Chapter5

Irreversible Time

 遠い昔の夢を見た。

 滅多に会えないパパが珍しく家にいて、早朝に散歩に連れていってくれた時の夢だ。


 大きな温かい手を握って、まだ人気ひとけのない道を一緒に歩いた。家から少し歩いたところにある公園だ。何を話したかは覚えていない。足が少し痛くなったけれど、パパと手を繋いで歩くのが嬉しくて、ずっと手を繋いでいたかった。


 散歩から帰るとママも起きていて、プレゼントがあるよと二人が微笑んだ。部屋へ戻ると、ベッドには大きなウサギのぬいぐるみが座っていた。モカグレーの優しい色で長い垂れ耳、ベージュのリボンの——。


「パパ……」


 ミアはウサギのぬいぐるみを抱き締めて頬を埋めた。

 涙が溢れて止まらない。


「ママぁ……」


 昨夜に呼ばれた名前が、ぼんやりとした記憶の中に響く。“花澄カスミ”が自分の名前だと分かる。夢の中で二人が、そう呼んでいるから。


 会いたい。


 ミアは強くそう思った。


 ふわりと目の前に光の玉が現れる。それはふわふわと部屋の中に浮かんでいる。


「妖精さん……」


 導いてくれようとしているのが分かる。

 でもミアは動けなかった。フェリクスの傍にいたい気持ちも真実だからだ。


 彼はずっと一緒にいてくれて、今も守ってくれている。身を護るすべも教えてくれた。手を伸ばせばいつだって手を握ってくれたし、寂しい時には抱き締めてくれた。庇ってくれて彼がひどい怪我をしたこともあった。時には軽い喧嘩もしたけれど、求める以上の愛情と安心を与えてくれたのはフェリクスなのだ。


 いつからか、フェリクスを狙って近づく女が大嫌いになった。猛獣みたいだったドロレスも裸で寝室から追い出してやった。フェリクスのことを父親だと思ったことは一度もない。それはどこかで本当の父親がいると分かっていたからなのかもしれない。


 ミアは光の玉から視線を外して寝返りをうった。そこにフェリクスが寝ていると期待してのことだ。だが期待とは裏腹に、ベッドにはミアしかいなかった。シーツに手のひらを滑らせてもひやりと冷たい。ミアが眠った後、すぐに出ていったのだろう。わざわざぬいぐるみを抱かせて。


「……リィのバカ」


 十八歳オトナになるまでは子供でいてくれ、とフェリクスは言うのだ。あんな懇願こんがんするような声で「頼む」と言われれば、あれ以上何もできなかった。ミア自身も混乱で不安定になっている自覚が少しはあった。


「パパに会って話したら、リィのこと分かってくれるかな……」


 記憶の中の父親は、優しく微笑んでいる。きっと分かってくれるような気がする。 


 ミアはしばらく考えた後、涙をぬぐい、ベッドから降りた。




 光の玉に導かれるままに、ミアは一人、街に出ていた。レイモンドたちはまだ寝静まっており、そのうちに起きてそれぞれの家へ帰るだろう。フェリクスは車庫のソファで寝ており、ミアは彼に何も言わずに、携帯電話スマートフォンだけ持って出てきたのだった。


 ぐんぐんと光の玉は飛んでいく。

 それを追いかけ、ミアは知らない道を駆けた。


 三十分は歩いただろうか。早朝とはいえもう暑い。

 ビル街から抜けたと思ったら、目の前は広そうな公園だった。石造りの門があり、そこには『サム・ヒューストン・パーク』とある。周囲を見渡すと、最上階がいびつになっているエンパワービルも見ることができた。仕掛けた通り、時限式爆弾は派手に爆発したようだ。


 光の玉は公園内へ入っていく。それを追って芝生の上をいくと、金髪の男がたたずんでいた。ダークグレーのスーツ姿の彼は、晴れやかな早朝の空を見上げているようだ。光の玉はいつの間にか消えている。


