第3話「空飛ぶ渋滞」
五年後。人々は「もう道路に縛られない」と胸を張った。自動運転の空飛ぶ車が普及し、誰もが自由に空を走れるようになったのだ。地上の渋滞は過去の遺物。通勤もドライブも、一直線に目的地へ――少なくとも、最初の一年間はそう思われていた。
交通革命は壮大な理念から始まった。「三次元の交通網こそが人類の未来」。政府は大々的にキャンペーンを張り、自動車メーカーは競うように新型スカイカーを発売した。環境大臣は記者会見で高らかに宣言した。「地上の道路建設はもう不要です。空という無限の道路があるのですから」
メディアは連日、空を舞う車の映像を流し続けた。青空をバックに優雅に滑空する家族連れ。渋滞知らずの快適通勤。子どもたちが窓から雲に手を伸ばす微笑ましい光景。視聴者は皆、憧れの眼差しでテレビ画面を見つめていた。
サラリーマンの田中大地も、その一人だった。四十二歳、妻と小学三年生の娘・さくらとの三人家族。毎朝の通勤ラッシュに疲れ果て、週末のドライブでは高速道路の渋滞に悩まされ続けていた。「いつか空を飛んでみたい」それが大地の密かな夢だった。
スカイカーの価格が庶民にも手の届く範囲まで下がったとき、大地は思い切って会社のローンに申し込んだ。月々の支払いは決して軽くなかったが、家族の笑顔を思い浮かべれば安いものだった。納車の日、ディーラーから自宅まで運ばれてきた銀色のスカイカーを見て、さくらは飛び跳ねて喜んだ。
「パパ、本当に空を飛ぶの?」「ああ、今度の休みに一緒に空のドライブに行こう」大地は娘の頭を撫でながら約束した。
初フライトの日。大地は緊張しながらコックピットに座った。自動運転システムが作動し、滑らかな翼がゆっくりと展開される。エンジンの低い唸り声が響くと、車体はふわりと浮かび上がった。「うわぁ……本当に空を走ってる!」助手席のさくらは歓声を上げ、窓に顔を押し付けて外を見つめていた。
雲の隙間から差し込む朝日が車内を金色に染める。小鳥の群れを追い抜きながら進む爽快感。地上の渋滞を見下ろす優越感。風景がゆっくりと流れ、まるで夢の中を旅しているようだった。さくらは興奮して窓から手を振り、下を走る地上の車に向かって「やっほー」と叫び続けている。
その日は、大地にとって人生で一番自由を感じた日だった。空には無限の可能性が広がっているように思えた。もう二度と渋滞に悩まされることはない。そう確信していた。
だが翌週、現実は冷酷に大地の期待を打ち砕いた。いつものように空に出た瞬間、目の前に長い列ができていることに気づいた。赤や青のライトを点滅させたスカイカーの列が、雲の上までびっしりと並んでいる。まるで地上の高速道路を空に移しただけのような光景だった。
「まさか……空でも渋滞?」大地は呆然とつぶやいた。管制塔からの機械的なアナウンスが流れる。《現在、上空三千メートルまで混雑しております。順番に高度をずらして待機してください》
前の車は高度二千メートル、後ろの車は千五百メートル。結局、大地は中途半端な高度千七百メートルで止まることになった。窓の外を見ると、上下左右すべてにスカイカーが浮かんでいる。まさに三次元の渋滞だった。「パパ、なんで止まってるの?」さくらが不安そうに尋ねたが、大地は返す言葉がなかった。
渋滞は日増しに悪化していった。新車の発売が続き、ローン制度が整い、誰もがスカイカーを持つようになったからだ。「空飛ぶマイカー」は単なる移動手段を超えて、ステータスシンボルとなっていた。持たない家庭は「時代遅れ」と見なされ、子どもたちは学校で肩身の狭い思いをした。
結果として、地上の道路はガラガラになったが、今度は空がギュウギュウ詰めになった。皮肉なことに、通勤時間は以前より長くなってしまった。高度調整や空中待機の時間が加わったからだ。
会社では「定時に出社できない理由」として「空の渋滞」が普通に通用するようになった。「申し訳ありません、高度二千メートルで一時間待機させられまして」そんな遅刻の言い訳が日常茶飯事になった。学校でも「空中渋滞で遅刻しました」という生徒が増えた。教師たちも同じ理由で遅刻するため、始業時間はあってないようなものになっていた。
政府は慌てて対策を講じた。「空の信号機」の設置である。赤、黄、青のライトが空中に浮かび、スカイカーの流れを制御しようとした。しかし三次元の交通制御は予想以上に複雑で、逆に混乱が増すばかりだった。上下左右から車が集まる空中交差点では、毎日のように軽い接触事故が起きていた。
さらに深刻な問題が浮上した。騒音である。何百台、何千台ものスカイカーが頭上を行き交うエンジン音は、地上に住む人々の生活を脅かした。静かな住宅街も、今や空港の滑走路脇のような騒音に包まれている。お年寄りたちは「昔の方がよかった」とぼやき、子どもたちは爆音の中で育つことを余儀なくされた。
