第2話 思い出の神様(2)
「
菊理様は勝手知ったるなんとやらで、祖父母の自宅へ続く引き戸を開ける。
「お帰りなさいませ。白山、今日はよく歩けました?」
「うん。たまに物思いに耽っていたけれど」
祖母は濡れタオルを菊理様に渡し、菊理様は慣れた様子で白山の脚を拭いてやっていた。
全ての脚を拭き終わった白山は、やれやれと言いたそうな様子で家に上がり、のそのそと居間へと向かう。
「菊理様、この後お茶でもいかがですか?」
「いいですね」
「佐保を部屋に案内したらすぐにいれますので」
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
二人のやり取りをぼんやりと眺めていると、祖母に名前を呼ばれ、慌ててスーツの取っ手を掴んで家に上がる。
階段を慎重に上って、祖母に先導され突き当たりの角部屋へと向かう。かつて母が使っていた部屋だ。
勉強机や本棚は母が使っていたもので、本棚には母の蔵書が並べられている。
布団は私が来る前に干してくれていたようで、見るからにふっくらとしていた。
「何か足りないものがあったら何でも言いなさいね」
空気の入れ替えのために、祖母が窓を開ける。ひんやりとした部屋の空気に、春のあたたかな空気が混ざりあって、なぜだかホッとする。
「なんであんな目立つ人の事忘れてたんだろう……」
「菊理様のこと?」
「うん。なんとなく覚えてたけど、あんな強烈な印象の人、普通忘れられないと思う」
いくら会ったのが十年前とはいえ、その時の私は十歳だ。流石に物心ついている。
それなのにきちんと覚えていられなくて、自分の記憶力の無さに驚く。あの頃は一体何に興味を抱いていたのやら。
「常に接していないと神様との記憶は薄れるのが普通よ。そうでないとあの美しさでは人の人生を簡単に狂わせてしまうもの」
「なるほど……」
確かに一理あるなと頷く。
「ほら、たまに信じられないタイミングで良い事が起こる時とかあるでしょう。あれは大体神様の仕業よ。視えていないから、偶然と思う人が多いだけ。視えていないけれど、確かにいらっしゃるのよ」
神様はいる。
これほどのパワーワードはおいそれと聞いた事がないが、本当なのだから仕方ない。
「人は忘れることで生きていく生き物だから、忘れることは悪いことじゃないのよ。嬉しい気持ちも悲しい気持ちも、確かにあったことは思い出せるのに、もう一度経験することは難しいものだわ。でも、ずっと悲しい気持ちを覚えている事は多くの人にとっては辛い事だから、忘れる事は人が生きていく上で必要な事なのよ」
悲しい気持ち、と言われて今の私が思い出すことは一つだった。
ふとした時に思い出しては、どうしようもないことをずっと考え続けている。
過ぎ去った事を変える事はできないと言うのに、あの時こうしていたら、あの時こう言っていれば、とたらればを考え続けては、変えられないことに絶望する。
思い出すたびに情けなくて惨めになり、そしてそう思ってしまう自分自身に腹が立つ。
祖母の言う通り、いつかこの気持ちを忘れられる日が来るのだろうか。
「片付けが大体終わったら下にお茶飲みにいらっしゃいね」
そう言って祖母は階下に降りて行った。
シワになりそうな服だけ先に出してハンガーに吊るしていると、本棚に差されている古いアルバムが目に止まった。
アルバムを手に取ってめくってみると、母の若い頃の写真が貼られていた。学校や友達との写真が主だが、たまに若かりし頃の祖父母の姿もある。
その中でただ一人、容姿の変わらない人がいた。
菊理様だ。
写真は少し色褪せているし、菊理様以外の人は多少容姿が変わっていて時の流れを感じさせられるのに、菊理様だけがさっき会ったままの姿で写真に写っている。
再会した時も人離れした雰囲気を感じたが、改めて人の理から外れた存在なのだと思い知らされた。
服をハンガーに吊るし、荷物を簡単に整理してから手土産も持って一階に降りる。
階段を降りる途中でお茶のいい香りが漂ってくる。
居間では菊理様が背筋を伸ばして湯呑みを傾けていた。その横では白山がドーナツのように丸くなって眠っている。
「あ、降りてきた降りてきた。静江さーん、佐保降りて来ましたよー」
「はいはーい」
菊理様が奥の台所にいるらしい祖母に向かって声を掛ける。
この上なく日常の風景なのだが、菊理様の所だけまるで合成したみたいだった。あそこだけ空気がキラキラしている気がする。
どこに座るか悩んだが、無難に菊理様の反対側にした。少し正面からはずらしたが。
にこりと菊理様に微笑まれて、思わず心臓が跳ねる。何もかもを見透かされているような気がして、少し居心地が悪い。
「緑茶でよかったかしら? ジュース買うの忘れてたのよ」