「……パパ?」


 呼び掛けた声は少し震えてしまった。

 驚いたように双肩を震わせた男が、振り返って目を見開いた。そうだ、パパは青空みたいな瞳だった、とミアはまた一つ思い出していた。


 夢で見た姿と、目の前の男の姿が重なる。

 少し歳を取っているが、彼が父親に違いない。


花澄カスミ?」


 呼ばれた名前に、懐かしさと嬉しさが込み上げた。視界が涙で歪む中、ミアは喜びに満ちた眼差しと共に広げられた父親の両腕の中へ飛び込んだ。


「パパ、パパ!」

「花澄……!」


 強く抱き締められる感覚。フェリクスとはまた違う、優しい温もりだ。

 涙混じりの声が、胸に沁みていく。


「夢じゃないだろうね? ああ……! 会いたかったよ花澄……! よく生きていてくれた、本当に、よく生きて……」

「パパ」

「一人にして本当に悪かった。怖い思いをしたろうね、でももう大丈夫だよ。お家へ帰ろう。ママも待っているんだ。花澄の弟も待っているんだよ」

「ママ……、と、おとうと?」


 弟がいた記憶はない。でも、いるのだろう。

 ミアは早く会いたい気持ちになった。幼い頃の記憶はおぼろげだが、母親の優しい笑顔を覚えている。ちょっとドジなところもあって、よく一緒に笑いあったのを思い出す。弟は可愛いといい。きっと、可愛いに違いない。


 でも——、このままでは帰れない。


「パパ、あのね、お話ししたいことがあるの」


 父親の胸元から顔を上げ、ミアは傍近くに見えた東屋ガゼボを指差した。




 東屋ガゼボに備え付けられているベンチに、ミアはグレン——記憶を失くしていたことを告げると、父親は名前をグレン・マコト田中タナカだと教えてくれた——と隣り合って座った。グレンの体はミアに向けられており、ミアも彼の顔が見えるよう座り直した。


 グレンが一枚の写真を取り出して見せてくれ、ミアはそれを手に取って見つめた。若い父親と母親に抱き締められているのは、嬉しそうに笑う幼い自分だ。この時、家で一緒に遊んでくれたお姉さんがいた気がする。


「教えてくれるかい、花澄。これまでどうしていたのか」


 そう促され、ミアは頷いて口を開いた。


 十年前、グレンが携帯電話に出て傍を離れてすぐ、“妖精さん”が現れて後をついて行ったこと。周囲が怖いことになって、行き着いた地下駐車場で“ウサギさん”に助けられたこと。それからずっと一緒に暮らしてきたこと。


 話している間、グレンは言葉を発さなかった。言葉にならない声を漏らして頭を抱えていたが、簡単に説明し終えると、グレンの顔が上がった。向かってくる青い目は細められ、眉はひそめられている。


「その、花澄。妖精さんというのは……どんなものなんだい?」

「あ! えと、妖精さんは、手で掴めるくらいの大きさの、光の玉みたいなの。ふわっと現れて、道を教えてくれるの。パパのところへも、妖精さんが連れてきてくれたんだよ!」


 興味を持ってもらえたことが嬉しくて、ミアは身振り手振りを加えて説明した。


「それは、いつから?」

「ん~、覚えてないけど、ずうっと前だと思う」


 母親には、何を見てるの? と聞かれたことがあるのを思い出した。妖精さん! と言ったら困った顔をしていた。


「そうか……。そのことを詳しく知っているのは?」

「ウサギさん」


 そう言うと、グレンがまた難しい顔をした。


「あのね、ウサギさんはあたしに謝ってくれたし、ちょっと不器用なところもあるけど本当にやさしい人なの。あたし、ウサギさんが一緒にいてくれたから寂しくなかったんだよ。だから、パパ。ウサギさんと仲良くしてほしいの。あたし、ウサギさんのこと——」

「仲良くなんてできるものか!」


 強く両腕を掴まれ、ミアは驚いてグレンを見上げた。怒りを宿した青い瞳に、心臓が跳ね上がる。


「そのウサギはお前を助けたかもしれないが、お前を閉じ込めて洗脳した男だぞ。お前を犯罪に加担させて利用している。学校にも通わせてもらってないんだろう? 通っていれば、もっと早く見つけられた。意図的にあいつはお前を隠していたんだ!」