それでも最も悲劇的だったのは、星空を失ったことだった。
ある夜、大地は娘と一緒に星を見に行こうと約束した。「パパ、天の川ってどんなふうに見えるの?」「昔はね、夜空に帯のように星が並んでいて、まるで光の川のようだったんだ。君のおじいちゃんに教えてもらったときは、本当に綺麗だったよ」大地は笑って答えた。自分も子どもの頃、父親と一緒に夜空を見上げた記憶がある。あの時の感動をさくらにも味わわせてあげたいと思った。
だがその夜、窓を開けて空を見上げたさくらは首をかしげた。「パパ……赤と青の光しかないよ。星ってどこにあるの?」
見上げた夜空には、スカイカーのテールランプが無数に並んでいた。赤いブレーキランプ、青い方向指示器、白いヘッドライト。それらが絶え間なく点滅し、まるで巨大なクリスマスツリーのように夜空を彩っている。星々は渋滞の光に隠され、天の川の代わりに「ブレーキランプの川」が流れていた。
「パパ、あの光る点々が星?」さくらは純粋な疑問を口にした。大地は胸が締め付けられる思いだった。娘は本物の星を見たことがない。人工的な光しか知らない。「違うんだ、さくら。本当の星はもっと……」言いかけて、大地は言葉を失った。どう説明すればいいのか分からなかった。
その日から、天体観測は「高額チケット制」となった。政府と観光業界が手を組み、スカイカーをすべて締め出した山奥の観測地を設けたのだ。「純粋な夜空体験パッケージ」と銘打たれたツアーは、一人当たり十万円という法外な価格設定だった。チケットは瞬く間に高騰し、転売業者が暗躍した。結果として、富裕層だけが夜空を楽しむ特権を得ることになった。
テレビのニュースでは「星空ツアー大盛況」と報じられていたが、その映像を見た大地は複雑な気持ちになった。本来なら誰でも無料で楽しめたはずの星空が、今や贅沢品になってしまった。子どもの頃、父親と一緒に何時間でも眺めていた満天の星が、今では「お金を払わないと見られない」特別なものになっている。
一般市民が見上げるのは、光り続ける「渋滞の星」だけ。さくらはそれを「人工の天の川」と呼び、いつか本物を見たいと夢を語った。「パパ、お誕生日のプレゼントに星空見に行ける?」「うーん、ちょっと高いんだ。貯金してみよう」大地は苦笑いで答えるしかなかった。
企業はこの状況を新たなビジネスチャンスと捉えた。「宇宙旅行で星空体験」というパッケージツアーが登場したのだ。「地球の空は車でいっぱい。本当の星を見るには宇宙しかない」そんなキャッチコピーで、大企業が大儲けした。宇宙ホテルの建設ラッシュが始まり、株価は急騰した。皮肉なことに、人類は星を見るために地球を離れる時代になったのだ。
さくらが中学生になった頃、彼女は作文でこう書いた。「私の夢は宇宙飛行士になって、本物の星を見ることです。パパが子どもの頃は地上から星が見えたそうですが、今は空が車でいっぱいです。でも宇宙なら、きっと綺麗な星がたくさん見えると思います」
大地はその作文を読みながら、胸が痛んだ。娘にとって「星を見る」ことは壮大な冒険であり、多額の費用を要する特別な体験になってしまった。自分が子どもの頃は、庭に出て空を見上げるだけで済んだことなのに。
それから数年後、さくらが高校生になった春の夜。親子で久しぶりに外に出て空を見上げた。頭上には相変わらず無数のスカイカーが浮かび、赤や青の光を点滅させている。騒音は以前より増し、会話するには声を張り上げる必要があった。
「パパ、やっぱり私、宇宙飛行士になりたい」さくらは真剣な表情で言った。「本物の星空を見て、みんなに教えてあげたいの。昔の人がどんなふうに星を見ていたか」
大地は娘の決意に満ちた横顔を見つめた。彼女の夢は素晴らしいが、同時に悲しくもあった。星を見るために宇宙に行かなければならない時代。それが「自由な空」を手に入れた人類の到達点だった。
大地は苦笑しながら空を見上げた。そこに輝いていたのは、星でも月でもなく、空飛ぶ車のランプだけだった。五年前、人々が夢見た「自由な空」は確かに実現した。しかしその代償として、本当に自由だった空――静寂と星空に満ちた空――を失ってしまった。
人類は空を征服したつもりでいたが、実際には空を汚染しただけだった。三次元の自由を手に入れた結果、三次元の牢獄を作り出してしまった。そして皮肉なことに、最も美しい夜空を見るためには、今や地球そのものから脱出しなければならなくなったのである。
「自由に空を走れる時代になった」と人々は誇らしげに語る。「星を見上げる夢は叶った」と企業は宣伝文句を謳う。ただし、その星はテールランプだった。
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