そう言いながらお盆を持った祖母が居間にやってくる。
「大丈夫。ありがとう」
もう二十歳になるというのに、多分祖母の中での私は十歳の孫のまま時が止まっているのだろう。
「これお土産ね」
手土産の入った紙袋を差し出すと、祖母は目を丸く見開きながら受け取った。
「そんな大人みたいに気を遣って……まぁ! 菊理様見て下さい! ハイカラなお菓子ですねぇ!」
「本当だ。都会にはハイカラなものがたくさんあるんだねぇ」
「ハイカラ……」
手土産に選んだのはティラミス風のパウンドケーキで、お菓子そのものももちろん美味しいし、包装がおしゃれで女子ウケがいいので有名なお店だった。
女子ウケがいいとあって、祖母と菊理様の反応も上々で嬉しくなる。
「お茶請けが洋菓子ならお紅茶にした方がよかったかしら」
「緑茶もさっぱりしていいんじゃない?」
「それもそうね」
細かいことに頓着しないのは我が家の血のようである。
「そういえば真くんが菊理様とおじいちゃんとおばあちゃんによろしくって言ってました」
「ああそうだ、真くんにお礼を言わないと」
「明日病院に行くので私が言っておきますよ」
「いやだわ、菊理様にそんなことさせられませんよ。ちょっと待っていて下さいね」
祖母はスマホを持って台所の方へ向かう。しばらくすると賑やかな声が聞こえて来たので、どうやら電話がつながったようだ。
菊理様と二人っきりで、非常に気まずい。
自分から話しかけることはできないし、もし、聞かれたくないことを聞かれても、なんでもない風をして返せる自信もなかった。
「佐保は今、何が好きなの?」
両手で湯呑みを持った菊理様が首を傾げる。
「ほら、昔は『みらくるりんちゃん』が好きだったでしょう? 今は何が好きなのかなって」
みらくるりんちゃんは魔法少女モノのアニメで、私が小学生の時爆発的にヒットした。当時の私も大好きで、暇さえあればメインヒロインのりんちゃんの絵を描いていた。
あの時描いていた絵は、今の自分からするとつたない所ばかりで恥ずかしい限りだが、描いている間は夢中で楽しかった。
いつから、絵を描くことが楽しく無くなってしまったのだろうか。
「佐保?」
名前を呼ばれてハッと顔を上げる。
菊理様が心配そうにこちらを見ていた。何もかもを見透かしてしまいそうな瞳で。
「あ……」
咄嗟に取り繕う言葉も出て来ず、呆然としていたら台所からパタパタと足音が聞こえた。
「やだわ、つい話し込んじゃって」
ホクホクした表情で祖母がスマホ片手に帰ってきた。
「明日もお待ちしてますって言っていましたよ」
「いい主治医の先生に巡り会えてよかったねぇ、白山」
白山の頭を菊理様が優しい手つきで撫でた。ご主人に撫でてもらえて嬉しいのか、ふさふさのしっぽがパタパタと揺れる。
高齢になった白山は何かと病院にお世話になる頻度は高いだろう。いつでも待っていてくれるという言葉は、いつ何時どうなるか分からない飼い主にとって、これ以上もなく心強い言葉だろう。
「白山は今年で何歳になるんですか」
「今年で十六歳かな」
「じゅ、十六!?」
思った以上に高齢で驚いた。
それにしても白山の毛並みはたっぷりで艶々としていて、足取りは軽やかとは言い難いかもしれないが、しっかりとはしている。
とても十六歳の高齢犬には見えない。
「大型犬にしては長生きで、本当に飼い主孝行な子だよ」
犬を自分で飼ったことはないけれど、いつか先に逝ってしまうと分かっていても、できるだけ長く一緒にいたいという気持ちは簡単に想像がつく。
「白山は菊理様の犬ですから、神様のお近くにいる事もあって殊更長生きなのかもしれませんね。もちろん、真藤先生のおかげでもありますけれど」
「神様の近くにいると寿命が延びるものなんですか?」
「まぁ多少はね。神使になると神と同じ時を生きなければならないから、寿命という概念は無くなるよ」
「白山は神使ではないんですか?」
「うん。白山は神使ではなく、私の飼い犬だよ。神使というのは昔から縁のある動物がなるものだし、私にはそういう方面の縁はないからね」
菊理様は目を伏せて、長い指で白山の毛並みでのの字を書いている。白い頬に長い睫毛の影が落ちて、それこそ日本画の大家が一筆一筆精魂込めて描いた美人画のようだと思った。
「それにしても佐保が手伝いに来てくれて助かったよねぇ。静江さんと私だけでは限界があるし」
「お父さんも心配で起き出して来ちゃうし、人手が増えて本当に助かるわ」
二人はのんびりお茶を飲みながら、私が来たことを喜んでくれる。
もちろん、困っている祖父母を助けたい気持ちは本当だが、ここにやって来た理由がそれだけではないことを後ろめたく思った。
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