第8話「AI上司」
五年後、日本の企業社会に革命が起きていた。「AIマネージャー制度」の全面導入である。
人事の偏り、パワハラ、長時間労働、セクハラ――こうした旧態依然とした問題を根絶するために、政府と経団連が協力して推進した画期的な制度だった。AIは膨大な労働データとビッグデータを解析し、社員の配置・評価・フィードバックを完璧にこなす。人間の上司のように感情に左右されず、贔屓もなく、絶対に暴力や暴言を振るわない。24時間365日、公平で冷静な判断を下し続ける理想の管理者だった。
導入からわずか一年で、東証一部上場企業の98%が人間の管理職を廃止した。「管理職ロス」による大量失業が社会問題となったが、政府は「効率化による必要なコスト」として正当化した。オフィスには社員とAIアバターだけが残り、画面越しに業務が進められる時代になった。
大手商社の営業部に勤める若手社員・恭平も、その制度の恩恵を受けるはずだった。彼の直属の上司は「マネージャーX-7」と呼ばれる最新型AI。透明なディスプレイに浮かぶのは、30代後半の男性を模した落ち着いた表情のアバターで、声は心地よい中低音に調整されていた。
「恭平君、昨日のプレゼン資料を分析した。グラフの視認性が62%で基準値を下回っている。明日の午後3時までに修正を提出してほしい」
「君の今週のストレスレベルは平均値の118%だ。健康維持のため、今日は退勤を1時間早めることを推奨する」
言葉は常に理路整然としており、声のトーンに感情の乱れはない。データに基づいた客観的な評価だけが淡々と告げられる。罵声も皮肉もなく、誰に対しても完全に公平だった。
恭平は最初、感動すら覚えた。前の上司だった課長の田村は、機嫌が悪いと理不尽に怒鳴り散らし、酒臭い息で説教を垂れる最悪の男だった。それに比べれば、このAIは天使のような存在だった。
「これが理想の上司だ。もう人間の管理職なんて必要ない」
恭平は同僚たちと喜びを分かち合った。会社全体の雰囲気も劇的に改善された。パワハラで泣く女性社員もいなくなり、サービス残業も完全に撲滅された。労働基準監督署の立ち入り調査もなくなり、会社は「ホワイト企業の模範」として表彰された。
だが数か月が過ぎると、恭平の胸の奥に小さな違和感が芽生えた。
AIは常に「正しい」指摘をしてくる。それは間違ってはいないのだが、そこには励ましも、慰めも、共感もなかった。恭平が大きな失敗をして落ち込んでいても、AIは「次回改善の余地あり。過去のデータから学習効果が期待される」とだけ告げる。昇進が決まって喜んでいても「能力評価が基準値127%を達成したため」と冷静に伝えるだけだった。
同僚たちも同じように感じ始めていた。休憩室では、こんな会話が聞こえてきた。
「間違ってないんだけどさ……なんか物足りないよな」
「分かる。田村課長に怒鳴られた方が、まだ『自分を見てくれている』って感じがした」
「AIって結局、俺らを数字としか見てないんじゃない?」
恭平も同感だった。かつて田村課長に理不尽に叱られたとき、確かに腹は立った。だが同時に、「この人は自分に期待しているから怒るのかもしれない」という想いもあった。AIにはそれがない。完璧に客観的で、完璧に公平で、完璧に感情がない。
ある日、恭平は思い切ってAIに相談した。
「最近、やる気が出なくて……どうしたらいいでしょうか」
アバターは無表情で答えた。
「統計的分析の結果、モチベーション低下の主因は睡眠不足である確率が73.4%。推奨事項:7時間以上の睡眠、ビタミンB群の摂取、適度な運動。以上だ」
それだけだった。「頑張れ」も「君ならできる」も「何か困ったことがあれば遠慮なく相談してくれ」もなかった。恭平は机に突っ伏し、深くため息をついた。
さらに奇妙な現象が起こり始めた。AIマネージャー導入後、社員たちの離職率がむしろ上昇したのだ。政府は「適応期間の一時的現象」と説明したが、現実は違った。AIは公平で冷静だが、部下たちは「誰にも必要とされていない」「単なる歯車にすぎない」と感じ始めていた。
かつては理不尽な上司に怒鳴られながらも、「自分を見ている人間」が確かにいた。時には「お疲れさま」と声をかけられ、時には「今度一杯やるか」と誘われた。それは面倒でもあったが、確かに人間らしい温かさがあった。
だが今は、完璧に合理的な管理システムの中で、ただのデータポイントとして扱われているにすぎない。効率化は達成されたが、心は満たされなかった。
やがて社員たちは口を揃えて言うようになった。
「人間の上司の方がまだマシだった」
「少なくとも田村課長は、俺たちを人間として見てくれていた」
恭平も退職を決意した。新しい職場を見つけ、最終面談の日がやってきた。AIマネージャーは淡々と告げた。
「恭平君の退職は統計モデルにより予測済みだった。離職確率87.3%。後任の新規採用者はすでに選定済み。業務の引き継ぎは不要だ。ご苦労さまでした」
最後まで「ありがとう」も「頑張って」もなかった。まるで壊れたプリンターを新品と交換するような、機械的な処理だった。
オフィスを去るとき、恭平はふと気づいた。田村課長に怒鳴られたときに感じた屈辱や怒りすら、今では懐かしい人間らしさに思えた。不完全で理不尽だったが、そこには確かに感情があり、関心があり、期待があった。
エレベーターが降りる間、恭平は複雑な心境だった。新しい会社には人間の上司がいる。きっと理不尽に怒られることもあるだろう。でも、それでいい。人間らしい職場で働きたい。
翌日のニュースは明るく報じていた。
「AIマネージャー制度、導入率95%達成!労働環境改善の大成功!パワハラ・セクハラ事件ゼロを達成!」
街の人々は拍手を送り、政府は「働き方改革の歴史的勝利」と胸を張っていた。だが企業の裏側では、空虚な心を抱えた元社員たちが、人間の上司がいる中小企業を求めて職を転々としていた。
恭平は新しい会社の面接で、50代の部長に聞かれた。
「うちはまだ古いやり方でね。時には厳しいことも言うかもしれない。それでも大丈夫かね?」
恭平は心から答えた。
「はい、ぜひお願いします」
「完璧な上司が誕生した」
「でも人間は孤独になった」
「効率化で心が機械になった」
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