担任が義姉になりまして――恋愛未経験の俺が“先生役”に任命されました。

零壱

第一部

第1話 先生と同居、はじめました

 俺の名前は久遠悠真くおんゆうま

 どこにでもいる、ごく普通の高校二年生――と、言い切れるはずだった。


 新学期。新任の担任は美人で真面目で、ちょっとだけ天然。

 黒板にチョークを走らせる手はきびきびしているのに、書き終わるたびに自分の手元を見失ってチョークをどこへ置いたか忘れるタイプ。顔に白い粉がついても気づかないタイプ。

 その名は、雪村遥ゆきむらはるか


「久遠、ちゃんとノートは取ってる?」

「はい、先生」


 思わず返事が硬くなる。先生が黒板の左下にきれいな字で日付を書き込む。その横顔は、きりっとしていて隙がない……はずなのに、よく見ると頬にうっすらチョーク粉。


(ああ、まただ)


 俺は筆箱から小さなポケットティッシュを引っ張り出して、さりげなく差し出しかけ――


「おい悠真、見惚れてんじゃねえよ」


 ぐいっと袖を引っ張ってくるのは、幼なじみの篠倉大輝しのくらだいき。お調子者で、クラスの空気を一瞬で変える男だ。


「違うわ。見惚れてねえ」

「でも鼻の穴、ちょっと膨らんでたぞ。あと、そういやさあ、お前、恋愛経験豊富って言ってたじゃん? そういうの、先生の前では自重しろよ?」

「……俺、そんなこと言ってたっけ」

「言ってた。俺、耳がいいから覚えてる」


 なんてことだ。

 そういえば俺は、父さんに見栄を張って「恋愛経験くらいそれなりにある」みたいなことをふわっと言った。父さんが「思春期の息子とどう距離を取ればいいか」的な相談をはじめたとき、気恥ずかしさのあまり逃げ道を探して口が滑ってしまったのだ。

 それがなぜか大輝にまで伝わって、クラスの噂にまで育ってしまっている。実際のところ、告白もデートも、映画の中でしか経験したことがないというのに。


「久遠、質問は?」

「え、あ、いえ、大丈夫です」


 雪村先生――いや、この時点では“先生”でいい――は首をかしげて笑い、白い粉に気づかないまま板書を続けた。黒板の最後の一行が少し曲がっていて、そこが何だか人間味があって、俺は勝手に親近感を覚える。


(……いや、だからといって見惚れてたわけじゃないからな?)