「で、でも、でも、勉強はおばあちゃんやおじいちゃんが教えてくれるよ。たくさん本も貸してくれるよ。ウサギさんは銃のお手入れとか撃ち方とか色々教えてくれたし、おじいちゃんは爆弾作りの先生なの。あそこのビルの上、うまくドッカーンといったでしょ? あれ、あたしが——……、パパ?」


 分かってもらおうと必死で言葉を紡いていたミアは、グレンの表情の変化に戸惑った。怒っていると感じたグレンの瞳からは涙が溢れ、しかめられた顔を濡らしている。抑えきれなかった感情を乗せたような溜息が、彼の口から吐き出された。


 ベンチから降りたグレンが正面に膝をつき、強く抱き締めてくる。それをミアは困惑しながら受け止めた。


「かわいそうに……、かわいそうに、花澄……っ、一刻も早くお家へ帰ろう。そんなことは全部忘れるんだ、普通に学校へ行って、正しいことを学んで、お友達と遊ぶんだよ」


 グレンの涙混じりの声で語られることは、ミアにはよく分からなかった。


 普通に学校へ行くってなに? 正しいことってなに? お友達ならもういるよ? エドもバディもナラも大切なお友達だよ? スタンもいるし、マッコイは昨日一緒に遊んでくれたよ?


「パパ、あたしは……」

「花澄。ウサギは犯罪者なんだ。花澄の人生で関わり合いになる必要のない男なんだ。お前の人生を狂わせたんだ。でも大丈夫だよ、元の生活に戻って、元の花澄に戻るんだ」

「もと、の……?」

「そうだよ、花澄。僕がなんとしてでも守るから、何も心配しなくていいから」

「パパ……」


 体を離して見つめてくるグレンを見て、ミアは胸がえぐられる思いがした。


 大好きだった青空色の瞳は哀れみをたたえ、ではなく遠い過去の花澄を求めている。たまにしか会えないから、ママから聞く優しいパパになるべく家にいてほしくて、いい子でいようとしていた花澄だ。たまには我が儘を言ってぬいぐるみを買ってもらったけれど、パパが一緒に遊んでくれる方がずっと嬉しかった。


「パパは……、あの頃の花澄に戻って欲しいんだね?」


 苦しい胸の内から、ミアはグレンに問いかけた。答えの分かっている問いかけだと知りながら。


「そうだよ、間違いを正す時なんだ、全て間違っていたんだよ花澄。全部やり直そう。だから、僕と一緒に帰るんだ」


 グレンから返された言葉は、ミアにとってはやいばのように感じられた。痛くて痛くて、悲しい。会えて嬉しかったのに、今はただただ苦しい。


「今のあたしじゃだめなんだね、パパ? パパのことを忘れていたのは悪かったけど、あたしはあたしなりに頑張ってきたんだよ? それなのに、全部否定するの?」


 目を見張ったグレンの顔が、込み上げた涙で歪み見えなくなった。喉が震え、声が詰まる。


 あたしは間違っている存在なの? パパは、あたしミアらないの? 会いたかったって言ってくれたのに。生きていてくれて良かったって言ってくれたのに。


「花澄、僕は――!」

「はなして!」


 ミアはグレンの胸を強く押し退け、立ち上がって距離を取った。


「パパ、あたしは、かわいそうじゃないよ。ウサギさんも、おばあちゃんも、おじいちゃんも、みんな、あたしを可愛がってくれたの。たくさん、たくさん、可愛がってくれたんだよ……」


 だから、あたしはこうして笑えるの。

 しあわせな思い出がたくさんあるから。


「ごめんね、パパ」


 ミアは微笑んだ。

 驚いた顔をしているグレンにきびすを返し、駆け出す。


「ま……、待ってくれ! 花澄……!」


 グレンの呼び声が追ってくるが、止まれない。

 泣き声を上げるのをこらえながら、ミアは歪む視界の中を駆けた。


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