【相反ゲーム業界恋愛短編小説】アナログ・ハート、デジタル・ソウル ~黒い森とネオンの恋文~(約18,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

序章:黒い森の魔女とネオンの王子


 その森は、黒かった。


 ドイツ南西部、ライン川とネッカー川に挟まれた広大な森林地帯。シュヴァルツヴァルト――黒い森と呼ばれるこの地は、グリム童話の舞台としても知られている。密集したモミの木々が昼なお太陽の光を遮り、地面は常に深い影に覆われている。森の奥深くでは、今でも野生の鹿やイノシシが静かに息づいているという。

 

 私の工房は、その黒い森の心臓部にひっそりと佇んでいた。

 

 朝靄が立ち込める午前五時。私はいつものように工房の扉を開けた。木製の重い扉が軋む音は、百年前から変わらない。この建物は曾祖父の代から受け継がれてきたもので、梁や柱には当時の職人たちの斧の跡がまだ残っている。

 

 工房の中には心地よい木の香りが満ちている。カエデの甘い香り、ブナの清涼な香り、オークの重厚な香り。それぞれの木が持つ固有の密度と木目、そして何より「声」がある。私はその一つひとつと対話するように、小さなノミを走らせる。木材の繊維に沿って刃を進めるとき、まるで木が喜んでいるかのような、かすかな振動が手に伝わってくる。

 

 私の名前はエルザ・シュミット。三十二歳。


 百年の歴史を持つアナログゲーム工房「HolzSpiel(ホルツシュピール)」の四代目にして、ゲームデザイナー。ミュンヘン工科大学で数学を専攻し、確率論と組み合わせ理論を学んだ後、この森に戻ってきた。都会の喧騒から離れ、祖父クラウスから受け継いだ技術と、現代的なゲーム理論を融合させることが私の使命だと信じている。


 作業台の上には、制作中のゲームボードが広げられている。北欧神話をテーマにした新作『ラグナロクの黄昏』。九つの世界を表現した六角形のヘックスタイルが、複雑な幾何学模様を描いている。各タイルは異なる木材で作られており、アースガルドは神々しい白樺、ミッドガルドは人間らしいブナ、ヨトゥンヘイムは巨人の力強さを表すオークといった具合に、素材そのものが物語を語っている。

 

 私の作るゲームに電気はいらない。


 必要なのは一枚のゲームボードと、いくつかの木製のコマ、そして何よりも大切な、顔を突き合わせて笑い合う人間の温もりだけだ。

 

「ゲームとは、人と人が繋がるための小さな祝祭である」――これは祖父クラウスの言葉だった。第二次世界大戦後の荒廃したドイツで、人々の心を癒すためにボードゲームを作り始めた彼の哲学は、私の血肉となっている。

 

 だから私は、あのけばけばしい光と音の洪水を軽蔑していた。eスポーツとかいう、あの魂のないデジタルドラッグを。


 画面の中で繰り広げられる虚構の戦いに、どんな意味があるというのか。人工的な光に照らされた若者たちが、マウスとキーボードを必死に叩く姿は、私には工場のベルトコンベアで働く労働者のようにしか見えなかった。


 その頃、数千キロ離れたソウルの夜は、ネオンの光で眠らずにいた。

 

 江南区のテヘラン路に立ち並ぶガラス張りの高層ビル群。その一角にある巨大なゲーミングハウスの最上階。壁一面のOLEDモニターが放つ青白い光が、一人の青年の怜悧な横顔を照らし出している。画面には無数のデータが流れ、選手たちの心拍数、反応速度、マウスの移動軌跡まで、すべてが数値化されリアルタイムで解析されていた。

 

 彼の名前はパク・ジン。二十八歳。


 韓国のトップeスポーツチーム「Gen-Genesis」のプロデューサー兼ヘッドコーチ。かつては「Lightning」の名で世界を席巻した伝説のプロゲーマーだったが、二十三歳の若さで突如引退し、指導者の道を選んだ。その理由を知る者は誰もいない。

 

 彼のヘッドセットから冷静で的確な指示が飛ぶ。

 

「No.3、敵のリスポーンまであと3.2秒。その間にBサイトを制圧しろ。No.5はウルトを温存。次のラウンドのカウンターに使う。敵のエコノミーは2,300。フルバイは不可能だ。次はフォースバイを仕掛けてくる」

 

 彼の世界はコンマ1秒の反射神経と、AIが弾き出した完璧なデータ分析で成り立っている。秒間十回のクリック、百分の一秒単位での判断。人間の認知能力の限界に挑戦し続ける極限のスポーツ。それがeスポーツだった。

 

 彼にとってゲームとは、人間の能力の限界を超えるためのスリリングな挑戦だった。感情や運といった不確定要素はただのノイズでしかない。勝利の方程式は常に明確で、そこに曖昧さが入り込む余地はなかった。

 

 だから彼は、あのサイコロを振るだけの古臭い遊びを見下していた。ボードゲームとかいう、運に左右される子供のおもちゃを。六面体の立方体が転がる軌道など、初期条件と物理法則さえ分かれば完璧に予測可能だ。そんな原始的な乱数発生装置に頼るゲームに、どんな競技性があるというのか。


 黒い森の女と、ネオンの街の男。


 一方は木の温もりと対話し、もう一方は光の速度と競争する。


 決して交わるはずのなかった二つの世界。


 だが運命のサイコロは、すでに投げられていたのだ。

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