 自分で自分にツッコミを入れながら、俺はノートに「見栄は身を亡ぼす」と小さく書いた。こういう箴言しんげんは、後で見返したときにだいたい役に立たない。


 放課後。

 昇降口で靴を履き替えていると、スマホが震えた。画面には「父さん」。珍しく通話だ。


『悠真、今日、早めに帰ってこられるか? ちょっと話がある』

「話?」

『うん、まあ、明るい話だ。楽しみに帰ってきなさい』


 明るい話。父さんがそう言うときは、たいてい予想外の方向に明るい。照明のスイッチと間違えて爆破ボタンを押すタイプの「明るい」。

 胸騒ぎを抱えながら上履きをローファーに押し込み、校門を出たところでまた大輝に捕まる。


「なあなあ、今日ゲーセン寄らない?」

「悪い、今日は用事」

「お、デートか? 恋愛経験豊富様?」

「その設定、忘れろ」


 軽口を交わして別れた。春の風は思ったより冷たくて、予感みたいなものをいっそう鋭くする。


 家の玄関を開けると、いつもと違う匂いがした。

 甘い。リビングから漂う紅茶とケーキの匂い。

 父さんはスーツにエプロンを重ねて、妙にきちんとした顔で俺を迎えた。


「おかえり、悠真。座ってくれ」

「……なんか、雰囲気が刑事ドラマの取り調べ室なんだけど」

「そんなに怖い話じゃないよ」


 父さんは、紅茶のカップを俺の前に置き、間を取ってから言った。


「実はな、再婚することになった」


 心臓が一拍、跳ねた。

 驚くべきことではあるけれど、完全に想定外でもない。父さんが誰かとまた笑えるなら、それは喜ぶべきことだ。

 ただ、次の一言は、本当に想定外だった。


「相手には娘さんがいてね。その子も、今日来てくれてる」


 リビングのドアが控えめに開いて、見慣れた顔が現れる。


「……雪村先生?」


 いや、“先生”は今日に限ってラフなカーディガンとジーンズ。髪もほどけて、学校とは別人みたいに柔らかい。

 けれど、間違いようがない。


「えっと……これからは“お姉さん”って呼んでくれたら嬉しい、かな。久遠くん……じゃなくて、悠真くん」


 何かのドッキリ番組なら、ここで「カメラ回ってます!」の看板を掲げてくれ。心の準備ってものがあるだろ。


「ちょっと説明が足りなかったな」

 父さんは頭をかきながら続けた。

「お相手は、雪村千景ゆきむらちかげさん。彼女の娘さんが遥ちゃんで――」

「――その、はい。私が、悠真くんの担任だった雪村遥です。ええと、今日からは、義理の姉……になります」


 口に出すたびに現実味が増す。

 再婚。それ自体は喜ばしい。けれど、担任が、義理の姉。

 学校では先生。家ではお姉さん。

 脳内の関係図がぐるぐる回り始めて、俺は反射的にソファに倒れ込んだ。


「と、とりあえずご飯にしようか!」

 父さんが明るく声を張る。こういうときの父さんの「とりあえず」は、だいたい全部を曖昧にして先送りする魔法の言葉だ。


 テーブルには、から揚げ、ポテトサラダ、みそ汁、炊きたてのご飯。

 千景さん――義母になる人――は顔立ちが穏やかで、手際が良く、台所に立つ姿がしっくり来る。

 四人で「いただきます」をして、沈黙が降りた。


「おいしいです」

 俺が率先して口火を切る。

「よかった。遥、緊張して食べられてないじゃない」

「い、いえ、食べてます。うん、おいしい。ね、悠真くん」

「は、はい」


 先生が俺に“くん”付けで話しかけるの、家だと妙にこそばゆい。

 箸先が震えて、から揚げを落としかける。


「悠真なら大丈夫だ。なにせ、恋愛経験も豊富だし、女性との暮らし方も心得てるだろう?」


「ぶほっ!」


 みそ汁が危うく気管に入りかけた。父さん! その爆弾発言、今ここで投下する!?

 遥が箸をぴたりと止め、こちらを見る。なぜか頬がほんのり赤い。

 千景さんは「あらまあ」と微笑ましげに目を細めている。

 頼むから誰か、事実確認という概念を思い出してくれ。


「そ、そうなんだ……悠真くん、頼りになるね」

「いや、その、まあ、その……」

 俺は海藻の欠片みたいにふにゃふにゃと曖昧に頷いた。今さら「嘘でした」は言い出しづらい。というか、言えない。


 食後、食器を片づけていると、父さんと千景さんが揃ってコートを羽織った。


「二人とも、悪いけど、ちょっと出かけてくるよ」

「え?」

「新婚旅行の準備というか、あれこれ手続きもあってね。数日、家を空けるけど……大丈夫だよね、二人なら」


 待て、そのフラグの立て方はやめてくれ。

 俺と遥――二人きり。

 玄関の扉が閉まる音はやけに大きく感じられた。

 静けさが落ちて、リビングの時計の秒針だけがやたらと主張してくる。


「……その、改めて、よろしくね」

「よ、よろしくお願いします」


 改まって向き合うと、なおさら気まずい。

 学校では先生。家ではお姉さん。

 俺の脳内に「混乱」の赤ランプが点灯中だ。


「まずは、生活のルールを決めようか」

 遥が真剣な顔で言った。先生モードが出ている。

「学校では、今まで通り“先生”と“生徒”。家では、対等な“姉弟”。これは必ず守る。いい?」

「了解……です、姉さん?」

「う、うん。家では“遥”でいいよ」

「は、はる……遥」


 舌がもつれて、名前を呼ぶだけで顔が熱くなる。なにこれ、羞恥プレイ?


