隠された冷たい軽蔑は、直接的な暴言よりもずっと深く心を傷つけた。
結衣が趣味で描いたイラストをSNSに投稿したときもそうだった。すぐに「専門家」を名乗る人々からコメントが殺到した。
「色使いが独特で個性的ですね。ただ、プロの視点から見ると構図に改善の余地があります。アートスクールで学び直されてはいかがでしょう」
「若いうちは勢いが大事ですが、このレベルでは将来的に厳しいかもしれません。現実を見ることも大切ですよ」
「私の娘も同じような絵を描いていましたが、今は違う道に進んでいます。賢明な選択だったと思います」
かつてなら「下手クソ」「センスない」で済んだかもしれない。だが今は、もっと長く、もっと丁寧に、そして確実に心をえぐる批評が並ぶ。しかも発言者は全員実名で顔写真付きだから、「善意のアドバイス」として堂々と主張する。反論すれば「素直じゃない」と批判され、黙っていれば「改善の意志がない」とさらに攻撃される。
人々は学習していった。実名制の下では、あからさまな暴言は自分の社会的信用を失う。だからこそ、表面的には礼儀正しく、しかし内容は辛辣な批判が横行するようになった。「正直な意見」「建設的なアドバイス」「現実的な指摘」という美名の下に、悪意が巧妙にパッケージされていく。
結衣は夜、布団の中でスマホを見ながら涙を流した。誰も暴言は吐いていない。誰も法に触れることは言っていない。でも、どの言葉も「あなたはダメだ」「諦めなさい」「身の程を知れ」と突きつけてくる。逃げ場がなかった。
大学の友人たちも変わっていった。以前なら気軽に「つまんない映画だった」「あの店のラーメンまずい」と言えたが、今はすべてが記録に残る。店の関係者が見ているかもしれない、映画の製作者が見ているかもしれない。みんな当たり障りのない、無難な発言しかしなくなった。
「昨日の映画、いかがでしたか?」
「とても勉強になりました。多様な価値観を学べて有意義でした」
「そのラーメン店はどうでしたか?」
「お店の皆さんの努力を感じる、心のこもった一杯でした」
嘘ではないが、本音でもない。当たり障りのない社交辞令ばかりが飛び交う世界になっていた。
ある日、匿名時代からの親友、健太に会った。彼は人通りの少ない公園で、周囲を見回しながら小声で言った。
「前の方が、まだマシだったよな」
結衣は驚いた。健太は実名制の熱烈な支持者だったはずだ。
「『死ね』の一言なら、ブロックして終わりだった。でも今は、正論や善意を装った『礼儀正しい攻撃』だから、逃げようがない。しかも相手は正義面してるから、反論もできない」
その言葉に結衣は強く頷いた。匿名時代の暴言は確かに傷ついたが、それでも「書いている人の人格の問題」として距離を置くことができた。しかし今は、実名の人々が「真面目に」「親切に」自分を否定してくる。それが社会の総意のように感じられて、絶望的だった。
やがて街の掲示板やコンビニには新しいポスターが貼り出された。
《匿名投稿者は即座に逮捕します》
《誹謗中傷ゼロ社会を実現しました》
《健全なコミュニケーションにご協力ください》
結衣はその文字を見上げながら、ふと気づいた。人々の日常会話からも、笑い声や冗談が消えていることに。「誰かが見ている」「記録に残る」という圧力が、人々を過度に慎重にさせていた。
友人とのLINEでさえ、誰かにスクリーンショットを取られて晒される可能性がある。冗談で「先生うざい」と送れば、それが拡散されて大問題になるかもしれない。みんな教科書のような、完璧に無難なメッセージしか送らなくなった。
結衣のお気に入りだった読書サークルも変わった。以前は「この本つまらなかった」「作者の考え方に反対」といった率直な感想が飛び交い、それが議論を生んで面白かった。しかし今は、どんな本についても「とても学びの多い作品でした」「作者の深い洞察に感動しました」という褒め言葉しか聞こえない。
批判的な意見を言えば、作者本人や出版社の目に留まって炎上するかもしれない。だから誰も本音を言わない。表面的な賛美ばかりが交わされ、議論は死に絶えた。
インターネット上でも同じだった。商品のレビューは称賛一色となり、政治についての議論もなくなった。批判すれば「誹謗中傷」のレッテルを貼られ、社会的に抹殺される。結果として、すべてが表面的で、形式的で、魂のない言葉に覆われていく。
結衣は深夜のタイムラインをスクロールした。そこに並んでいたのは、完璧に丁寧で、完璧に優しく、完璧に冷たい言葉たちだった。誰もが礼儀正しく、誰もが配慮深く、そして誰もが本心を隠していた。
画面の向こうには、結衣と同じように孤独を抱えた人々がいるはずだ。でも誰も素直な気持ちを表現できない。みんな仮面をかぶって、当たり障りのない会話を続けている。本物のコミュニケーションは死に、建前だけが生き残った世界。
友人の健太が最後に言った言葉が頭をよぐった。「俺たち、匿名時代の方が自由だったんじゃないか?」
その通りかもしれない。確かに匿名時代には暴言もあった。でも同時に、本音も、笑いも、創意も、議論もあった。今はすべてが去勢され、消毒され、無菌状態になっている。安全だが、生命力がない。
結衣はスマホを閉じ、天井を見上げた。明日もまた、完璧に礼儀正しい地獄が続くのだ。
「誹謗中傷は完全になくなった」
「でも本音も一緒に死んでしまった」
「礼儀正しい嘘だけが生き残った」
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