「あと、洗濯は曜日で分けよう。月・水・金は私、火・木・土は悠真くん、日曜は一緒にシーツ。お風呂は帰宅順。共有スペースは二十二時以降は静かに。ゴミ出しは――」

「すごい、細かい……」

「教師ですから」


 メモを取りながら、俺はふと、こんなふうに淡々と生活のルールを決める“家族会議”を、ずっと前にもしていた気がするのを思い出した。母さんがいた頃、まだ小さかった俺に、家の手伝いの分担表を作ってくれた。あのときの紙は、どこへ行っただろう。


 決め事が一段落すると、自然と沈黙が落ちる。

 テレビをつけても、内容は入ってこない。

 俺はジュースの缶を指で回して、遥はマグカップを両手で包むように持っている。


「……あのね、悠真くん」

 先に口を開いたのは遥だった。

 家の灯りの色は、学校の蛍光灯より柔らかい。声も、いつもの教室より少しだけ低めで、心なしか頼りない。


「さっき、お父さんがおっしゃってたこと……その、恋愛のこと」

「…………」

「もしよかったら、私に、教えてくれないかな」


 来た。さっきから視界の端で点滅していたフラグが、今まさにカチリと音を立てた。


「私、恋愛経験がなくて。学生のときは勉強と部活で手一杯で、社会人になってからは仕事を覚えるので精一杯で。今さら誰にも聞けなくて……でも、教師として、生徒に人生のことを語ろうとするなら、私自身が何にも知らないのは、よくないと思うの」


 遥は言葉を選ぶように、ゆっくり話した。

 正論だ。まっとうすぎて、逆に胸が痛い。


「頼れるのが、弟っていうのも変かもしれないけど……悠真くんは、その、経験……あるんだよね?」


 やめてくれ、そのキラキラした目で見ないでくれ。

 俺の背中に冷や汗が流れる。ここで「ありません」と言えば、全部丸く収まるかもしれない。でも、父さんに見栄を張った手前、格好がつかない。何より――目の前の人は、真剣に助けを求めている。


「……わかった。できる限り、教えるよ」


 言ってしまった。

 引き返せない川を、今、渡った。

 俺の頭の中では、警報が鳴っている。「経験ゼロが何を教えるんだ、バカ」と。

 でも、口から出た言葉は取り消せない。


「ありがとう!」

 遥はぱっと笑った。学校で見せる整った笑顔じゃなくて、肩の力が抜けた、年相応の笑顔。

 それだけで、うっかり「まあ何とかなるだろ」とか思ってしまう自分が憎い。


「それで、最初の授業なんだけど……どうしよう。やっぱり“デート”かな?」


「デ、デート!?」

「いきなり難易度が高い? えっと、じゃあ目標を分解して……“会話の練習”から? “褒め方”“断り方”“連絡の頻度”とか……」


 完全に先生の顔だ。ホワイトボードでも用意したら、すぐにでも板書をはじめそうだ。

 俺は慌てて手を振った。


「ちょ、ちょっと待って。まずは、基本からいこう。恋愛っていうのは、その、相手を知るところから始まるというか」

「なるほど。自己紹介の深掘り?」

「まあ、そう。好きな食べ物とか、休日の過ごし方とか、そういう“日常の共有”が大事、だと思う」


 言いながら、心の中で土下座する。俺の“知識”は全部、ネット記事と漫画とドラマだ。

 それでも、遥は真剣に頷いている。ノートまで取り出して「日常の共有」と書き込んだ。


「じゃあ、今度の土曜日。昼から、一緒に出かけない?」

「え」

「デート、じゃなくて、フィールドワーク。恋愛レッスンの実地研修。場所は……駅前のショッピングモール。人が多すぎず、座れる場所もあるし、練習に向いてると思う」


 フィールドワークって言った。教師用語は何でもカッコよく聞こえるからずるい。


「それと、ルールを決めよう」

 遥はペンを構えた。

「一、学校ではこの話題を出さない。二、危険なことや境界を越えることはしない。三、どちらかが嫌だと感じたら、すぐに中止する。四、家族に嘘はつかない――あ、これは難しい?」

「少なくとも“詳細はぼかす”方向で……」

「わかった。“必要以上に詳細は語らない”。五、週に一度は振り返りミーティングをする。――どう?」


「完璧です、先生」

「家では“遥”」

「……完璧です、遥」


 なんだろう、心臓に悪い。

 俺はソファに背中を預けて、大きく息を吐いた。


「そういえば、部屋のことなんだけど」

 遥が立ち上がる。

「こっちが私で、こっちが悠真くん。クローゼットのスペース、半分は空けてくれてるから使って。あ、洗面所の棚、私の化粧品が多いから上段を私、下段を悠真くんにするね。歯ブラシは色分けして――」


 案内されて廊下を歩く。

 部屋のドアには小さな名札。千景さんの手書きらしく、ゆるい猫の絵が添えてあって、少し笑ってしまう。

 俺の部屋の隣が遥の部屋。近い。近いけど、壁はしっかりしていて、物音はあまりしない。よかった。


「じゃ、今日は早めに休もうか。明日も学校だし」

「そうだな」


 自室に戻り、ベッドに倒れ込む。天井の木目を数えながら、スマホを取り出すと、大輝からメッセージが来ていた。


《おい、今日の“明るい話”って何だった?》

《言っていいのかわからん。たぶん言ったら俺の人生が二度と普通に戻らない》

《プロポーズでもしたの?》

《俺が? 誰に?》

《知らんけど、その顔文字の奥に深い闇を感じる。とりあえず、恋愛経験豊富の伝説は更新しとくな》

《やめろ》


 スマホを伏せる。

 窓の外は春の夜。遠くの踏切が、ゆっくりと鳴っている。


(……本当に、やれるのか、俺)


 未経験のくせに、“先生”になる。

 嘘から始まった頼られ役。

 けれど、頼られるのは嫌いじゃない。誰かの役に立てるなら、頑張ってみたいと思う自分もいる。


 ノックの音。二回、間をおいて一回。

 ドアを開けると、パジャマ姿の遥が、少し恥ずかしそうに立っていた。薄い水色のパジャマ。ちゃんと膝までの長さ。健全。健全だけど、心臓には悪い。


「ごめん、もう寝てた?」

「い、いや、起きてる」

「これ、さっき決めた“レッスン”の仮カリキュラム、まとめてみたの。明日、学校の帰りに少しだけ打ち合わせできる?」

「……早い」

「教師ですから」


 手渡されたノートには、びっしりと見出しが並んでいた。


 ――第1回:日常会話のキャッチボール/“質問の質”と“返答の温度”

 ――第2回:褒め方と感謝の伝え方/誠実さの速度

――第3回:距離感の測り方/パーソナルスペースと気遣い

 ――第4回:誘い方と断り方/相手の都合の尊重

 ――第5回:ちょっとだけ勇気を出す練習(※安全確保)


 最後の行に小さく書いてある「※安全確保」が妙に先生っぽくて、笑いそうになる。

 それから一番下に、小さく付箋。丸い字で、こう書いてあった。


 ――“嘘”は、いつか正直に。


 胸がちくりとした。

 見上げると、遥はまっすぐに俺を見ている。責める目でも、縋る目でもない。

 そのまっすぐさが、ずるい。


「無理にとは言わないから。私も、私のこと、ちゃんと言うから」

「……うん」


 ドアが閉まって、静けさが戻る。

 ノートを胸に乗せたまま、俺は目を閉じた。

 明日の授業は、一時間目が英語。二時間目が数学。三時間目が――恋愛。


 いや、それは放課後だ。放課後。

 落ち着け、俺。


 目覚ましを二つ設定して、部屋の灯りを落とす。

 暗闇の中、天井の木目は見えなくなって、代わりに心拍だけがはっきりした。


(嘘から始めた以上、責任を取るのは俺だ)


 覚悟なんて大げさなものはまだない。ただ、逃げないと決めるだけ。

 そうして、春の夜は静かに更けていく。


 ――翌朝。


 いつもより早く目が覚めて、階下に降りると、キッチンからいい匂いがした。

 トーストの香りと、スクランブルエッグ。

 エプロン姿の遥が、慣れない手つきでフライパンを揺らしている。

 学校の先生が台所にいる。それだけの光景なのに、世界の見え方が少し変わる。


「おはよう、悠真くん。……じゃなくて、おはよう、悠真」

「おはよう、遥」

「言えた」


 小さな達成感みたいな笑顔。

 朝食を食べながら、今日のスケジュールを確認する。

 学校では距離を保つ。家では自然体で。放課後は、レッスンの打ち合わせ。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい。廊下、走らないでね」

「先生、それ学校のセリフ」


 二人で笑って、玄関を出る。

 春の空気は昨日より少しあたたかい。

 日常は、案外、何も変わっていない顔をしてやって来る。

 けれど、俺の胸の中では、確かに何かが動き出していた。


 嘘と、約束と、レッスンの第一歩。

 担任で、義理の姉で、ちょっと天然な彼女と、俺の――“恋愛授業”。


(第一回、放課後。逃げるな、俺)


 靴音が、通学路に軽く響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る